「君は強い女だから、わかってくれるよね?」と仰る婚約者様、ええ、強い女なので即断で婚約解消させていただきます
「君は強い女だから、わかってくれるよね?」
リュシアン様の口癖だ。
今日で七十一回目。私は心の中で、しっかりと数を数えている。
呆れを通り越して、もはや感心すら覚えるほどの頻度だった。
手元の扇をゆっくりと閉じて、口角を少しだけ上げる。
白蝶貝と上質なレースで彩られた、私のお気に入りの扇だ。
「ええ、もちろんですわ」
誰が見ても完璧な、淑女の微笑みを浮かべてみせた。
だが内心では、全く別のことを考えていた。
(こっちがどれだけ仕事を前倒しで片付けたと思ってるのよ。人の気も知らないで……。ふざけないで)
今夜は王宮で開かれる、年に一度の大規模な夜会だった。
婚約者である彼と、当然のように二人で出席するはずだったのだ。
だがリュシアン様は今、私の前で申し訳なさそうな顔を作っている。
「セリーヌが、また急に熱を出してしまってね」
ほら来た。お決まりの展開だ。
セリーヌ嬢。子爵令嬢であり、彼の幼馴染で、『病弱』と評判の儚げな少女。
まあ、実際は……言うまでもないわね。
『ごめんなさいねぇ~、アニエス様ぁ。私がこんなにか弱く美しく、儚いばかりに……リュシアン様を独占してしまって……。それに比べて、アニエス様はうらやましいですわ~。野獣のようにお強くて、独立した女性ですものね~。夜会で一人でいるところを笑われても、眉をぴくりともしないとか。うふふ、憧れてしまいますぅ~』
――とは、セリーヌがゲス顔で、私の目の前で吐いた台詞だ。
うん、クソ食らえ。ほんっと、クソ食らえ。
セリーヌはことあるごとにリュシアン様の気を引こうと、嘘の病気をでっち上げる。
その実、誰よりも健康で、図太い女だっていうのは、社交界では誰もが知るところだ。
リュシアン様だけが本気で、セリーヌのことをか弱い花弁のような女性だと思い込んでいた。
(出たよ伝家の宝刀「セリーヌの体調不良」。控えめに言って頭湧いてるのかしら)
私は閉じた扇で口元を隠し、視線をわずかに伏せた。
「セリーヌは僕がいないと、本当に何もできないんだ。君なら一人でも大丈夫だろう? アニエスは強い女だから」
ああ、またその言葉だ。本当にそれしか言えないのか。
私は七十一回目を数えながら、扇の角度を美しく整える。
背後で侍女のマリアンヌが、小さく、しかし鋭く息を吐いた。
普段はおとなしい彼女も、そろそろ限界らしい。
彼女の苛立ちが、ドレスの擦れる音からも痛いほど伝わってくる。
「アニエスなら、一人でも立派に振る舞えるだろう?」
リュシアン様は、私の沈黙を勝手に肯定と受け取ったようだ。
左手にはめられた婚約指輪が、いつもよりひどく重い気がした。
この重さは、彼からの愛情ではない。ただの理不尽な義務の重さだ。
まるで、奴隷の首輪のよう……。
「ええ、わかりましたわ」
私はいつものように、穏やかな笑顔で返す。
決して声を荒げることも、涙を見せることもしない。
リュシアン様が、ほっと安心したように無邪気に笑う。
彼は私の手元には、全く目もくれなかった。
私の扇が、ふわり、と静かに音を立てて閉じたことにも。
リュシアン様が足早に退室した後、マリアンヌが静かに扉を閉めた。
パタン、という乾いた音が応接間に響く。
「お嬢様」
「ええ、わかってるわ」
「今までが、あまりに穏便すぎたのですよ。まったく、あのクソ男ときたら……」
マリアンヌの言葉は少し辛辣で、けれど私に対しては底知れぬ愛情に満ちていた。
「辛辣ね、マリアンヌ」
「事実ですわ。七十一回も同じ目に遭われて、笑顔で送り出すなんて……。お嬢様の我慢の限界は、いったいどこにあるのかしらと」
私はゆっくりと窓際に立ち、夜の庭園を見下ろした。
月明かりに照らされた指輪の重みを、改めて指先で確かめる。
十六歳の誕生日。
初めて彼から贈られた青いドレスを着て、深夜まで一人で待っていた。
彼の幼馴染のセリーヌ嬢が「寂しい」と泣いたからと、彼は来なかった。
二年前の婚約記念日。
王都で一番有名なレストランの特等席。半年も前から予約していたのに。
セリーヌ嬢が「熱がある」と訴えたからと、彼は私の隣にいなかった。
半年前の観劇の夜。
ずっと楽しみにしていた、人気劇団の初日公演。最高の席だったのに。
セリーヌ嬢が「胸が痛い」と倒れたからと、彼は劇場から馬車を引き返した。
(思い返せば、よくもまあここまで耐えたものだわ)
私はいつも、一人で豪勢な席に着いた。
扇で口元を隠して、誰よりも美しく背筋を伸ばして。
誰の目から見ても、完璧で、決して揺らがない「強い女」として。
だけど、本当にこんな扱いをされて、私がなにも思わないでいると思って……?
