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名前を失くした少年たち―指でなぞれば消える世界で、私たちは互いの名を呼ぶ。それだけが、生きていた証だった。  作者: 妙原奇天


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第5話 ログ掘り

 午前三時。

 地下の資料室にだけ、薄い灯りが点いている。古い蛍光灯は頼りなく、ゆっくりと点滅を繰り返し、天井の染みが波の形に見える。ハルは端末の電源を入れた。冷却ファンが呼吸みたいにうなり、古いマイクのランプが橙に光る。上の階では、みんなの寝息がかすかに重なっているはずだ。鈴は昨夜から鳴らなくなった。合唱のテンポは壊され、サエの声は焼かれた。

 だから、今夜は数字で取り返す。


 起動音が止み、薄灰色の画面に黒い文字列が走る。端末は、白罫区の旧ネットに残った断片の上で、まだ辛うじて動く。ハルはログの扉を一つずつ、古びた鍵で開けるみたいに叩いた。フォルダ名は事務的だ。名寄せ、異常値補正、重複削除。書いてあることはただの整備なのに、ここではその言葉が人の体温を奪っていく。


 昨夜の波形には、確かに外部制御の痕跡があった。拍を真似る偽信号、声の谷を拡げる圧。ハルは目を細める。画面の右端、細かい時刻の並びが午前三時から急に密になる。そこに薄い色の帯が重なり、ラベルが一瞬だけ点滅した。

 夜間バッチ。

 止まっているはずの自治局の処理が、ミラー回線に移って生きている。


 ハルは椅子を引き寄せ、画面に顔を近づける。文字列の行間に、薄気味悪い説明文が混じっている。「音声特性補正」。音の揺らぎを平均化し、強度の高い呼称ピークを抑える。

 呼ばれた瞬間、名が濃くなるあの山を、平らに慣らす。合唱そのものを標的にしている。

 どうして、と問いかけて、ハルは黙る。理由は知っている。記録は均質を好み、尖りは危険と記される。愛情は突出で、突出は異常値だ。

 項目の隣に、嫌なフラグが点灯していた。

 時間帯適用。午前三時から五時。

 ハルの「朝だけ薄れる」という体感に、ぴたりと合う。


 自分の中の「ル」はいつも朝に薄れる。誰かが自分を呼んでくれていても、末尾だけが霧に紛れていく。呼び声は届くのに、最後の一音で口が滑る。名の背骨が欠けるみたいに。

 ハルは手を握り、爪で掌に小さな痛みを作った。痛みは、ここにいるための輪郭だ。数字を並べるなら、痛みも値として記録できるはずだと、一瞬だけ考える。考えて、捨てる。

 痛みを数えたら、痛みは鈍る。


 端末の背面に指を伸ばし、埃をかぶった出力ポートを叩いた。合唱の波形を逆流させる。フィルタを飽和させて、押し潰す。

 それは一度、考えて捨てた手段だ。乱暴で、短絡で、傷つけやすい。

 でも試す価値はある。少なくとも、どう響くのか、確かめたい。


 ハルは短いプログラムを書いた。馬鹿みたいに原始的で、危なっかしい回路だ。昨日みんなで積み上げた“ル”の拍を、無声の波に焼き付けて、処理ラインに向けて突き返す。

 地下室のスピーカーは古く、箱鳴りが強い。耳では聞こえないはずの帯域に、空気がうっすらと震えた。端末のメーターは期待どおりに振れ、抑制フィルタの値がじわじわ上がる。

 行ける。

 ほんの少し、胸の中で声が明るくなる。


 だが、それはすぐに冷えた。

 階段の上で床板が軋み、足音とは違う気配が二つ、三つ。葵とミオが同時に息を呑む音が降りてきた。

 「舌、痺れる……」

 「喉の奥が、ざらざらする」

 ハルは慌てて停止キーを叩いた。

 逆流が、外にも漏れている。壁は薄く、名の線はすぐ隣に触ってしまう。仲間の喉を削ってしまう。

 画面の端にエラーが光った。フィルタは過負荷には近いが、落ちてはいない。中途半端に押しただけで、擦り傷だけが増えた。


 ハルは口の中を噛んだ。血の味が広がる。

 やめろ、と自分に言い聞かせる。

 飽和で勝てる戦いじゃない。

 押せば、誰かのどこかが凹む。

 そうやって残る名なんて、欲しくない。


 プログラムを書き直す。仲間の声域を避けるマスクを入れる。サエの喉の残せる帯域、ミオの鈴の響きの癖、葵の糸が擦る紙の音。避けても避けても、波はにじんできて、隙間から漏れる。

