第十五話 波打ち際の実験
夕方の風は、いつもより塩辛かった。
堤防の階段を降りきると、砂利が靴の底で小さく鳴る。海面は浅くうねり、砕けた泡が石の間に白いレースを置いていく。監視ブイは沖で点滅し、背を向けていれば星のふりをするくせに、こちらが目をやると決まって赤に変わった。
ソラは、廃校から拝借した理科室の机を二人で担ぎ下ろし、堤防の陰にそっと据えた。机の上には、瓶。塩。簡易の温度計。海図。糸の束。
ミオは薬箱とガーゼと包帯を机の端に並べ、拍の配薬表を板にクリップで留めた。サエは堤防の上に座り、胸の前で静かに拍を刻む。声は出ない。けれど、その拍だけで十分にリーダーだった。トオルは影帳の「海路」の欄に今日の日付と風向を書き込む。ハルは瓶の栓を開けたり閉めたりしながら、指先ほどの磁束タグを栓のコルクに押し込んでいく。葵は指に新しい包帯を巻き、縫いの監修に回り、糸の節を指の腹で確かめてはうなずいた。
海は名を運ぶ。
塩は筆圧と糸節を支える。
糸は名を立体にする。
今日は、その三つを一本に結ぶ。
ソラは海図を広げ、指で潮目をなでた。
「この時間の風なら、ここから投げて、やや右へ。三〇分で小さな入り江に戻る」
「戻ってくるあいだに、どれくらい失う?」とミオ。
「ラベルは半分。けど、糸の筋と筆圧の谷は、塩が持ち上げてくれる。……はず」
最後の言い方にミオが笑う。
「今日は“はず”を“確かに”にするための実験だよ、ソラ」
ミオの声は柔らかいが、指の動きは医者のそれだった。糸カードを挟むピンセットを無意識に消毒液で拭き、風で乾かし、拍に合わせて机の上へ置く。彼女は“呼び”の医療をしている自覚がある。その患者は人の喉や皮膚だけでなく、紙や糸でできた名の断片でもあるのだ。
最初の試行は、うまくいかなかった。
薄い塩水に糸カードをくぐらせ、日陰で乾かす。結晶はできた。糸の節が白く光る。けれど、紙の縁がガラスみたいに脆くなり、角をつまむだけでパリン、と嫌な音を立てた。
「塩、強すぎ」とミオが言う。
ソラは肩をすくめた。「弱める」
第二の試行。濃度を下げる。乾かす。今度は、結晶が足りない。筆圧の谷がふっくら立ち上がらず、指の腹で触れても輪郭が見えない。
ミオは紙片の上に掌をそっとかざした。
「塩は守るけど、奪う。水も、油も。皮膚から奪って、紙からも奪って、守ると同時に削る」
ソラはうなずき、潮目に目をやる。陸から海へ、海から陸へ。眼の底で二つの流れがすばやく重なり、ほどけていく。
「じゃあ、濡らしすぎない。海霧だけでやってみよう」
「海霧?」
「潮風の微粒子。紙の心まで濡らさない。外側に薄い膜だけ作れる。……たぶん」
ミオは眉を上げたが、止めはしなかった。「風は、あなたの領分だもんね」
堤防の影に机を移し、ソラは海から吹き上げる風の層を読む。表面に近いところは重く湿り、少し高いところは軽い。堤防の曲がり角から逆流する渦。
ソラは瓶の口を開け、糸カードを竿の先に吊し、海へ向けて横に振った。紙は風の刃にやさしく削られ、目には見えない霧の粒が薄く乗る。結晶はすぐには見えない。時間がかかる。
待っているあいだに、ドローンの巡回が二度、距離を詰めた。
ユウは堤防の上を走り、死角の位置を連続で確認する。ハルはタグの出力を最小に絞り、波形のログの更新を止める。レイは祈りを封じたまま、拍にだけ意識を向ける。呼ばずに支える。それは、今日の合言葉みたいになった。サエは胸の熱と静かに折り合いをつけ、三拍子の緩やかな円を胸前で描いている。
ソラの視点から見ると、この日の海は優しかった。
潮目が遠ざかり、吹き下ろしが穏やかに紙を撫でる。
ミオの視点から見ると、この日の身体は脆かった。
指の小さな傷が塩で沁み、微細なヒリつきが集中力を削ぐ。唇が乾く。サエの胸は時おり奥のほうで熱を出し、拍の間合いがほんの少しだけ乱れる。
それでも、三時間、四時間と、霧の層を紙に重ねていった。
葵が糸の節を撫でて、首を傾げる。
「輪郭、残ってる」
ミオも指を添えた。「紙の心まで濡れてない。……いける」
ソラは海図の端を折り、潮の換わり目の時間に丸をつけた。
