第4話 合唱:声の厚み
声は、名のかたちをしている。
そのことを、みんな薄々知っていた。
けれど、それを守る方法を、誰もまだ知らない。
この日、白罫区の図書館には、九人の声があった。
同じ旋律を持たない九つの独白。
それらが、ひとつの合唱へと重なる瞬間を、誰もが息を潜めて待っていた。
*
サエは、喉の奥に指を当てて確かめた。
まだ声は出る。けれど、擦り切れた弦のように、震えが不安定だ。
「誰かの名を呼ぶとき、自分の声が削れていくのがわかる。
でも、それでいい。呼ぶたびに、誰かの姿が少し濃くなるなら」
彼女はギターのボディを軽く叩き、呼吸を整える。
声の出始めの“ア”を吐き出す。
ア、。
葵は名簿の糸をなぞりながらつぶやく。
「針で縫うたびに、誰かの影が私の指に触れる。
怖いけど、それがいなくなるほうがもっと怖い」
糸を引くと、紙の繊維が鳴く。
指先から小さな赤がにじむ。
彼女は息を吸い込み、“イ”を置く。
イ、。
ユウは両腕を見下ろした。焼け跡はまだ赤く、QR状の印が皮膚の下にうっすら残っている。
「僕の名は借り物だ。でも、呼んでくれたから、僕はここにいる。
その声を、返さないといけない」
喉の奥が重い。それでも言う。
ウ、。
トオルは帳簿をめくり、数字の列を見つめた。
「呼ぶ回数を数えても、心の距離は測れない。
でも、書き残しておかないと、何も守れない」
指が止まり、“ル”の記号を鉛筆で書く。
ル、。
ミオは鈴を握った。鳴らしても音は出ない。
「音が消えても、触れることは消えない。
掌の中にいる名を、何度でも呼ぶ。黙ってでも」
唇を動かす。
オ、。
ハルは古い端末を前にして、光る波形を見つめていた。
「谷がある。ここで声が落ちる。名が抜ける。
でも、谷を埋めるのは声だけじゃない。数字でも、拍でもいい」
エンターキーを押すと、青い線が揺れた。
ル、。
レイは目を閉じた。両手を胸の前で組み、祈りの姿勢を取る。
「信じることが、呼ぶことだと思ってた。
でも、信じられなくても、呼ぶことはできる」
唇を結び、“イ”を置く。
イ、。
ナオは指先でサインを作った。
言葉を持たない者のために、手の形で意味を紡ぐ。
「声を出せなくても、名は伝えられる。
音がなくても、形がある」
オ、。
ソラは天井を仰ぎ、ゆっくり息を吐いた。
「この空が焼けても、僕らの声は風になる。
届かなくても、向けることに意味がある」
ラ、。
九人の独白がひとつの円を描く。
“ア・イ・ウ・ル・オ・ル・イ・オ・ラ”。
それは不思議な旋律になり、空気に溶けていった。
合唱の始まりだった。
*
サエが合図を出す。
「波形、見える?」
ハルの端末には、音の谷と山が映し出されていた。
谷の位置で、名が抜ける。
白い粉のような埃が天井のスピーカダクトから舞い落ち、光の筋に浮かんだ。
ノイズの可視化。
音が見えるということは、奪われる仕組みも可視化できるということだ。
「ここ、八百ヘルツ前後が消える。子音がごっそり持っていかれてる」
ハルの声は落ち着いていた。だが、その指先は震えていた。
「この谷を越えなきゃ、名が削がれる」
サエは喉を庇いながら頷いた。
「輪唱にしよう。音をずらして、谷を埋める」
葵が針を置き、ミオが鈴を外した。
ユウが拍を取る。トン、トン。
トオルは帳簿の余白に“輪唱1”と書いた。
「“ト”を三分割する。T=拍、O=ハミング、連結=舌打ち」
最初は不恰好だった。
拍がずれ、音がかすれ、舌打ちが裏拍に入る。
けれど、何度か繰り返すうちに、形ができてきた。
“ト”という音が、三人の身体を通して輪郭を取り戻す。
それは、まるで言葉の再生だった。
サエの喉は限界に近かった。
呼ぶたびに痛みが走る。
それでも、彼女は口を開ける。
「声を合わせて。ここ、ルの拍を強く」
葵の指が糸を引く。糸の角が光を受け、紙の上に小さな“ル”の形が現れる。
ナオが手で数字サインを作り、ミオがハルの肩に触れた。
四つの回路が重なった。
“ル”の音が、消えずに続く。
「できた……!」
ミオが息を吐いた。