 時間は、ない。

 午前三時四十分。夜間バッチの動きが速くなる。


 もっと深い階層に潜る。禁じられた棚に手を伸ばすみたいに。工事図面のような画面の端、ダッシュボードのサムネイルが灰色に明滅した。

 生存価値指標。

 軽くクリックする。

 数字の板が開いた。健康、従順度、学力、家庭環境、対人関係、犯罪歴、発信量。

 得点が低い欄ほど、薄くなる。薄さは視覚化され、ひと目でわかる。

 画面の隅に小さな地図があり、注記は簡単だった。閾値を下回った群は白塗り表示に切り替える。

 白罫区。

 最初から吸われるために、白い罫線はひかれていた。

 右上の小さなチェックは、まだオンのままだ。音声干渉。

 誰かが意図して、消している。


 ここを壊せば、名を救えるのか。

 ハルは指を止めた。

 ここでフラグを外し、値を書き換えれば、今夜三時から五時に削がれる名が少し減る。

 でも、ダッシュボードは区画を跨いでいる。白罫区だけではない。どこか別の区画の、知らない名前の薄さが変わる。

 押し戻す力は、どこか別の名を押し流す。

 知らない誰かの名を犠牲にして、自分たちの“ここ”を濃くする。

 それは数字の上で正しくても、口に出した瞬間、間違いになる。


 ハルはゆっくりと手を引いた。

 画面を閉じる。

 世界を変える方ではなく、ここを守る方へ舵を切る。

 遠くの名を救えなかったとしても、目の前の声を記録する。

 今、呼ばれた音の重なりを“既存データ”にする。


 合唱の波形、葵の糸文字、ミオの触覚譜、ナオの数字サイン。

 四つの担体をまとめて、端末に読み込ませる。

 紙を光に透かし、縫い目の節を拡大して写し、触覚の経路を図にし、指サインを番号の列に置き換える。

 そして、それらが同時に存在したことを証明するため、三つが重なった瞬間の時刻を押さえる。

 呼んだ直後、触れた直後、縫いの糸がまだ温かい直後。

 その一致に印をつける。

 中身に触れず、外側で囲う。白罫区のノードに、名前のハッシュを貼り付ける。

 呼ばれた名が、夜間バッチに「既存」と見なされ、処理の外側へ押しやられるように。


 端末横の暗い棚から、古いプリンタを引っ張り出した。インクリボンは乾いているが、パンチだけなら動く。

 カシャ、という軽い音とともに、小さな穴がカードに穿たれていく。ハルは自分の「ル」を最初に通した。穴の並びを指でなぞり、さっきまで一度壊しかけた喉を、片手で押さえる。

 これは痛みを伴わない。

 痛みを伴わないが、遅い。

 遅いが、確かだ。


 階段を駆け上がる。手すりは錆びていて、手のひらに粉がついた。

 図書館の共同スペースに出ると、葵が半身を起こしてこちらを見た。ミオも起きている。ユウは窓際で外を見ていた。サエは喉に白い布を巻き、薄い毛布に肩を沈めている。レイは祈る姿勢のまま目を開け、ナオは指を丸くしてみせた。ソラは天井のダクトを見て、眉をひそめる。

 みんな、起きてしまったのだろう。ノイズは静かでも、眠りは浅い。


 「三時五十五分」

 ハルは息を整えた。

 「これから五分だけ、順番に自分の名を触って、呼んで、見てほしい。合図に合わせて、端末が同時に三つを認証する」

 葵が頷き、糸の頁を抱えて席を立つ。ミオは鈴ではなく、手を用意した。ナオは指サインの表を広げ、トオルは数字の欄に鉛筆を置いた。ユウは拍を取る位置に立ち、ソラは窓の鍵を確かめに行く。レイは背筋を伸ばし、祈りの姿勢を解いた。サエは喉に手を当て、息の通る幅を探す。