「お嬢様」
マリアンヌが背後から、静かに、しかし力強く囁いた。
「お嬢様のその強さは、本当は誰のためのものですか?」
その問いに、すぐには答えられなかった。
私の強さは、リュシアン様の我が儘を許容するため?
違う。絶対に違う。
私は七十二回目の夜会も、一人で行くのだろうか。
今までと同じように、一人で馬車に乗って、好奇の目に晒されるのか。
「またあのお方、一人でいらっしゃっているのね……」
そういったクスクスとした笑い声が、いまから聞こえてくるよう。
また、惨めな思いを我慢するのだ……。
――そう、思っていた。ほんの数分前までは。
けれど、ふと気づいてしまったのだ。
強い女、と彼から何度も都合よく言われた。
自分は、そう、強い女、と私自身も疑いなく信じてきた。
でも、そもそも強い女ってなに?
本当の強さってなんなの?
それって、理不尽な扱いをも我慢することが強さだというのかしら?
いいえ、決して違うはず。
もう都合よく彼の解釈で「強い女」でいる必要なんて、どこにもないのでは?
いまこそ本当の強さを誇示するべきだわ。
彼は言った。
私のことを、「強い女」だと……。
なら、それを利用しない手はない。
ならば。
本当の意味での強い女らしく、私のために、自分で選べばいいだけのこと。
私は右手を伸ばし、左手の薬指から婚約指輪をゆっくりと抜いた。
まるで、生き物が自分の殻を脱ぎ、脱皮するときのような、すっきりとした開放感があった。
指先にのしかかっていた不快な重さが、ふっと消え去った。
「マリアンヌ」
「はい、お嬢様」
「お茶を二つ、用意してくださる?」
「ええ。リュシアン様にもう一度お声がけを?」
「ええ、そうしてちょうだい」
私は、今日一番の、心からの笑みを浮かべた。
「時間はかからないわ。最後のお話、するだけよ」
マリアンヌの目が、ほんの少しだけ丸くなった。
そして、すべてを悟ったように深く、深く礼をした。
「かしこまりました。最高のお茶を淹れましょう」
それから数分後。
呼び戻されたリュシアン様は、ひどく驚いた顔で応接間に戻ってきた。
戻ってくるときにもリュシアン様は、何度もしぶったらしい。
そこをどうしてもと、マリアンヌが無理を通してくれた。
「アニエス、どうしたんだ? 君は一人で夜会に出かけるはずだろう?」
「……お話があるの。少しだけお時間をいただけるかしら」
私はソファに座っていなかった。
立ったまま、折り畳んだ扇を手に持っていた。
「立ったままで? どうしたんだ、急に」
「ええ。とても短いお話だから」
私は彼を真っ直ぐに見据えた。
「リュシアン様、一つお伺いしてもよろしいかしら」
「ああ、なんだい? なんでも聞いてくれ」
「私、強い女ですわよね?」
彼は少し戸惑い、そして当然だというように大きく頷いた。
「もちろんだとも。アニエスは僕の自慢の、強くて自立した婚約者だ。そこが君の素敵なところだよ」
「ええ、ありがとうございます」
私は彼の無邪気な言葉を、冷ややかに遮った。
「では、強い女らしく、堂々と即断いたしますわ」
手にした扇を、ぱちん、と音を立てて閉じた。
その固い音に、リュシアン様の眉がぴくりと動く。
私は彼に向けて、完璧な微笑みを浮かべた。
そして、大理石のテーブルに、先ほど外した婚約指輪を置いた。
ことり、と小さな音が部屋に響いた。
「アニエス、何を……? その指輪は」
「即断、と申しましたでしょう?」
私は背筋を伸ばし、一言一句はっきりと告げた。
「この婚約、今この場で解消させていただきますわ」
リュシアン様が、信じられないものを見るように固まった。
「な、なにを言っているんだ、冗談だろう?」
「私、強い女ですから。こんなときに冗談など申しません」
「ええ? ほ、本気で言ってるのか!? いきなりすぎるだろ……! なんの脈絡もなしに……! 僕が何をしたっていうんだ!」
「ほ、本気で……仰っているの……?」
彼は怒りとも悲しみともつかぬ表情をしていた。
私は唖然とし、内心で思う。
(は? なんでお前が被害者面してんの? 脳みそお花畑か? 七十一回も置き去りにしておいて、文句を言えるとでも? 笑わせるわね)
「待ってくれ、君は理解のある女だろう?」
「ええ、しっかりと理解しておりますわ」
