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名前を失くした少年たち―指でなぞれば消える世界で、私たちは互いの名を呼ぶ。それだけが、生きていた証だった。  作者: 妙原奇天


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第13話 兄の影

 昼下がりの光は、廃図書館の窓ガラスをひとつおきに白く曇らせていた。

 カイはその曇りの手前、机の上にボロのリュックを置いて、深く息を吐いた。息の色まで見える気がした。指先はまだ震えている。背のファスナーを上げ下げするたび、金属の音が薄い廊下へ漏れた。


 封筒は油じみて、角が柔らかくなっている。カイは慎重にそれを取り出し、糸で綴じられた口を解いた。中に入っていたのは、几帳面な字のメモ束だった。

 実験地区。消去ライン。境界装置。位相ずれ。

 紙の上の言葉は、カイの兄が長い時間をかけて拾い集めた、街の秘密の骨だ。カイはその骨を、ここにいる皆の前へ置いた。


 「……兄さんは、反政府の集まりに出入りしてた」

 カイは言い終えてから、自分の声が思ったより大きかったことに驚いた。喉が渇く。サエは胸に手を置いたまま、拍で黙って促す。ミオが湯で薄めた塩水をコップに注ぎ、カイの前へ滑らせた。

 「境界は、柵とか線じゃない。空気の位相をずらす装置で作られてる。兄さんは、そう書いてた」


 葵が糸旗を膝に置いた。針に通した糸が、夕方前の光で細くきらめく。ユウは窓辺の見張りを続けながら、半歩だけこちらに体を向けた。ハルは端末の画面を暗くして、耳で聞いている。トオルは帳場から降りてきて、黒い鉛筆を指に挟んだまま立ち止まった。


 「位相がずれた空間では、音の峰と谷が裏返る。だから、境界の外では呼びが通じない。戻ってきた者の名は、別の物として扱われる。……兄さんは、そう言ってた」

 語尾の震えは、兄の字をなぞる指の震えと同じだった。

 「ソラの瓶が時々、戻らないだろ。あれも“位相の折り返し”に引っかかってるせいだ。潮目と風の角度が重なると、空気の折れ目ができる。そこを越えると、呼びの形が反転する」


 ハルが顔を上げた。

 「線路沿いの制御箱、ダクトのノイズ、夜間バッチ……全部、一本の線でつながる」

 目の奥に光が走っていた。端末の画面が、その光を拾うみたいに白く瞬く。


 レイは祈りの紙片を束ねたまま、言葉を飲み込んだ。祈らないと決めたら、目がやけに利く。カイの紙に書かれた兄の字、その抑揚、その間隔。その背後に、誰かの呼吸の名残がある。


