第7話 水の運び手
ソラは、潮の匂いで目が覚める。
世界がまだ薄暗いうちに、彼は路地を抜けて浜へ向かった。コンクリの割れ目から伸びた草に夜露がついて、歩くたびに靴の先を濡らす。海に近づくほど空気は冷え、肺の奥まで塩が沁みる。ソラはこの痛みが好きだった。ここにいる、と体が合図してくれるから。
胸ポケットには、小さな赤い糸が一本入っている。昨夜、図書館の床で拾った。葵の指から落ちた一針だ。光にかざすと、かすかに血の色が混ざって見える。
「海なら、返してくれるかもしれない」
ソラは自分に言い聞かせるように呟く。そうでも言わなければ、胸の真ん中の空洞が広がり続けそうだった。
浜には、潮に磨かれた瓶がいくつも打ち上がっている。ラベルは剝がれ、ガラスは曇っている。ソラは瓶を一つ手に取ると、砂で底をこすり、内側を覗いた。中に紙片が見えた。小さく折られ、半分溶けかけている。
栓は固い。ナイフの先で慎重にこじる。わずかな音とともに栓が抜けた。紙をピンセットでつまみ、切らないように広げる。指が震える。紙はぼろぼろだが、筆圧の跡が残っていた。
そこに並んでいたのは、名の列だった。
読み取れるか読めないかの境で、誰かの「呼び」が詰まっている。褪せたインクの芯が、溝にこびりつくように残っている。
ソラは膝に紙片を広げ、指でそっと跡をなぞった。たしかに、そこに人がいた。名前は、手触りになって生き延びる。
潮騒に混じって、港の金属が鳴る。遠くでブイが揺れ、朝の光が海面に砕ける。ソラは瓶の口を拭い、砂を払った。拾った紙の端に自分の鉛筆で薄く線を引く。葵の糸の「縫い」に触れたときと、同じ指先の感覚が戻ってくる。紙が、名を覚えている。
図書館に戻ると、まだ皆は眠っていた。サエの静かな寝息、ミオが折りたたんだ毛布、ユウの靴が扉の脇に揃えられている。ソラは机の上に瓶と紙片を置き、葵を呼んだ。
「これ、見て」
葵は椅子から身を起こし、紙をのぞき込んだ。
「……残ってる」
指で跡をなぞり、ため息を小さくもらした。ミオも近づいてきて、慎重にライトを当てる。
「塩で濡れて、乾いて、また濡れて……その繰り返しで紙は弱るけど、筆圧の溝に塩の結晶が残る。そこにインクの芯が引っかかってる。だから消えにくい」
ミオの声はいつも通り落ち着いているが、目は明るかった。
「糸の節も同じだよね」と葵が言う。「溝や出っ張りがあるところに、記憶が引っかかる。紙を薄い塩水でくぐらせてみようか」
実験は慎重に始めた。
ミオが衛生面の手順を書き出し、濃度と時間を刻む。ソラは浜から汲んだ海水を薄め、葵は小さな刷毛で糸文字のページをそっと湿らせる。風を通して乾かす間、サエが喉を休めながら拍を刻んだ。
ページが乾くと、糸の節が光を受けてわずかに膨らむ。筆圧の凹みが、柔らかい影になって浮いた。
ユウが触れてみる。指先が、ひっかかった。
「手触りが、前より強い」
トオルは帳簿の余白に〈塩水処理/紙強度/濃度/乾燥時間〉の欄を増やし、短い数式を書いては消した。
「強すぎれば砕ける。弱すぎれば意味がない。ぎりぎりのところを探すしかないな」
ミオが頷く。
「カビのリスクもあるから、時間は長く取れない。日陰で風、六分。濃度はこれくらい」
ソラは赤い糸を胸ポケットから出し、瓶の側に置いた。
「これも、預けてみる」
葵が目を丸くする。
「私の……」
ソラは微笑んだ。
「返ってくるよ。海は道を覚えてる」
浜で拾った瓶に、ユウの名の一画の写しと、赤い一針を一緒に入れる。海水を満たし、栓を強く押し込む。瓶を光にかざすと、糸の影が水の中で揺れ、青く見えた。
ソラは瓶を胸に抱き、窓の外の風を見た。午後から潮が変わる。夜には返り潮になる。
「夜、堤防まで行こう」
ユウが頷く。サエも拍で返事をした。喉はまだ痛むはずだが、目が前を向いている。
夕方、ソラは港の事務所跡を探った。錆びた錠前は壊れていて、紙の匂いが残る棚に古い海図があった。白罫区の沖を沿って流れる矢印、季節で移動する潮目、風の向き。
海は無秩序ではない。
彼は地図にボトルのルートを描き、入江や防波堤の“留まり場”に丸をつける。潮の段差ができる場所。網やゴミが引っかかる場所。
トオルは帳簿に〈海路〉の欄を増やし、条件を書き込む。潮位、風速、月齢。ナオは瓶の栓に小さな数字タグを付けることを提案した。拾ったとき、どの瓶かすぐわかるように。
ハルは端末を抱えて、心配そうに顔を出した。
「監視ブイに引っかかるかも。こないだ、あいつらは偽の拍まで流してきた」
「大丈夫。夜の潮位と風で、死角ができる。堤防の東側、暗渠の口の前。あそこはブイの目が届かない」
ソラは海図の上に指を置き、目を細める。水の段差の音が、頭の中に蘇る。
彼の世界は、いつだって水でできている。
夜。堤防の上は、風が強かった。
空は濃い群青で、灯台の光が間欠に横切る。遠くでノイズがかすかに揺れ、波の砕ける音が飽和して聞こえる。
