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名前を失くした少年たち―指でなぞれば消える世界で、私たちは互いの名を呼ぶ。それだけが、生きていた証だった。  作者: 妙原奇天


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第14話 図書館の地下

 朝の冷えは、湿った紙の匂いを濃くする。

 葵は利き手の指に新しい包帯を巻き、床板の節目を数えながらしゃがみ込んだ。十二と十三のあいだ。油染みの縁を爪でなぞると、硬い金属の感触がかすかに返ってくる。指先に引っかけて、そっと持ち上げた。古いリングが床から立ち上がり、木がきしむ。

 ハッチを開けると、冷たい空気が頬を撫でた。湿気、古紙の粉、低く鳴る換気の唸り。地下の匂いは、待つ人の息に似ている。まだ名を呼ばれていない誰かが、暗闇の奥で小さく拍を刻んでいるみたいだ。


 「降りるよ」

 階段の縁に片足をかけ、葵は呼吸を細かく切った。上ではユウが見張り台に登る音、ミオがタエの様子を看る声、ハルの端末が短く鳴る音。サエは胸の痛みで声を封じ、拍だけで合図を送っていた。トオルは影帳の「境界外」の列を増やしながら、鉛筆の削りかすを静かに払っていた。


 一段、また一段。

 地下資料室は、思っていたより広かった。壁際に金属の棚が並び、段ボール、布袋、錆びた鍵束、紙カードの箱、布に包まれた旧式のマイク。窓はないが、天井近くの通風孔が細く空をつないでいる。風がじりじりと通って、ランプの火が揺れた。

 兄のメモにあった印――パンチカードとマイクの保管庫――を目で探す。棚の二段目、緑色の箱に打ち抜かれた丸い穴。そこに指を差し入れ、箱一つずつを手前へ引く。紙の束がぎっしり詰まっていた。角が固い。

 ここを、最後の書庫にする。葵は指の包帯を握り直し、心の中で言い切った。


 地上は検問が強まっている。窓外には白いテント、路地に立つ灰色の影。ドローンが見張り台の上で無音の圧を撒くたび、図書館の壁紙が薄く鳴る。サエは胸の痛みで顔をしかめ、拍だけで皆を動かしている。ミオは夜通しタエの額を冷やし、呼吸にぴたりと手のひらを合わせ続けていた。ハルは端末の逆位相の調整に肩を凝らせ、トオルは影帳に新しい列を増やす手を止めない。

 誰も余裕はない。だからこそ、名の担体をここへ避難させなければならなかった。


 糸と紙を、箱から出す。

 葵は机に名簿を広げ、ほつれた画を指で押さえた。第六話で縫いなおした箇所、昨夜のノイズの壁に揺さぶられた箇所。針を立て、針目の呼吸を整える。上ではサエがハミングの代わりに、胸の上で二拍、三拍を静かに転がしてくれている。

 それから、異変に気づいた。


 糸の節が、紙からぽろりと外れた。

 縫った箇所のいくつかで、糸文字が紙の繊維から剥がれている。塩水で守ったはずの谷の凹みはまだ残っているのに、基材の紙が粉のようにほどけはじめていた。指先で触れると、乾いた粉が包帯に白く移る。