「だったらなぜ、こんな急に婚約を」
「理解した結果ですわ」
「君も、セリーヌを知っているだろう!?」
「ええ、セリーヌ嬢はとても弱くて、繊細な方なんでしょう?」
「そうだ! だから、僕がついていてやらないと」
「ええ。そんな可哀想な彼女には、リュシアン様のような優しい方が必要不可欠ですわね」
「そ、そうだろう! だから……」
「だから、セリーヌ嬢を、心置きなく優先なさいませ」
「っ……! な、なんでそんな勝ってなことを言うんだ……! 君は強い女だから、こんなこと言わないはずだ! なんでそんなひどいことが言えるんだ!」
眉を怒らせ、リュシアン様は今にも横にある花瓶に手を伸ばしそうなくらいに、手をわなわなと震えさせている。
その姿はある意味で滑稽だ。
この人、本当になにも理解していないんだな……。
「強い女だから、これができますのよ」
扇を再び優雅に広げて、口元を隠した。
これ以上、彼の言葉を聞く時間は無駄だ。
「夜会には、一人で参りますわ。せっかくですから、おいしいお食事をいただいてきます。……これが、最後ですもの」
「アニエス、待ってくれ! 考え直してくれ! 僕は君を愛しているのに! 僕には君が必要なんだ!」
「もう、十分待ちました。ええ、待ちましたとも。長い長いあいだね」
これ以上、彼にかける情けも言葉もなかった。
ドアを開ければ、廊下でマリアンヌが待っていた。
彼女の目が、初めて柔らかく緩んだ気がした。
「お嬢様、馬車のご用意はできております」
「ええ、お願いね」
私は廊下を歩き出した。
背後からリュシアン様の声がしたが、もう決して振り返らなかった。
馬車に乗り込んで、扇を膝の上に置いた。
窓の外の景色が、ゆっくりと流れていく。
私は強い女。
だから、即断できる。
だから、決して振り返らない。
◆
それから一ヶ月。
リュシアン様には、ただの一度も会わなかった。
私から会う必要も、まったくなかったからだ。
◆
そのさらに一ヶ月後、昼下がりの茶会にて。
「お嬢様、ご存知ですか?」
マリアンヌが、嬉しそうに囁いた。
「リュシアン様、社交の取りまとめのお仕事を完全に外されたそうですわ」
「あら、外されたの?」
「ええ。先日も、重要な書類を紛失して大変な騒ぎになったとか」
マリアンヌの言葉に、周囲の貴婦人たちも小さく頷く。
「元から彼の仕事の半分は、アニエス様が裏で片付けておいででしたものね。それに、あのセリーヌ様も、相変わらず夜会で粗相をなさってばかりで。それのフォローに、リュシアン様も、すっかりお疲れのご様子だとか」
「これまではアニエス様がセリーヌ様のフォローもされていましたものね」
「リュシアン様、近々降格の話まで出ているそうですわよ」
「あら、それは大変ですわね」
「アニエス様の手腕に、皆様改めて深く感心しておりますのよ」
「それに、セリーヌ様は本当にご病気になられたとか……」
「あら……嘘から出たまこと。口は災いの元ですわね……おそろしい……」
私は手元の扇をゆっくりと閉じた。
ぱちん、と。
別に、彼らの不幸が嬉しくはなかった。
ていうかもう、彼がどうなろうと、まったく興味がない。
ただ、当然の結果だと思っただけだ。
フォローする人間がフォローしなくなり、当然のように問題だけが残った、それだけのこと。
(私が裏で徹夜して回してたんだ。私がいなくなって回らなくなったからって、それは彼の自業自得でしょ)
「アニエス!」
突然背後から呼ばれて振り返れば、そこにリュシアン様がいた。
二ヶ月前とは別人のように、ひどくやつれた顔だった。
いつも完璧に撫でつけられていた金髪はボサボサに乱れている。
目元には濃い隈ができ、騎士の制服もどこかよれよれに見える。
かつての自信に満ちた面影は消え失せ、すがりつくような目で私を見た。
「アニエス、戻ってきてくれないか。君がいないと」
「いないと?」
「全てが回らないんだ。頼む、君の力が必要なんだ!」
私はゆっくりと扇を広げた。
「ええ、存じておりますわ」
「だったら!」
「強い女は、二度と同じ過ちを犯しませんわ」
「き、君が必要なんだ!」
「必要なのは労働力としての私では? そんな申し出、お断りですわ」
すげなく返した私の声に、別の低い声が重なった。
