第17話 白い罫線の外へ
夜が終わる前に、空の端がわずかに白んでいた。
図書館の机に、広げられた地図が光を反射している。机の上には、パンチカードを重ねて投影した立体の地図。ハルの端末がうなり、白罫区の外縁に並ぶ無名の倉庫群が浮かび上がる。そのひとつ――“選別の部屋”と呼ばれる施設の座標が、青く脈を打っていた。
ユウは黙って、地図の上に手を伸ばした。
自分の腕に残る薄いQRの痕を指先でなぞる。
その刻印が、彼を何度も白罫区の境界に縛りつけてきた。
「外へ行くのは、俺が先頭だ」
ユウの声は、どこかで割れたガラスのように細く響いた。
喉の奥で、ひとつの音が欠けている。“ウ”がうまく出ない。
呼ばれるたびに、名の半分が喉の奥でつまずく。
葵は糸文字のノートを開いた。
指で“ユウ”の縫い目をなぞり、欠けた“ウ”の部分に新しい糸を通す。
「戻ってきたら、ここを濃くしよう」
その言葉は、祈りというより約束の形をしていた。
サエは胸の奥の痛みを抱えながら、拍で時刻を刻む。
ミオは応急手当の包帯と器具を小さな袋にまとめる。
レイは祈りの言葉を封印したまま、ユウの肩に短く手を置く。
トオルは影帳に「奪還計画」と太字で書き込み、ハルの端末を覗き込んだ。
ソラは潮と風の様子を見に堤防へ走り、カイは兄の残した地図を胸に抱えていた。
そして机の中央には、ナオの手袋――“鍵穴ステッチ”が置かれている。彼が不在のまま残した唯一の道具だった。
外では、サイレンの余韻が風に混ざっていた。街全体が、緊張している。
夜間バッチの巡回が終わる前に、行かなければならない。
***
出発の刻限を迎える前に、ソラが戻ってきた。息を切らせ、目を見開いて言う。
「堤防の“窓”が、今日は予定より早く開いてる。潮の流れが違う。閉まるのも早いかもしれない」
境界の“窓”。一日に二度、短い時間だけ開く、外との接続点。
夜間バッチの位相がずれれば、窓の開閉も変わる。
ハルが計算をやり直すが、数値が定まらない。
「間に合わない。ルートの再設定には最低でも十五分いる」
だが十五分後には、窓は閉じてしまうかもしれなかった。
ユウは立ち上がった。
「俺が走る。みんなは“呼ばないで”くれ」
静かな言葉だった。けれどその意味を、全員が理解していた。
呼ばれれば、名は濃くなる。だが境界の外では、それが逆効果になる。
呼びかけの音が反転して、存在を削る。カイの兄のメモに、そう書かれていた。
葵は唇を噛んだ。呼ばない見送りなんて、そんなのあるか。
サエは無声で拍を打ち、ミオはユウの喉に指を当てる。
「帰ってきたら、触るから」
その言葉が、かすかに震えた。
ハルは端末をユウに託し、設定済みの逆位相プログラムを示す。
「二分の沈黙を装置に流し込めば、心臓は止まる」
「二分ね」
「長いぞ」
「長くても、やる」
ユウは笑って、振り返らずに路地に消えた。
***
侵入組は三人。ユウ、ハル、カイ。
街の南端を抜け、塩の匂いのする風の中を走る。
カイが持つ兄のメモには、赤い線が引かれていた。
「窓は倉庫群の南端、鉄の階段の下。空気の膜を感じたら止まるな。踏み込め」
その指示どおりに、ユウは息を吸い、見えない膜を抜けた。
足元が一瞬ふらつく。
音が、半拍遅れて返ってくる。
境界の外――そこは、白かった。
***
白い倉庫。外から見ればただの箱。
しかし内部に入ると、空気の密度が変わった。
天井の高い無人の空間。壁一面に白い罫線。
床には浅い溝が並び、まるで列車のレールのようだった。
「……ここが、“選別の部屋”」
カイが呟く。声がこだまし、遅れて返る。
ハルが端末を接続すると、壁の一部が淡く光る。
ログの読み込み。白いスクリーンに文字が浮かび上がる。
削除準備。標準化。上書き保護。
白罫区で見たダッシュボードよりも、はるかに無機質で、冷たい。
ハルが目を細めた。
「名だけじゃない……呼び方まで管理してる。拍の長さも、触れる回数も、全部」
カイが端末を覗き込み、顔色を変える。