 誰からでもいい。だが、最初はハルだ。

 自分の「ル」は、自分で通したい。


 指でパンチカードの穴をなぞる。葵の糸の「ル」に触れる。ミオが肩に触れ、ナオが“ル”のサインを宙に描く。ユウが拍を一つだけ入れ、サエは声の代わりに短く息を吐く。

 端末のランプが、緑に点った。

 認証ひとつ。

 小さな光は、簡単に消えるけれど、その数が二つになり、三つになれば、意味を持つ。


 「次、葵」

 葵は自分の名を縫った頁を撫で、ミオがその画をなぞる。ユウが拍を置き、ナオが数字を示す。端末のランプがまた点く。

 ミオ、ユウ、レイ、サエ。サエのところは声の帯域を避けるため、息の記録が重くなる。端末はそれでも首肯した。

 ハルは息苦しさを忘れそうになりながら、画面の右上を見た。

 カウントが進んでいく。

 認証、四。

五。

 六。


 外で、サイレンが鳴った。

 窓の影が赤く染まる。点が二つ、三つ、じわりと増えていく。ドローンだ。群れだ。

 ユウが窓から離れ、ソラが鍵に手を掛ける。葵が一瞬、指を止める。

 「続けよう」

 ハルは言う。声は自分でも驚くほど落ち着いていた。


 ナオの番。

 手の形で名を綴る。無声合唱の最小単位。それを端末は、カメラで拾う。ミオがその手を包み、葵が糸を、ユウが拍を。

 ランプが点く。

 七。


 天井のダクトから微かに風が降り、埃の粒が光の筋で踊った。サエは息を整え、レイは息を吸わずに頷いた。トオルは鉛筆を握り直し、数字のカラムをまっすぐ見た。

 ハルは画面の数字を見た。

 認証、七。

 右端の白い帯が厚くなる。

 そして、画面の下から黒い壁が立ち上がった。ノイズだ。バッチのピークが来る。


 「あと八つ」

 ハルは言った。

 時間は、ない。

 午前三時五十七分。

 ドローンの赤い点は窓の縁に並び、薄いガラスに波紋のような振動を作る。

 ミオがコトの寝台を一瞥し、唇をかみしめた。コトの呼吸は小さく、額の布は温い。

 葵が針を握った。糸の端を、荒い呼吸で湿らせ、指の腹で押さえた。

 ユウが床を一度だけ叩いた。

 レイは祈りの代わりに、両手で胸を叩いた。

 サエは静かに目を閉じ、喉ではなく胸に空気を満たした。

 ナオは手のひらで数字を作り、ソラは扉に体を寄せた。

 トオルが鉛筆の先を削り、紙の縁に小さな点を打った。


 画面のランプが一度だけ、不吉に明滅した。

 外のサイレンは近く、近く、胸の奥を貫く。

 ハルの指はキーの上に置かれ、動く。

 最後のページを開き、最初のカードを読み込み、三つの証跡を束ねる。

 押し込みすぎるな。

 急げ。

 時間はないが、急ぎすぎると失う。

 その中間に、一本の線がある。

 ハルはその線の上に、呼びを置いた。


 画面が数字を吐いた。

 認証、七/十五。

 白い罫線の枠は十五に設定した。実在の人数より多い。空白も含めた枠だ。そこには席だけがあり、名がない。そこに名を戻せるなら、戻したい。

 でも今は、枠だけがこちらを見ている。


 外の赤は増える。

 窓の端に小さな影。

 サイレンの音は、鐘に似ている。

 時間切れの鐘。

 端末の画面にノイズの壁が波のように押し寄せ、緑のランプを塗りつぶす。

 ハルはひらすらキーを叩いた。

 重ねる。束ねる。刻む。

 指の痛みが現実に引き戻し、胸の奥で“ル”が擦れた。

 誰かが息を呑み、誰かが息を止め、誰かが手を伸ばした気配。

 背景の全てが黒くなり、画面の数字だけが残った。


 七/十五。

 そこまで見えたところで、視界が暗転した。

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