「今夜、一本、海へ流そう。拾い場は、あの小さな入り江」
トオルは影帳の「海路」欄を拡張し、新しく「束ID」の列を作って濃い鉛筆で縁取りした。
「一本じゃ足りない。セットでいこう」
ミオが机の上に四つの担体を並べる。
①糸カード。
②筆圧紙。
③パンチカード。
④瓶栓タグ。
「これを一つの名として束ねる。どれかが欠けても、残りで引き戻せるように」
医療テープが手早く巻かれ、束の中央には葵の欠画が、心棒のように細く通された。
「重いし、手間だし、間違えたら名が散る」とトオルは言った。
「だから束ID」と彼は続け、「影帳側は私が責任を持つ」
ハルはタグの電池寿命を計算して、栓に微細な切り欠きを付ける。「出力は弱く、でも消えないギリギリで」
サエの拍は三拍子。緩やかに、落とし。ミスを防ぐテンポ。
葵は束の中央に指を置き、欠画の一刺しを確かめた。糸は赤い。本人は何も言わない。けれど、その赤が今日の作業全体の中心を握っていることを、皆が知っていた。
ハルがふと端末に温度センサーをつなぎ、束の近傍温を取った。
「ちょっと上がってる」
「誤差じゃない?」とユウ。
「“呼び”の最中だけ上がる。声を使っていなくても、拍と触れと視線で」
ハルの画面には、細かな数字の揺れが白い帯になって現れていた。
「名には熱がある。……この熱が、塩膜の結晶を少し並び替えるのかもしれない」
ミオは束に掌を重ねた。「言葉がなくても、近さは熱で残る」
レイは黙って頷いた。その仕草は祈りに似ていたが、祈りではなかった。祈りは今は封印している。けれど、意味はここにある。
夜になった。
月は薄く、波は穏やか。堤防の影はさらに濃くなり、机の表面の塩が星みたいに光った。
ソラは束を一本ずつ瓶に詰め、栓をゆっくりねじ込む。磁束タグが小さくカチリと鳴る。ユウは堤防の上で周囲の気配を読み、赤い点が近づくたびに遠回りの合図を出す。
「一本目」
サエの三拍。ソラは肩で風を受ける。瓶は海へ。音は立たない。
「二本目」
拍。投擲。海霧が薄く飛び散り、瓶のガラスが月を飲む。
「三本目」
投げる。
一本、ロープで繋いでおいた回収用をゆっくり引くと、瓶の手応えがいつもと違った。張りがある。
引き上げる。
瓶の中で、糸の節がひとつ、ふたつ、濃くなっていた。塩の晶が谷に詰まり、光がその骨格を拾う。
ソラは喉の奥で小さく息を呑んだ。
「戻ってきても、残ってる」
葵がほっと笑った。指先がわずかに震え、欠画の一刺しを撫でる。ミオは束をタオルの上に置き、余分な水滴を拭い、体温で乾かしていく。
「続けよう。今夜は風が味方してる」
夜通し。
見張りは交代。サエは胸の熱に波を合わせるように拍の間を伸び縮みさせ、ミオは湿度と体温を管理して、誰も倒れないように水を配り、肩を叩いた。ユウは靴ひもを結び直すたびに、堤防の端から海面の光り方を確かめ、監視ブイの視線を読み替えた。
トオルは影帳に濃い線で作業ログを書き、束IDの列に二本の縦線を足すたび、鉛筆の芯を削った。レイは拍に合わせて、目をつむったり開いたりした。祈らない祈りは、静かな見守りの形になっていた。ハルは温度の帯を見守り、時折センサーを束から外して周囲の空気と比べた。
夜が明ける前に、ソラの指先は潮でしわしわになった。ミオの指も、ガーゼと塩にやられて赤くなった。二人は笑って、消毒し合った。
「しみる」
「しみるね」
痛みは合図。大丈夫、まだ握れる。
翌昼。
束を開く。
糸の節も、筆圧の谷も、昨日のままだった。
初めての、二十四時間保持。
サエが拍で歓喜を打ち、葵は机に突っ伏して笑いながら泣きそうな顔をした。ユウは堤防の上に立ち、遠くの監視ブイの死角を再確認しながら、片手で小さくガッツポーズを作った。トオルは影帳に太い線で「保持:達成」と記し、束IDの欄に小さな丸を二つ重ねて描いた。ハルは端末に同じ言葉を打ち込み、パンチカードに新しい穴を一つ穿った。ミオはタエの額に手を当てた。体温は落ち着いている。
海は、名を運ぶ。塩は、名を支える。糸は、名を立体にする。
それが今、手のひらの上でつながっている。
風が、少しだけ変わった。