 そのとき、サエの拍がふと欠けた。一拍。

 誰もが顔を上げるのに、半拍分の遅れがあった。疲労は拍に現れる。ミオだけがすぐに周りを見回し、机の端に置いた名簿のページを速くめくった。

 「……タエが、いない」

 声は低く、小さく。けれど全員の胸に突き刺さる。


 朝の点呼で拍が一つ足りなかった。気づかなかったのは、昨夜の合奏の反動で、皆の感覚が鈍っていたからだ。

 ユウは走った。廊下、階段、扉。堤防へ続く路地に出ると、防潮扉の手前に、小さな靴跡が続いているのが見えた。砂に埋もれかけた、子どもの足のかたち。

 トオルが帳簿をめくり、影帳のタエの行を指でなぞる。文字は消えていない。けれど、その上に薄い灰色の幕がかかっている。

 「消失じゃない。……別の位相に滑ってる」

 トオルの声は乾いている。数字を扱う手が、今は震えていた。


 カイは兄のメモ束の中から、一枚を引き抜いた。そこには、座標と時刻、潮位と風向が、短い式のように組まれている。

 「窓」

 カイは言った。

 「境界装置の“窓”。潮位と風向が重なったときだけ開く狭い時間。……今朝、その時間だった。誰かが、向こうに呼び込まれた」


 葵は名簿の空白に、タエの幼名を縫い足した。針目が震える。糸の節が、紙に影を作る。

 「戻る席を、ここに用意する」

 葵は小さく言い、指に滲んだ血を塩水で拭った。

 ユウは歯を食いしばった。腕に焼き込まれた印が、汗でうっすら光る。

 「迎えに行く」

 短い言葉に、抵抗の余地はなかった。

 レイは祈りの文句を封印したまま、掌を胸に当てる。言葉は使わない。拍と触れでやるべき夜がある。

 ミオは応急の包帯と薬を小さな袋に詰め、鈴を握り直して袖に隠した。

 ハルは端末の逆位相生成の画面を開き、白い帯と黒い谷を並べる。

 トオルは輪唱順をもう一度書き直し、「遠い→近い」の最後に全員の触れを重ねる。

 サエは胸の上に掌を置き、今夜のテンポを測り始めた。


 カイは最後にもう一枚、兄の字を皆に見せた。

 窓の開閉は鉄の長いものと同期。

 鉄の長いもの。

 列車。

 この線路はもう動いていない。けれど、夜間バッチのバックボーンに擬似列車のパルスが流れている。窓の開閉は、そのパルスに同期している。


 夕暮れ。

 堤防の窓の座標へ集まると、空気が薄い膜のように揺れていた。

 遠くの音が半拍遅れて返ってくる。波の音、風の音、人の靴音。それぞれに、わずかな遅れ。

 「ここだ」

 ハルが端末を掲げる。画面の白い帯と黒い谷が、時間の中で一度だけ反転して見えた。

 「窓が開くのは、この一瞬」

 ハルは目を細め、保存キーのすぐ上に指を浮かせる。


 堤防の縁に立つ境界柱には、金属の音叉のようなものが取り付けられていた。錆びているのに、風が当たるたびに薄い音がする。ソラは瓶を握り直し、栓の糸の位置を二ミリだけずらした。