「ヴァレンタイン嬢、お久しぶりです」
反対側に振り返れば、辺境伯のオリヴァー・フォレスト卿が立っていた。
長身で、落ち着いた面持ちの、実力主義で知られる若き辺境伯だ。
「フォレスト卿、ご無沙汰しております」
「噂は、いろいろと聞いているよ」
「あら、どのような噂を? 悪い噂でないといいのですけれど……」
「ある強い女性が、強い選択をしたとね」
彼はリュシアン様には目もくれず、私だけを見ていた。
「私の領地で、優秀な文官を探しているんだ」
「文官、ですか?」
「君の並外れた実務能力を、以前からずっと評価していた」
「私の能力を必要としてくださると?」
「ああ、だが、勘違いしないでほしい。どこぞの阿呆のように、君をただの労働力として見たりはしないよ。これは対等な立場での申し出だ」
「対等な……立場……」
なんだかそれは、私にとって、新しい種類の響きを持つ言葉だった。
「君は本当に強い女性だ。だからこそ……惹かれる……」
「それは……異性としてという意味で捉えてよろしいのでしょうか……?」
私は、彼の目を真っ直ぐに見つめて問うた。
フォレスト卿は当然だというように、深く力強く頷いた。
「もちろん。君の強さと美しさを、私は本当に魅力的に思っているんだ。これは嘘偽りのない、正直な気持ちだよ」
その瞬間、私の口元が、ふっと自然に緩んだ。
今までずっと張り詰めていた糸が、解けたような気がした。
嘘のない言葉って、こんなにすっと心に入ってくるものなのね……。
「そのお話、喜んで、お引き受けいたしますわ」
「感謝する。すぐに手配を進めよう。それで……ぜひ私とその……」
「ですが……その、すぐに婚約というお話は……まだ待っていただきたいですわ」
「それは……どうして……? 私がお嫌いか?」
「いえ、そういうわけでは、私、強い女なので。そう簡単には靡かないんですの」
「ふふ、そうだったな……。だが、かまわない。いくらでも待つさ。むしろ、君のそういうところが、余計に好きになってしまったよ」
まあ、私もフォレスト卿に惹かれないと言えば、嘘になる。
彼は将来有望で、見た目も信じられないくらいに美しい男性だ。
だけど、決めたのだ。
二度と自分を安売りしない、我慢しない、同じ轍は踏まない。
私は強い女だから。
自分の意見をいくらでも主張していいのだ。
リュシアン様は、いつの間にかもうそこにはいなかった。
◆
辺境への道は、私にとって初めてのことばかりだ。
でも、不思議と怖くはなかった。
私は、強い女なのだから。
それから数ヶ月後。
緑豊かな辺境伯邸の、静かな応接間。
大きな執務テーブルを挟んで、椅子は二つ。
私たちは向かい合って、山積みの書類を捌いている。
風が吹き抜け、木々の葉がさらさらと鳴った。
「ヴァレンタイン嬢、あまり無理はしないように」
「強い女ですから、これくらい何でもありませんわ」
書類から目を上げずに答えると、フォレスト卿がふっと笑った。
「君は本当に、その言葉が好きなのだな」
「ええ。以前は都合よく、他人から向けられる言葉でしたが……。でも、今は、自分のために使えますもの」
「私も、それにふさわしい強い男にならなくてはな……」
その穏やかな声につられて、私も笑った。
まるで昔からの友人のように、自然に。
広大な領地を治める辺境伯領の仕事は、決して楽ではない。
けれど、理不尽に振り回されるようなことは一切なくなった。
正当な評価と、報酬、対等な関係。それだけで、十分だった。
私の左手の薬指に、あの重たい婚約指輪はもうない。
代わりに、実務用の銀のペンがしっかりと握られている。
新しい指輪がこの手にはまるのは、まだ先のことになるかもしれない。
けれど、それもかまわない。
今はこの時間が、何よりも愛おしい。
華美な扇は閉じたまま、テーブルの端に置かれていた。
もう、本心を隠して開く必要はない。
完璧な微笑みを目で作って、口元を隠す必要も、もうないのだ。
私の強さは、私のためだけに使う。
私の言葉は、私だけのもの。
窓から差し込む午後の光が、ただとても温かかった。
まずは読んでくださりありがとうございます!
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