ソラは潮目を振り返り、海図に視線を落とした。午後の潮なら、一本分、右へ流れる。……そのはずだった。
堤防の下で、赤が薄く広がった。
「誰か、足?」とユウが身を乗り出す。
ミオはすでに駆けていた。ガーゼを引き抜く。
違った。
足ではない。
波打ち際に、赤い糸が流れている。
葵の欠画の一刺し。
束の心棒に使ったあの一刺しが、海霧と塩でゆっくり膨張したり収縮したりを繰り返し、結び目がほどけ、糸がほつれはじめていた。
ソラは海へ膝まで入って手を伸ばした。水は冷たい。赤が指の間でほどけ、半分はもう水に溶けていた。
掬い上げた先端は、頼りないほど軽い。
葵は無言で手を差し出した。ソラはその手に濡れた糸を渡した。
葵の指が、わずかに震えた。古傷がうずくみたいに。彼女は糸を手のひらで受け、額に当て、目を閉じた。
誰も言葉を探さなかった。
束は守った。
でも、代価が始まっている。
ミオがそっと葵の肩を抱く。ハルは端末を取り落としそうになり、慌てて胸に抱え直した。トオルは影帳の端に小さく×印を打とうとして、手を止めた。これは失敗の×ではない。何かを得た分、何かが減っただけだ。レイは海に向かって頭を下げた。祈りではない。ただ、礼を言っている。サエは胸の前で三拍子を一度だけ打ち、その手を静かに下ろした。
ソラは海の表情を読み直した。
「潮が、糸を選んだ」
誰かが小さく笑った。誰かは小さく泣いた。
「巻き直せる?」とユウ。
葵は頷いた。「巻き直す。……でも、これは私のままにして」
彼女は濡れた糸を丁寧に布で押さえ、乾かし、紙の上ではなく、自分の掌の皺のあいだに一度だけ縫い留めた。皮膚は少しだけ赤くなった。糸はわずかに引きつった。
「痛くない?」とミオが訊く。
「痛いほうが、忘れない」
葵は笑ったけれど、その笑いの縁は震えていた。
午後の風が強くなり、粉のような海霧がもう一度、机の上を白くした。
ハルは懐のパンチカードを指で弾き、「次は街だ」と小さく呟いた。「線路に、休符のテープを敷く。街全体に沈黙を走らせる」
ソラは空を仰ぎ、サエは胸に手を置き、ユウは堤防の上で靴ひもを結び直した。
トオルは影帳に新しい見出しを書き加える。「名の列車計画」
レイは祈りの文句をまた折りたたんだ。今日は祈らない。次も、たぶん祈らない。祈りは最後の切り札として残しておく。
ミオは包帯を巻き直し、葵の掌の上の小さな縫い目にガーゼを当てた。
「海は返してくれた。あなたの糸も、たぶん」
葵はうなずいた。
波は短く、速く。監視ブイの赤は遠く、近く。
潮の匂いは、泣き声と同じくらいに、胸に残る。
夜がまた来る。
砂の温度が下がり、机の脚が細かく鳴る。瓶の栓は冷え、タグは弱く脈打つ。
堤防の下で、四つの担体はまだ静かに並んでいた。糸。紙。穴。栓。
そして、その中央に、細い赤。
海にほどけ、海に残った、葵の一刺し。
誰かの名を守るために差し出したものが、今度は誰かの名の外側で、灯のように揺れている。
呼べない音の代わりに、指が覚えている手触りがある。
波が打ち寄せ、引いていく。
塩が光り、糸がわずかに引きつる。
堤防の上で、サエが三拍子を一度だけ、そっと。
街の奥で、線路沿いに、低い脈動が返事をする。
束は守った。
代価は、終わりじゃない。
ここから先へ、休符のテープを敷く。
名の列車を走らせる。
波打ち際の実験は、手のひらに残る熱ごと、次へ渡す。
そのとき、沖の監視ブイが、一瞬だけ赤から白へ変わった。
白は、罫の色だ。
ソラは反射的に海図を閉じ、ミオはガーゼを押さえる手に力をこめた。ユウが振り向き、ハルの画面に細い線が一本、走った。トオルの鉛筆がページの端で止まる。レイは掌を空へ。サエの胸がわずかに上下する。
海風が、濡れた糸を乾かしながら、どこか見知らぬ場所の匂いを連れてきた。
それは、境界の向こうからの予告のようでもあり、街がこれから受ける拍の前触れのようでもあった。
葵は掌の縫い目を確かめ、顔を上げた。
目の前には、いくつもの瓶と、いくつもの名と、いくつもの線路が待っている。
準備は、できている。
痛みも、熱も、拍も、ここにある。
波が、もう一度、静かに寄せた。