「兄の地図にあった“標準化装置”はこれだ。顔も声も、全部平均値に揃える仕組み……」
ユウは喉を押さえた。
“ユ”と“ウ”が揃っていない自分は、ここではエラーだ。
存在が、揃っていない。
そのとき、ハルがスクリーンの下にある小さなパネルを見つけた。
そこに刻まれた模様が、ナオの手袋のステッチと部分的に一致している。
「鍵の形だ……ナオ、これを見たんだ」
いや、違う。ユウは思った。
見たのではなく、合わせた。
彼は最初から、この形に自分を寄せていた。
壁の奥から、低い振動音。装置が動いている。
白罫線のひとつがわずかに波打ち、奥の機構が姿を現す。
***
装置を止めるには、二分の空白が必要だった。
ハルが逆位相の沈黙を装置に直挿しするが、最後のトリガは“名を呼ばないこと”。
つまり――。
ユウは理解した。
自分の“ユ”を、ここで手放せということ。
「俺がやる」
喉が乾いていた。
葵たちは、呼ばない。呼べない。
なら、自分で沈黙を受け入れるしかない。
ハルが目を伏せ、カウントダウンを始める。
二分。たったそれだけの時間が、永遠のように長く思えた。
音叉の下に立ち、ユウは目を閉じた。
息を吸い、吐く。
喉の奥が焼けるように痛い。
言葉を探すが、どれも出てこない。
「……」
空気だけが通り抜け、音は出ない。
装置の白がゆらぎ、壁の罫線が震える。
ハルが叫んだ。「あと三十秒!」
その間、図書館では全員が沈黙していた。
葵は机に広げた糸文字のノートに手を置き、“ユウ”の縫い目をなぞりかけて止める。
サエは拍を打たず、二分の休符を掲げるように手を組む。
レイは祈らず、ただ息を整えた。
ミオはユウの座る席の温度を保ち続け、トオルは影帳の「奪還計画」の列を指でなぞった。
ソラは堤防で、海に向かって瓶を転がし、風に名を託した。
誰も呼ばない。誰も叫ばない。
その沈黙の中で、ユウはようやく“自分の音”が消えていくのを感じた。
残り十秒。
足元の溝が光を放ち、罫線が灰色に濁った。
ハルがスイッチを叩く。
「三、二、一」
――白が落ちた。
眩しい閃光のあと、装置の心臓が止まる音がした。
振動が消え、空気が軽くなる。
白罫線は灰に溶け、床の溝には薄い埃が舞った。
***
「やった……止まったぞ!」
ハルの声が響く。
カイが兄のメモと照らし合わせ、頷く。
「心臓は落ちた。これで外からの標準化は止まる」
安堵の間もなく、警報が鳴った。
白い扉が開き、無言の職員が二人、現れる。
顔のないマスク。声のない口。
ハルが端末を引き抜き、カイが地図を抱える。
ユウは走り出した。
外へ。境界の膜へ。
足元の白い埃が舞い上がり、音が遅れて返る。
膜を抜ける瞬間、ユウは胸を押さえた。
――呼ばれた感触がない。
境界を越え、夜明けの空気が顔を打つ。
息を吸い込む。けれど、その息に音が混ざらない。
「ユウ!」と、誰かが呼んだ気がした。
だがそれは、風の音かもしれなかった。
***
図書館へ戻ったとき、皆が駆け寄った。
葵が真っ先に走り寄り、糸文字のノートを開く。
指先で“ユウ”をなぞると、そこには濃い“ユ”と、薄い“ウ”。
糸が途中で止まり、白い布地が覗いていた。
葵は手のひらを胸に当てる。
「戻ってきたら、ここを濃くしよう」
その約束が、ようやく叶ったのか、それとも――。
ユウは笑った。
声にならない笑い。
「半分で戻った。でも、戻った」
ハルが胸から取り出した端末を見せる。
盗んだログの中に、ひとつの識別子があった。
「“選別の部屋−B”……ナオのIDが残ってた」
皆が息を呑む。
ナオは生きている。
いや、どこかで“生かされている”。
外の光が窓から差し込み、灰のような埃を照らした。
白い罫線の外は、まだ終わっていない。
ユウは胸に手を当てた。
そこには、確かに鼓動があった。
音はないが、温度はある。
その温度が、まだこの世界のどこかに“呼び”を残している。
境界の向こうに、もうひとつの心臓。
ナオの声が、風の奥から微かに響く気がした。
(了)




