第2話:真っ白
俺は智沙の無事を祈りながら受付の看護婦に智沙の病室を聞き出し、今までこんなに走った事は無いってくらい走って病室に駆け込んだ。
「あー、ハルと美咲ちゃんだぁ。どうしたの、そんなに息きらして」
智沙はこっちが拍子抜けするくらいの陽気な声でそう言った。どうやら元気そうだ。
「…どうしたの…って、ちーちゃん大丈夫なの?」
「うん、自忘症って言っても少し物忘れが激しいくらいだもん」
智沙のその言葉に俺はハッとなった。
そういえば昨日、一昨日、智沙は妙に物忘れが激しかった。
今朝は何食べたっけ?・・・とか。何をしようと思ってたんだっけ?…とか。
早く気付くべきだった。
早く気付いたところで、俺には何も出来なかったかもしれないが。
「ハル、ありがとう。心配して駆けつけてくれたのね」
そう言って彼女は少し強く俺を抱きしめた。
智沙の柔らかい匂いが鼻をくすぐった。
俺は泣きたいような気持ちになった。
俺の従姉妹の智沙。
可愛い俺の彼女、智沙。
いつか俺の事も忘れてしまうの?
智沙は俺の事を『ハル』って呼ぶ。
俺の名前は『桜野 つくし』だけど、物心ついた頃からそう呼ばれている。
理由を尋ねると
「だって、まさに”春”って感じの名前じゃない」
と言って、彼女は笑った。
それから「誕生日も4月でしょう?」と付け足した。
俺は何だか妙に納得してしまって、それ以来ずっと『ハル』と呼ばれる事に定着を覚え、呼ばれ続けた。
僕と姉ちゃんは、叔母さんの計らいによって先生に自忘症についての話を聞ける事になった。
「自忘症っていうのは、大きくは記憶障害の一種なんです。アルツハイマー病という、比較的名の知れている病気などもありますが、自忘症はその中で最も危険な病気とされています」
話をしてくれたのは、若い女医だった。
そのせいで(若い先生というのを見て)不安になった僕は、しきりに足を揺する事になってしまったのだが。
「アルツハイマー病との違いは何ですか?」
「大きい違いを述べますと、アルツハイマーは死に至る可能性は低いとされていますが、自忘症は今までの報告によりますと確実に死に至ると…」
女医は気を使ってか、言葉を濁した。
「確…実…?!」
一瞬僕の足は止まったが(それまでずっと揺らし続けていた)揺れが再開した時には、更に大きく揺すられた。
気づいたら姉ちゃんもしきりに指を鳴らしていた。
俺はそれを見て、姉ちゃんは小さい頃から、心配な事があると指を鳴らす癖があった事を思い出した。
「…現時点では、原因も治療法も一切解かっていません」
僕と姉ちゃんは黙って女医の話を聞いていた。と言うより、口を開く事が出来なかったと言う方が正しいだろう。
「唯一解かっているのが、自忘症の進行速度です。少々ややこしい話になりますが、構いませんか?」
姉ちゃんは辛うじて、ほんの僅か首を縦に振った。
「…自忘症の進行レベルは”十”で表されています。レベル一は”言おうとしていた事”を忘れます。レベルニは”建物の場所や帰路”を忘れます。ここまでは割と軽い症状ですので、発見されにくいです。しかしレベル三では”物の使い方”を忘れます。例えばテレビのつけ方が分からなかったり、自転車の乗り方等を忘れたりします」
「あの…っ、ちーちゃ…智沙はどのくらいのレベルなのですか?」
姉ちゃんは擦れた声でやっとの事でそれだけを言った。
女医はいいづらそうに目を伏せた。
「…智沙ちゃんは既にレベル三まで達しています」
言葉を濁しつつ女医は話を続けた。
やっぱり俺と姉ちゃんは何も喋る事が出来なかった。
― やたらと喉が渇く
「レベル四では物事を、レベル五では手足の動かし方を忘れます。レベル五からは大分生活に支障が出てくるので、看護婦は患者につきっきりで面倒をみます。レベル六で他人を忘れ、レベル七で言葉を忘れ、八で体の動かし方を忘れ、九で自分の事を忘れ、…十で目覚める事を忘れます」
女医は耐えられないとでもいうように俺達に背を向けた。
「あの…先生、―…コホン」
ずっと黙っていたせいで上手く喋る事が出来ず、思わず俺は軽く咳払いをした。
「…なんでしょうか?」
女医は俺の方に向き直った。優しい表情だ。
「その…病気の悪化速度みたいなのは、一定なんですか…?」
やっぱり何だか喉が渇いて、上手く喋る事が出来ず掠れた声だったが、始めよりは幾分かマシに話せたと思う。
「…悪化速度はタイプによって異なるんです。今のところは“早熟タイプ”“標準タイプ”“晩熟タイプ”と呼ばれる3つのタイプに分類されます。早熟タイプは発病から死に至るまでの期間が10日、標準タイプは40日、晩熟タイプは70日です。このパターンには一日の狂いもありません。智沙ちゃんがどのタイプかはまだわかりませんが短くてあと一週間、長くてもあと55日の、命です…」
― あぁ、頭の中が真っ白ってこういう状態を言うんだろうな
良くも悪くも感想を頂ければ幸いですm(__m)