第9話 合唱:呼べない音
午後の図書館は、雨上がりの教室みたいに明るかった。
葵は黒板代わりの古い掲示板を引きずってきて、白いチョークで大きな五線を描いた。線は少し斜めで、ところどころ欠けている。それでも十分だった。上の見出しに、葵は大きく書く。
言えない音素一覧
T、R、K、S。いくつかの子音に赤の×印がつく。母音は薄い灰色で囲まれる。灰色は消しゴムでなぞれば消えるが、子音の×は油性で、残るようにしてある。
葵はチョークを指で転がし、次の列に記号を書き足す。□は母音、●は子音、▽は休符、|は拍。視覚と手の合図だけで読める“譜面”にするための決まりだ。
サエは声を出せない。喉に貼った小さなガーゼの下は、まだ赤い。代わりに、指で机を軽く叩いてテンポを刻む。コン、コン、コン、コン。彼女の拍は正確で、みんなの呼吸が自然と揃う。
ハルは掲示板の下に古い波形端末を置いた。画面には緑色の線が上下し、ところどころ赤い谷が塗られている。谷は、ノイズの圧が強くなる帯域だ。ここに声を落とすと、名の輪郭が奪われる。
ナオは壁に表を貼っていく。指サインの一覧。親指と人差し指を合わせた輪、三本の指を立てた合図、掌をねじる動き。声が出ないときでも、手で音を示せるように。
ソラは机から瓶の栓をかき集めて、小さな打楽器を作った。二つ重ねるとカスタネットみたいな音が出る。瓶の口に当てるともう少し低い音がする。塩のしゃり、とした気配が混ざって、波を思わせる。
ミオは呼吸配分の表を描いた。何拍で吸い、何拍で吐くか。喉の負担を減らすためのルールだ。彼女は合間に、咳が出そうな子の背をゆっくりさする。触れの合図は、音に乗らない。ノイズの圧に引っ張られない。だから、希望の回路になりうる。
全員が作曲家で、患者で、祈る人だった。
名を残すために歌い、声を守るために治し、静けさの意味を探すために祈る。
練習を始める。
サエの拍に合わせ、葵が掲示板の前に立つ。
「最初は“ル”から。ハルの末尾音。昨日までの成功を基準にする」
ハルは照れ隠しの笑みを浮かべ、端末に指を置いた。緑の線が静かに揺れる。
輪唱が二周したところで、天井のダクトから音が落ちた。
カチ、カチ、カチ。
正確に半拍遅れたクリックが混ざる。偽物の拍だ。
サエがすぐにテンポを取り直す。少し速く、次は少し遅く。だが偽の拍は影のように追いかけ、みんなの足元からリズムを崩していく。
トオルが順番表を抱え、親密度の逆順を崩さないように必死で合図する。遠い者から呼び、近い者へ渡す。黒化を防ぐために決めた順番だ。
葵は糸文字のページ端を押さえた。糸が小さく震える。震えは拍に連動していた。偽物の拍に引っ張られるたび、縫い目がほどけそうになる。
「拍を取り返して」
葵が言う。サエは頷き、机の角で新しいテンポを刻む。コン、コン、コン、コン。
だが天井のクリックは、今度は間を詰めてきた。半拍遅れから、四分の三拍、そしてまた半拍へ。リズムそのものに干渉している。これまでの妨害は周波数の谷だった。今度は時間を歪ませてくる。
ハルが端末に顔を近づけ、短く息を吐いた。
「このまま声で殴り合ったら、向こうの土俵になる。譜面を変えよう」
葵と目が合う。
「どうするの」
「呼べない音素は、休符にする」
ハルは掲示板の片隅に新しい記号を描いた。▽。
「TもRもSも、出そうとすれば喉を痛める。谷を深くするだけだ。だったら“意図的な沈黙”を設計する。ここは黙る、と決める。黙る代わりに、体を動かす。手の甲を二度軽く打つとか、舌を巻かずに喉を開くだけにするとか。音は出ないけど、拍の位置は残る。名の背骨は折れない」
サエが拍を止め、掌を見つめた。
ミオがうなずき、黒板の端に手順を書き足す。
