第103話 「ミレイ先輩が落ちそうになった」
プールの水はかなり抜けてきた。
底が見えるようになり、水泳部員たちがブラシで清掃を始めている。
アキラはプールサイドのホースを整理し、ミレイは縁の近くで排水状況を確認していた。
顧問の先生は少し離れた場所で部員に指示を出している。
夏の光は強く、濡れた床はきらきらと光っていた。
(滑りやすい場所あり。さっきメモした。つまり、ここは本当に水属性フィールド)
アキラは少し気になって、ミレイの方を見る。
ミレイはバインダーを片手に、プールの縁へ一歩近づいた。
その足元に、水で濡れたホースがあった。
「ミレイ先輩、足元――」
言い終える前だった。
ミレイの足が滑った。
体が後ろではなく、プール側に傾く。
アキラの頭は一瞬真っ白になった。
(落ちる)
次の瞬間、体が勝手に動いていた。
アキラは駆け出し、ミレイの後ろから腕を回すようにして抱き止めた。
片腕がミレイの肩の前に回り、もう片方の手で腰のあたりを支える。
ミレイの体が、アキラの胸元に収まる。
ほんの一秒。
いや、二秒かもしれない。
時間が止まった。
プールに落ちる寸前で、ミレイは止まっていた。
「大丈夫ですか、ミレイ先輩!」
アキラは必死だった。
心臓が速い。
手が震える。
腕の中のミレイが細い。
髪から、少しだけシャンプーの匂いがした。
そこで、アキラの脳が現実を理解した。
後ろから抱き抱えている。
ミレイ先輩を。
かなりしっかり。
アキラの顔が一気に熱くなる。
ミレイも固まっている。
「く、黒瀬くん……」
「す、すみません! 緊急回避行動です!」
アキラは慌てて手を離そうとするが、ミレイの足元がまだ不安定だった。
「まだ動かないでください。足元、滑ります」
自分でも驚くくらい真剣な声が出た。
ミレイは小さく頷く。
「……ありがとう」
周囲の水泳部員たちが一瞬静かになり、それからざわついた。
「今の見た?」
「黒瀬くん、助けた」
「後ろから……」
「少女漫画だった」
アキラは聞こえないふりをした。
無理だった。
完全に聞こえていた。
ミレイを安全な場所まで支える。
手を離す。
離した瞬間、急に腕の中が空っぽになった気がした。
(今のは事故。救助。緊急イベント。恋愛イベントではない。ないはず。だが演出が完全に恋愛イベントだった)
ミレイは顔を真っ赤にして俯いている。
アキラも直視できない。
顧問の先生が駆け寄ってきた。
「大丈夫か、白鳥! 黒瀬、よく支えたな!」
「はい。水属性フィールド対策が間に合いました」
先生は一瞬黙った。
「……とにかく、よくやった」
◆オチ
その後、アキラはホースの片づけをしていたが、動きがぎこちなかった。
水泳部の女子が言う。
「黒瀬くん、顔赤いけど熱中症?」
アキラは真顔で答えた。
「緊急イベント後のオーバーヒートです」
女子は笑いながら言った。
「それ、たぶん恋の熱中症だよ」
アキラはホースを落とした。