ハルの名の末尾、“ル”が朝の時間帯でも保持された。
波形の線がまっすぐに続いている。
誰かが泣きそうになったが、拍手はしない。
拍は、名を呼ぶためだけのものだから。
代わりに、静かな休符を置いた。
皆が同時に黙り、空気が震えた。
*
「名の濃度は、呼ばれた回数、親密度、直近の触覚刺激――この三つの積で仮に測れる」
ハルが紙に数式を書いた。
トオルがそれを覗き込み、眉を寄せる。
「数値化したら、壊れるよ」
「でも、指標がなければ守れない」
「数字にした瞬間に、感情が消える」
二人の声は静かにぶつかった。
トオルの手が帳簿の親密度の欄に止まる。
書きたくても、書けない。
“どれだけ想っているか”なんて、数字にできるはずがない。
その沈黙の隣で、ナオが静かに指サインを並べていった。
音が出せない人のための“無声合唱”。
手の形で拍を取り、空中に名を書く。
声のない音楽。
誰も何も言わないのに、そこには確かに旋律があった。
*
夕刻。
合唱の練習は、もう一度始まった。
サエが低く囁くように詩を読み上げる。
〈あなたを呼ぶたび、ここにいることが濃くなる〉
言葉のひとつひとつを、皆が引き取って輪唱する。
“呼ぶ”でユウが拍を打ち、
“たび”でミオが鈴を鳴らし、
“ここ”で葵が糸を引き、
“濃くなる”でナオがサインを出す。
その積み重ねが、“ル”の拍に集約されていく。
ハルの肩が震えた。
「まだ、ある……僕の“ル”が、ある」
誰も答えない。ただ、空気の濃度が少し上がる。
窓の外の光が淡く揺れ、埃が黄金色に見えた。
その瞬間、波形が静かに整い、音の谷が埋まった。
ハルの名は完全に保たれた。
サエはギターを抱え、喉に手を当てて微笑んだ。
葵は糸の端を指で撫でた。
ミオが息をつく。
全員が、わずかに笑った。
誰かが泣いたようにも見えたが、誰も指摘しなかった。
*
成功の余韻は短かった。
天井のダクトが再び鳴った。
ノイズが、音ではなく“拍”を真似し始めた。
トン、トン、トン――。
それは人間のリズムとほとんど同じ速さだった。
「……偽拍だ」
ハルが顔を上げた。
波形端末の線が乱れている。
外部からの制御信号。
誰かが意図的に、合唱のテンポを崩そうとしている。
輪唱が乱れた。
舌がずれ、呼吸が合わなくなる。
ミオの鈴が震える。
葵の糸が一箇所ほどけ、紙が裂けた。
ナオのサインが空中で途切れ、ユウの拍が早まる。
“ル”の位置がわからない。
ハルの名の輪郭が、また薄れ始めた。
「サエ!」
葵の叫び。
サエが喉を押さえて顔を歪める。
痛みが走り、声が出ない。
それでも口を開け、ハミングしようとする。
しかし、音が出ない。
完全な沈黙。
ミオが駆け寄り、喉を診た。
火傷のような赤い筋が走っている。
「声帯、焼かれてる……!」
ハルが端末を操作する。
「ログに外部制御のサインがある。ノイズが意図的に逆位相で注入されてる。
名を壊すための“偽の拍”だ」
ユウが拳を握り、トオルが帳簿を閉じた。
「どうする」
「逆流させる」
ハルの声は低かった。
「ログに逆流を仕掛ける。波形を戻す。
奪われた拍を、取り返す」
誰も何も言わなかった。
ただ、その言葉の“重み”が、全員の胸に落ちた。
再び奪われた“ル”を取り戻すために。
次の戦いが始まる。
*
夜、図書館の灯りが落ちた。
サエは喉に包帯を巻かれ、葵は破れた頁を縫い直していた。
糸の先で、指が小さく震える。
ユウは窓辺に立ち、海の暗さを見つめていた。
ミオは鈴を膝の上で転がし、ハルは端末を開いたまま目を閉じている。
レイは静かに祈り、ナオは指サインで「明日」を示した。
ソラは、天井の空気口を見上げてつぶやいた。
「声がなくても、呼び合える方法を見つけたのに……」
ミオが答えた。
「だから、壊そうとするんだよ。名が残るのが、怖い誰かがいる」
鈴は鳴らなかった。
けれど、みんなの胸の中で、拍はまだ続いていた。
休符の合間に、確かにあった“声の厚み”が残っていた。
ハルは端末の画面に向かって、静かに言った。
「次は、僕らの番だ」