 ミオが降りてきて、糸と紙の境目を目で追った。

 「紙そのものが疲れてる。塩で守れたのは筆圧の谷だけ。土台がへたると、縫いは支えられない」

 「代わりの紙は?」

 「街の在庫は、ほとんど没収された。帳簿用の薄紙なら少し残ってるけど、強度がない」

 葵は胸がひやりとするのを感じた。紙が守れないなら、縫いの意味が半分失われる。

 「布に縫うのは?」

 「布は分厚い。冊子にすると重くなる。湿気も吸う。黴びる」

 ランプの光が糸の影を壁に踊らせる。影の揺れが急いてくるようで、針が焦る。焦れば、指を刺す。包帯に赤がじんと滲む。


 書く/呼ぶ/縫う。その三つのうち、今は縫うが崩れかけている。

 葵は針を握り直し、頭の中の線を引き直した。紙に縫うのではなく、紙の穴に縫う――。

 視線が、棚のパンチカードに吸い寄せられる。

 穴。

 穴の列。

 「これに、縫えばいいんだ」

 口の中で言葉になっていた。

 パンチカードの穴は、糸の通り道に見える。穴から穴へ最短動線で運針すれば、紙の繊維に負担をかけずに糸の骨格を固定できる。カードは布より軽く、紙よりも堅い。

 ハルが端末を抱えたまま降りて来て、目を丸くした。

 「カードはもう“名のハッシュ”に使ってる。情報と物理が重なる……やれる」

 「代償は?」

 「穴の位置は規格化されてる。長い名や多義の名は、圧縮表記が要る。誤読の種になる」

 トオルが影帳を抱えて現れた。

 「圧縮のキーを作る。ナオの指符と照応させて、一覧にする」

 ミオは針と糸を塩水で丁寧に拭き、火で小さく炙って冷ました。

 「消毒は私が回す。糸は短めに。汗も塩も紙に残るから、拭き取り用の布も置くね」

 上ではサエが、胸の上で「運針テンポ」を刻みはじめる。ゆっくり、均等、二拍ごとにひと目。レイは祈りを封印したまま降りてきて、糸の端を押さえ、テンポに合わせて小さくうなずいた。


 最初のカードは、ユウの名から。

葵は穴と穴を見比べ、階段の設計図を描くみたいに運針の順路を決めた。直線、折り返し、角の留め。糸が穴の縁を傷めないよう、角では二目重ねる。

 指先が最初の穴をくぐるとき、包帯越しにも、穴の硬さがしっかり返ってきた。紙の縁は砕けない。

 糸が穴を渡っていく。

 あのとき、葵がユウの名から自分の一画を分け与えたように。

 今度は紙が糸を支える番だった。


 ハルは隣で、カードの穴配列を端末に取り込みながら、圧縮表記のルールを整えていく。トオルは影帳に「圧縮キー」列を新設し、ナオの指符表から対応表を写経する。ソラは瓶から作った小さな霧吹きで、薄い塩霧を周囲に散らした。紙が湿りすぎず、乾きすぎない濃度。サエの拍が、針目の深さを揃える。レイは糸の端を押さえ、テンポが乱れそうになると視線で止める。

 やがて、カード一枚にひとつの名が宿った。

 穴の列を渡る糸の筋は、薄いレールのように見える。指で触れると、凹凸がちゃんと返ってきた。触覚だけで名を読める手応えがある。


 葵は次のカードを手に取った。ミオの名、ハルの名、レイの名、サエの名。長い音は圧縮し、言えない子音は休符の穴で置き換える。圧縮は怖い。けれど、ここでは時間が紙より薄い。迷っている余裕はなかった。