「呼吸は二拍で吸って、四拍で吐く。休符は喉を閉じず、開いたまま。肩に触れで合図を入れる。触れは音に乗らないから、偽の拍には動かせない」
ナオが指サインの表から、休符用の合図を切り出す。親指と人差し指で小さな▽を作るジェスチャ。
ソラは瓶の栓を二枚重ね、合図の直後だけ小さく鳴らす。波と同期する位置。
トオルは輪唱の順番に“触れ”の列を追加した。最後に近しい者が呼ぶときだけ、全員で肩に触れる。熱を均すための触れ。冷やしすぎないための触れ。
練習に戻る。
掲示板の五線には、新しい譜面が浮かぶ。
□と●と▽と|が並び、“言えないところ”に三角の沈黙が置かれる。
サエが拍を刻む。コン、コン、コン、コン。
葵が合図を送る。指で▽を描き、肩に触れるタイミングを示す。
ミオは呼吸の合図を目で送り、咳の予兆に手を添える。
ハルは端末に目を落とし、波形の線を追う。
ナオは視線だけで輪唱の方向を変え、ソラは瓶の栓を合わせる。ト、の位置には音が立たず、代わりに手の甲が机を二度軽く打つ。
輪唱は意外なほど早く馴染んだ。声の出ない瞬間に、全員が同時に黙る。黙ったまま、拍は進む。拍が進む間、葵の糸文字がふるりと震え、ユウの拍が一拍だけ消える。
沈黙は空白ではなかった。
その沈黙には、意味があった。
呼べない音の席としての沈黙。欠けているのではなく、そこに在る。
ハルが端末の画面を手で指した。
「見て。ここ、休符の形はきれいな空白になってる。向こうが作る谷とは別の“ぬけ”だ。僕たちの沈黙は、刃物じゃない。抜かれた線でもない。設計された余白」
画面には、白い線が等間隔で並んでいた。谷は赤く塗られ、休符は白いまま。
「区別できるなら、夜間バッチの音声特性補正に、こっちの“沈黙の型”をすり替えられる。向こうの谷は無害化して、こちらの休符だけを通す。理屈上は、いける」
ハルは言いながらも、眉間に皺を寄せる。
「でも時間がいる。実装して試すには、明け方の三時までに間に合わない」
レイが掲示板を眺め、低く言った。
「祈りは静けさではない。静けさの意味だ。名を直に呼ばず、遠回しに言う。比喩で呼ぶ。言語の屈折で検知から逃れる」
葵が頷く。
「比喩の列なら、糸でも縫える。名の横に、別の呼びを置く。幼名よりもっと遠い言い方」
トオルは裏帳の余白に、新しい列を作った。比喩名。たとえばユウなら風の骨、葵なら縫い火、サエなら拍の灯。
その呼びは名を薄めるためではなく、名を遠回しに濃くするための回り道だ。
夜になる。
窓には布を垂らし、灯りは小さく。
波形端末のランプは弱く光り、掲示板のチョークは白く浮かぶ。
合唱が始まった。
サエの拍。コン、コン、コン、コン。
葵の合図。指が▽を描き、肩に触れが重なる。
ユウの拍が一拍だけ消え、ソラの瓶が小さく鳴る。
ミオの指が肩に触れ、ハルの端末が沈黙の形を描く。
レイは祈りの言葉をゆっくりと変える。名を直に呼ばず、別の言い方で包む。
トオルは階段の上で帳面を開き、黒化しかけた行の縁を凝視していた。
偽の拍がまた混ざった。半拍遅れがひそひそと忍び寄る。
だが、今度は崩れない。
休符の位置で、全員が同時に黙る。
黙るはずのところで、黙る。
偽物の拍は沈黙の中に溶け、刃の音は肩の触れで鈍くなる。
ハルの画面は、きれいな空白を映し続ける。
沈黙の型。
向こうの谷ではない、こちらの余白。
「ル」には音が乗り、「ト」は沈黙で示された。
呼べないが、居る。
それは奇妙な成功だった。
ページの黒化も止まり、裏帳の煤は広がらない。
葵は糸文字の角を指で押さえ、安堵で息を漏らした。ミオは咳の気配がないか確かめながら、笑みを落とした。サエは拍を緩め、手を胸に当てた。
ユウは天井を見上げ、肩を回した。ソラは瓶を抱え、波の音と拍の合流点を探るように耳を澄ませる。