ソラは瓶を三本、ユウに一本ずつ手渡した。一本は長いロープで腰に結び、回収用にする。
「サエ、拍で合図を」
サエは喉に指を添えて頷き、静かな四拍を刻む。ユウが呼吸を合わせる。ソラは瓶を胸に当て、短く祈った。祈りと言っても、言葉はない。息だけの、名の方向づけだ。
一本目を投げる。空気を切る音のあと、瓶はすぐ波に飲まれた。二本目。三本目。ロープの先が海に延び、少しずつ引かれていく。
「待って」
ソラは手の感覚に集中した。引かれる力が変わった。
潮が返したのだ。
逆方向から、ぐっと引く力。
「来た」
ユウがロープを掴み、二人で引き上げる。濡れた瓶が闇から現れ、波の光が表面を滑る。
栓を捻る。海水がこぼれ、足元のコンクリが黒く濡れる。
中の紙はまだ湿っているのに、糸文字の凹凸がはっきりしていた。
塩の結晶が光り、文字の谷に詰まって輪郭を持たせている。
ソラは胸の奥が熱くなって、言葉が出なかった。
ユウが笑う。
「戻ってきた、って顔だ」
サエが手の甲で四拍を刻み、瓶の周りの空気が呼吸を取り戻す。波と拍が合い、夜の海が息をしている音に聞こえる。
ソラは別の瓶の栓を開け、赤い一針を取り出した。海に潜っていた糸は、ほんの少しだけ硬くなっていた。
「明日、返す」
額に当てる。冷たい。けれど、その冷たさに体温が戻ってくる。
ユウが頷く。サエは拍で「了解」を作る。
ソラは空を見上げた。雲が早い。潮が変わる。
「もう一本、流そう」
今度は瓶を胸に抱え、そっと両手から離した。瓶は静かに沈んで、波の山と谷に消えた。
ソラはロープの感触を確かめ、風向きを読み、監視ブイの位置を頭の中で避ける。夜は長い。少しずつ、少しずつ、返り潮が瓶を運ぶ。
明け方、浜の端に小さな黒い影があった。プラスチックのケース。見慣れない形だ。
ソラはしゃがみ込み、砂を払ってから、慎重に蓋を外した。中に、防水ケースに入ったメモリカードが一枚。
「ユウ、持って」
走る。図書館の扉を開けると、ハルが端末の前にいた。眠気の残る目が、カードを見て一瞬で覚める。
「差すよ」
端末が小さく唸り、画面にファイル名が現れる。加工されていない生の文字列。地図の断片。
隣接区の名簿ログ。
そして、短いメッセージ。
〈誰か、まだ呼べる人がいるなら、これを返して〉
ハルが固まる。
トオルが画面に顔を寄せ、地図の右下を指でなぞる。点線の矢印が、白罫区と隣接区を結んでいる。
「海が、運んだのか」
ソラは瓶を抱えたまま、呼吸を忘れていた。
葵が机の端に捕まるように寄り、画面から目を離さなかった。
ミオはカードの防水ケースを持ち上げ、裏側の小さな刻印を読んだ。出所は消されている。
外の誰かが、手を伸ばしている。
その手は、潮を伝ってここまで来た。
ソラは胸ポケットの赤い糸をそっと出した。糸は、ほんの少しだけ色が濃く見えた。気のせいかもしれない。それでも、信じた。
「返す」
葵の手が、震えながら差し出される。ソラは糸をそっと置き、葵の指の腹に押し当てた。
葵は目を閉じ、糸の手触りを確かめる。
「……帰ってきた」
囁く声を聞いて、ソラはやっと息を吐いた。
ユウが笑い、サエが拍を二つ。ハルは画面を見つめたまま、唇を噛んだ。
「ログは断片だけど、十分だ。隣には、まだ呼びが残ってる。向こうも、こっちを知ってる」
トオルが帳簿を開く。ページの端に、新しい欄を作る。
〈海路〉の下に、もう一つ。〈返礼〉。
呼ばれたものへ返す線。
「二重帳簿にしよう」
トオルは短く言った。
「名の往復を記す帳と、手元の生活を守る帳。片方が崩れても、もう片方で関係線を守れるように」
ナオが指サインで、二本の線を作る。ミオが頷き、葵が糸を持ち直す。サエは喉に手を置き、拍を刻まず、静かに息を通した。
ソラは海図を広げた。点線の矢印に指を置き、窓の外の風を感じる。潮は今日も動いている。誰かの名を運び、誰かの名を返すために。
朝の光が、図書館の紙の上に落ちる。糸の節がきらりと光り、瓶の水滴が細かくはねる。
ソラは外に出た。海の音が近い。
「運ぶよ」
言葉にすると、胸の奥の空洞が少しだけ小さくなる。
返り潮は、すぐそこまで来ている。
そのとき、天井のスピーカダクトが、ほんの少しだけ鳴った。昨日までのような偽の拍ではない。濁った、短い揺れ。外の誰かが、こちらのリズムを探っている。
ハルが顔を上げる。
「時間がない」
トオルは帳簿に二本目の線を引き、ペン先を止めた。
「間に合わせる。二重帳簿で、関係線を隠す」
ソラはもう一度だけ、瓶を握りしめた。
「海は忘れない」
赤い一針を寄せた指先で、彼は栓を確かめる。
潮が返る。名も、返る。
今日も運ぶ。明日も運ぶ。
誰かの呼びが、どこかで拾われるように。
外へ出ると、空が開けた。
白罫区の海は、いつも通りに広がっていた。
それでも、確かに違って見えた。
瓶の内側で、細い糸が揺れ、朝の光を掬っていた。
ソラは瓶を抱え、堤防へ向かった。
次に返すべき名を、胸の中でひとつ、ひとつ、確かめながら。