 針を進めるたび、指の包帯が糸に擦れ、じんと痛む。痛みは怖くない。痛みは合図だ。

 穴から穴へ、運針の地図を描く。


 通風孔の奥から、風が少し強くなった。

 葵は顔を上げ、天井の四角い格子に耳を傾ける。

 ほとんど聞こえない。けれど、何か、言葉のようなものが波になって寄せ、また引く。

 ハルが旧式マイクを取り出し、通風孔の直下に置いて帯域を狭めた。

 「……違う呼び方だ」

 ハルの眉が寄る。端末に映る波形は、こちらの合唱と違う形をしている。谷と峰の位置がズレている。

 「方言、でも、祈り、でもない。符号に近い。向こうの区画の“呼び”かもしれない」

 通風孔は白罫区の外と、細くつながっている可能性。

 葵はカードを見下ろし、縫った糸の筋を指でなでた。

 「ここから……渡せる?」

 言ってから、怖くなった。これまでずっと、名はここに留めてきた。留めたから、薄れても戻せた。渡すことは、手放すことだ。

 でも、検問が来れば、紙も糸も奪われる。地下を見つけられるのは時間の問題だ。なら、ひとつでも名を、先に奥へ逃がすべきだ。

 葵は考えて、思考を反転させた。

 カード一枚ずつではなく、連綴にしてリボンにする。

 穴に糸を通したカードを、端で糸継ぎにし、長い帯にする。

 「カードリボン」

 口の中で言うと、少しだけ勇気が出た。


 皆が動き出した。

 ハルは穴配列の最適化をして、各名の始点と終点を揃える。継ぎの位置が重ならないよう、名前同士の順を組む。

 ユウは地上から滑車を持って降り、通風孔の縁に小さな滑り台を作った。錆びた金具は動きが悪いが、油も声も惜しまず回す。

 ソラは塩霧をさらに薄め、カードの表面に見えない膜を作る濃度を試す。「海で残ったラベル」を思い出しながら、霧を均一に。

 ミオは縫い手の交代の時間を決め、指の消毒の順をタオルの上に並べた。針を持つ指が震えたら、鈴の代わりにその手を握る合図も決める。

 トオルは影帳に「リボン送出」の欄を作り、名の順、圧縮キー、糸色、継ぎ位置、送り出し時刻を記す。

 サエは胸の前で拍を刻み、押すと引くのタイミングに手を添える。

 レイは祈りを封じたまま、糸の端を押さえ、合図の視線だけで全体のテンポを整えた。


 葵は先頭のカードを手に取った。

 先頭には“見出し”を作る必要がある。向こうで読む人が最初に触れる印。

 葵は全員の名から最小単位の画をひと画ずつ借り、重ね縫いをした。

 ユウのヨコ線を一本。

 ミオの撥ねを一点。

 サエの丸みを少し。

 トオルの角の鋭さ、ソラの柔らかい折れ、レイの細い継ぎ、ハルの短い留め、ナオの指符の点。

 それらを薄い糸で束ね、先頭の穴に編み込む。

 葵の名の欠画は、その横に小さく縫う。

 「ここにいる」

 針を抜くたび、胸の中で言った。


 リボンは細く長くなっていく。

 滑車を通して通風孔へ送り出すと、最初は空気に押し返される。ユウが押す。サエが二拍刻む。葵が引く。押しと引きが噛み合わないと、カードの角が孔の途中にひっかかる。

 「もういちど」

 サエの指が二拍を示す。

 押す。

 引く。

 押す。

 空気の膜が裂けるような手応えが、滑車の紐に伝わった。

 リボンが通風孔の奥へ、するすると吸い込まれていく。

 そのとき、向こうから微かな引きがあった。

 誰かが、そこにいる。


 葵は息を止めた。

 見出しを通した。

 次のカード、次の名。

 名は、向こうへ渡っていく。

 ここに残るのは、リストではなく、触れた指の温度。

 それでも、ここには糸の手触りが残る。

 葵は最後尾のカードに「読む人へ」とだけ刺繍した。言葉はそれだけ。長い説明はしない。触れればわかる。糸の結び目の向き、針目の深さ、圧縮の癖。

 リボンは通風孔に収まり、地下の床に余白が生まれた。

 手を離す。

 空気が少し軽くなる。

 その軽さが、どうしようもなく心細い。


 上から、靴音が落ちてきた。

 固い靴。

 規則正しい歩幅。

 検問の隊列だ。

 ユウが上に向かって目で合図する。ミオはタエの肩に布をかけ、喉の角度を変える。ハルが端末の画面を伏せ、トオルが影帳を布で覆う。サエは拍を止め、レイは胸の上に静かに手を置いた。

 葵は滑車の紐を外し、通風孔の縁の埃を布で払う。ハッチを閉める前、もう一度だけ耳を当てた。


 わずかな擦過音。

 そして、軽い衝撃。

 通風孔の奥から、紙が一枚、弾き返されるみたいに戻ってきた。

 葵は反射的に手を伸ばし、空中でカードを受け止める。

 見出しではない。中途のカードだ。

 穴のいくつかに、見知らぬ糸が通っている。

 縫い目の方向が、こちらと逆。

 葵とは違う針の癖。

 誰かが、向こうで読んだ。

 そして、書き足した。


 カードの隅に、小さく、小さく縫い込まれた符号があった。

 指で触れると、胸の奥が痛いほど強く熱を持った。

 サエ。

 声がないはずの、彼女の名。

 外から、返ってきた。

 誰の指がこの縫いをしたのか。向こうの誰かに、サエの符号が届いて、ここへ跳ね返ってきたのか。

 葵はカードを胸に抱いた。

 上では、扉の開く音がした。

 固い靴が廊下を打つ。

 ハッチのリングに冷たい影が落ちる。


 葵は深く息を吸い、指に力を込めてハッチを静かに閉じた。

 暗闇に目が慣れる。

 胸の中で、拍が二度、ゆっくり打たれた。

 サエの拍だ。

 返ってきた名は、ここにある。

 そして、向こうに渡した名は、もうどこかの指に触れている。

 糸の手触りが、闇の中で確かに残った。

 図書館の地下は、息を潜め、上の世界の靴音を聞いた。

 次の針目の位置は、もう決まっている。

 呼べない音と、縫える名の、その両方で。

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