トオルは鉛筆の先を止め、肩から力を抜いた。
間に合った。今日は、間に合った。
その刹那、ハルの画面に外の地図が立ち上がった。
ノイズの分布を示す灰色の地図。
白罫区の外縁に沿って、赤い谷が連なっている。
天井のダクトの向こう、線路沿いに帯が走っていた。
線路は、夜間バッチの背骨だ。
それに沿って、谷が規則的に並んでいる。
線路が、向こうの刃物の通り道だった。
「現場で休符を打つ」
トオルの声が、静かな空気を切った。
ハルが顔を上げる。
「外でやるのか」
「線路の枕木の上、一つおきに足で踏む。外の谷の上に、こちらの沈黙を刻む。夜間バッチが通るタイミングで。向こうの拍に、こっちの休符をはめる」
ユウがすぐに反対した。
「危険だ。ドローンのルートでもある。マーキングもある。おれはあんたの順番表に従うけど、これは順番じゃなくて危険順だ」
レイはゆっくり頷いた。
「祈りは場所に残る。ここだけで完結しない儀式なら、場所へ出ていくしかない」
ハルは歯を噛んだ。
「僕が行けば、端末でタイミングを取れる。谷の深さも測れる。おそらく午前三時、最初の波が来る」
ナオが手を上げ、指サインで短く言う。
行ける。指で作る▽と、枕木の数の数え方。無声の合図の設計。
サエは喉に手を当て、拍を二つ打ってうなずいた。声はないが、拍はある。彼女の拍は、みんなの足を同じ速度にする。
結局、最小人数で行くことになった。
ユウ、ハル、レイ、ナオ、サエ。
ユウは足。ハルは目。レイは祈り。ナオは暗号。サエは拍。
葵は針と糸を握ったまま、誰かの肩に触れようとしたが、手を止めた。触れの合図は、行く者の背中に残る。
ミオは救急用の小さな包を渡し、トオルは帳簿に新しい欄を作った。
外で打つ休符。
線路の数。
踏んだ跡。
帰ってくる拍の位置。
窓の外で風が鳴った。
沈黙の型が、掲示板の上で淡く光る。
声は生まれ、同時に消える。
でも、呼べない音は、別の形で残せる。
黙っているのではなく、黙ることが合図になる。
それを、今夜は外に刻みに行く。
準備が静かに進む。
ロープ、布、瓶の栓。
靴底に薄い布を貼り、音を殺す。
ハルは端末の光を最低にし、ナオは指サインを三つまでに絞る。
レイは祈りの言葉を短く折り畳み、心の中で何度もたたむ。
ユウは足首を回し、サエは拍を心臓に入れる。コン、コン。
図書館の空気が少し下がった。緊張の温度だ。
葵は掲示板の五線の端に、細い糸を一本縫った。
帰り道の線。
そこに指を置いて、言う。
「戻ってきたら、ここに触れて。触れたら、名の糸はまた太くできる」
ユウが頷き、ハルが笑ってみせる。ナオは手で▽を作り、サエは拍を二つ。レイは短く祈った。
トオルは鉛筆を握り直し、三冊の帳簿を重ねて机に置いた。
黒い煤の跡は、今夜だけは動かないままでいてくれ、と心の中で呟いた。
図書館の扉が開く。
夜の風が頬を撫で、塩の匂いが満ちる。
五人の背中が暗がりに消える前、ソラが瓶の栓を一度だけ鳴らした。
波と拍が、遠くで一瞬だけ重なった。
ハルの端末の画面には、線路沿いの赤い帯が光っている。
その上に、ちいさな白い点が一つ、二つ、三つ。
休符の型。
外の地図に、こちらの沈黙が打たれる場所が、薄く、しかし確かに浮かび上がっていた。
名は呼べないときでも、在る。
呼べないからこそ、黙ることで在る。
そう決めた夜の行進が、線路の先に始まろうとしている。
トオルは帳場の灯を小さくし、耳を澄ませた。
拍が戻ってくる道を、聴き逃さないように。
葵は縫いかけの一画を指で押さえた。
針はまだ動かない。
次の拍で動く。
サエの心臓の中で刻まれた二拍が、みんなの胸まで届くことを祈りながら。