 「逆鳴りで塞ぐ。瓶はこっちで合図」

 ソラの目は海と同じ色をしている。水平線の手前で、波の呼吸と自分の呼吸を合わせる練習を、彼は何度もやってきた。


 「二段でいく」

 ユウが短く言い、皆の顔を順に見る。

 「線路の制御箱へ逆位相の沈黙。堤防の音叉へ瓶の逆鳴り。二段の楔。……やる。やらない理由は、ここにはない」

 反論はなかった。代償を誰もが知っていた。装置は戻る。そのとき、向こう側の誰かの名が押し出されるかもしれない。救いは排除の裏返しだ。

 それでも、今はタエを見捨てられない。


 サエが胸の上で拍を起こす。吸って、止めて、吐いて、止めて。拍は声の代わりに皆へ伝わった。

 レイは祈らない。手だけを使う。一人ひとりの背に掌を当てる。冷えた背には熱、熱い背には静けさ。言葉はなくても、意味は届く。

 葵は糸旗を握り、合図の色を確かめる。赤、青、白。

 トオルは「遠い→近い」の順で最終呼びを配置し、最後の触れの位置を決めた。

 ミオの手は、タエがいつも座っていた空席の上に浮かぶ見えない肩に触れる。触れは空をつかむようだったが、指先に確かな冷たさが付いた。

 ソラは瓶の口を海風に向けた。


 合図。

 ユウが枕木を踏む。

 ハルが逆位相の沈黙を送出。

 ソラの瓶が逆鳴りで音叉を塞ぐ。

 白い帯がひとつの線に絞られ、黒い谷が細かく砕けて散る。空気が軋む。

 窓が、短く、開いた。


 足音。

 小さな足が、堤防の縁でよろめく音。

 ユウは走っていた。ソラも走っていた。二人の腕が、同じ一点へ伸びた。

 タエは軽い。驚くほど軽い。抱き上げると、呼吸が浅く、唇が乾いている。

 ミオが受け取り、体を横向きにして背中を軽く叩く。気道に引っかかった小さな空気が、ひとつ、音を立てて戻った。

 「大丈夫。戻ったよ」

 ミオの声に、タエのまぶたが薄く震える。

 窓は閉じた。白い帯は元の太さに戻り、黒い谷は水平に沈む。逆位相は成功した。


 全員が息を吐いた。

 その輪の外に、カイだけが海を見ていた。

 風が変わった。

 呼ぶ声がする。

 名前は言えない。けれど、間違いなかった。兄の声だ。

 カイは半歩、海側へ足を踏み出した。靴底が濡れた石の上でわずかに滑り、小さく音がした。


 「待て」

 ユウの手が肩を押さえた。

 その瞬間、ハルの端末に未知のノードが点った。

 パンチカードにない座標が、地図の端で脈打つ。

 「見たことない……ノード」

 ハルの声は低い。白い帯がそこだけ細く伸び、地図の縁が薄くめくれ上がって見えた。

 トオルは影帳の空白に鉛筆を走らせる。「境界外:未登録呼称」。

 レイは掌を空に掲げた。祈りは封印したまま。

 葵は名簿の空白を撫でた。

 「ここに席がある」

 糸の節が、指に触れる。そこに座る者を想像し、指で場所を温める。


 タエの瞳に、誰か別の影が一瞬だけ走った。

 それは、向こう側の誰かの残響なのか。窓の縁に付いた異物なのか。タエは薄く息を吸い、唇を結ぶと、かすかに頭を振った。

 ミオは額に手を置き、体温を測る。少し低い。それでも、はっきりとこちらの温度だ。

 サエは胸の上で二拍を刻み、拍を静かに落とした。


 「兄さんが、呼んでる」

 カイの声は風にさらわれそうに細い。

 ユウは肩に置いた手を離さない。

 「呼ばれてるのは、お前だけじゃない」

 ユウは海の方角を見た。線路の奥で、低い脈動が続いている。

 ハルの端末の地図には、未知の点がゆっくりと明滅していた。地図の端に近い。外れにある。

 ソラは瓶を胸に抱いた。栓の糸がわずかに鳴る。

 レイは言葉を飲み込み続けた。祈れば、ここで呼びが崩れる。今は、沈黙で耐えるしかない。


 図書館へ戻る道の途中、風向きが変わった。

 境界は破れたのか、重なったのか。

 葵は歩きながら、名簿の角を指で押さえた。縫い足したタエの幼名の一画は、まだ温かい。

 トオルは帳場の端に新しい列を作るつもりで、鉛筆を握った。未登録呼称。境界外。救助計画。その列が、重くなる気配を指先が知っている。


 図書館に着くと、皆は短い動きで元の位置についた。

 ミオがタエを寝かせ、喉を湿らせ、指先に温度を戻す。

 サエは拍を肩で刻み、合図の小さなリズムを部屋に広げる。

 ハルは端末の画面を斜めにして、未知の点の明滅を見た。周期は一定ではない。擬似列車のパルスに乗っているようで、少し外れている。

 「呼んでる、というより……叩いてる。外から敲いて、こちらの沈黙を探してる感じ」

 ハルの言葉に、レイの指がわずかに動いた。祈りの構えが体に戻ってくる。

 「まだ封じておけるか」

 ユウが問うと、レイはうなずいた。

 「封じる。封じるから、準備して。向こうとこちら、どちらを選ぶか、次で決めることになる」


 葵は机に座り、針を手にした。

 名簿の一番下に、空白の行を縫い足す。誰かのための席。そこに座る名前は、まだ言えない。言ってしまえば、その瞬間に薄くなる。

 糸の節を指で押さえ、呼吸を整える。縫い目は一定。拍は一定。沈黙は形を持つ。

 「ここに席がある」

 葵はもう一度、小さく言った。言葉は紙の上ではなく、自分の胸の中に落ちた。


 窓の外では、赤い点が遠くへ移動していく。

 線路の方向から低い脈動が続く。

 未知の点は明滅し、消えない。

 カイは封筒を胸に抱いた。兄の字は、まだ体温を持っている気がした。

 「兄さん……」

 声に出したのは、その二文字だけだった。名前は続かない。続けられない。

 レイが短く息を吸い、吐く。

 祈りはまだ封印のまま。

 それでも、掌は空を受ける形を作っていた。意味だけが、そこにある。


 夜の入口で、図書館は静かにノイズをやり過ごす。

 サエの拍が一定に戻り、ミオの手がタエの背を撫で、ソラの瓶が息を潜め、トオルの鉛筆が止まり、ハルの画面の白が細く息をして、葵の針が最後の一目を落とす。

 ユウは扉の前に立ち、次の一歩の方向を測っていた。


 境界は、きっと破れていない。

 けれど、重なった。

 重なった場所には、呼びと沈黙が同時にある。

 その場所で、誰の手を取るのか。どの名を先に太らせるのか。

 次で、決める。

 ここで、決める。


 図書館の空気は、海の匂いを少しだけ含んでいた。

 窓の向こうで波が息をすると、糸旗の結び目がかすかに揺れる。

 葵はそれを指でそっと押さえ、目を閉じた。

 指先に残る温かさは、誰かが戻ってきた証。

 そして、誰かが呼んでいる証。


 カイは封筒を机に置き、兄の字の一枚を表にした。

 窓の座標。風向。潮位。擬似列車のパルス。

 指で一度なぞり、目を上げる。

 「行く」

 その言葉は、明日へ向けて放たれた。

 レイはうなずき、掌を下ろし、言葉を飲み込んだまま、拍の位置へ一歩ずれた。

 ユウは扉の前で体をほぐし、ハルは端末を胸に抱え、ミオは救急袋に手を伸ばし、ソラは瓶の栓を確かめ、トオルは帳簿を閉じ、葵は針を布に刺した。


 夜が来る。

 未知の点は、まだ明滅している。

 兄の声は、風の中に細く混じったままだ。

 サエの拍が、部屋の中心で二度、静かに打たれた。

 それは、準備の合図。

 そして、選択の前奏。

 沈黙が、意味を持って、深くなった。

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