第12話 合唱:沈黙の合奏
朝の冷えは、図書館の床板をすうっと薄く硬くしていた。
サエは机の上に置いたメトロノームのぜんまいをそっと外し、代わりに自分の胸に手を置いた。鼓動はまだ荒くない。拍を刻むのは機械じゃない、と決めたのは昨夜だ。声が出ないなら、残っているもので全部やる。息、指、視線、布、紙、糸、瓶、壁、床。ここにあるものをひとつずつ楽器にして、合唱をやる。
掲示板には新しい譜面が三枚。葵が朝いちばんで描いた大きな図は、触覚譜と拍譜と視覚譜だ。
触覚譜は、肩・肘・手首・背・掌の五点を線で結び、矢印で順番が示してある。触れる指は二本まで。強く押さない。触れたら一拍おく。
拍譜は、床・机・瓶・本・壁の五音を一拍ずつ回す図。床は足先、机は関節の背、瓶は栓を指で軽く弾く、本は背表紙を二度撫でる、壁は節の少ない場所をこつりと叩く。
視覚譜は、糸旗の色で拍の位置を知らせる。赤は一拍目、青は二拍目、黄は三拍目、白は休符、緑は転調。旗は葵が一晩で縫った。結び目の場所でタイミングがわかる。
ハルは端末の画面から音の表示を抜き、沈黙の形だけを残した。波形は白い帯になり、均整が整うほど太くなる。
トオルは輪唱順を「遠い→近い」で維持しながら、最後の“近い”で全員が触れる規則を太字で書いた。そこにだけ、ひとりごとの秘密を置かない。重さを均すための決まりだ。
ミオは指のささくれと喉の乾き具合を見て回り、小さな瓶から塩水を一口ずつ配る。
ソラは瓶の打音を並べ、堤防で拾ってきた波のテンポと合わせる練習を繰り返す。瓶の首に細い糸を巻き、音程が変わらないように印もつけた。
ユウは出入り口の陰に立って、外の見張りと合図の中継を担う。目線ひとつで拍の方向を変えられるよう、視線のやり取りも練習した。
準備が整ったように見えた瞬間、天井のダクトが、いちどだけ息を吸うみたいに鳴った。
開始早々、上から不規則な静寂が降りてくる。音でもノイズでもない、人工の“間”。昨日までは偽の拍だった。今日は偽の休符。こちらの休符と紛れるように、空白だけが落ちてくる。
サエはメトロノームに手を伸ばしかけて、すぐに引っ込めた。代わりに、指を立てる。
「呼吸でいく」
声は出ないから口は動かない。けれど、全員は意味を取った。胸の上下、肩の動き、指先の振幅——人の体そのものをメトロノームにする。
トオルが帳場で小さく唸る。「記録が難しくなる」
「難しいほうが、向こうが真似しにくい」とハル。
レイは祈りを封じ、目線だけで「そこ」を指す訓練に入った。言葉は今は刃になりすぎる。なら、目で触る。
合奏がはじまる。
拍譜に従って、床→机→瓶→本→壁。かすかな一打が部屋を回る。
触覚譜に従って、肩→肘→手首→背→掌。指先が一人から一人へ、そっと熱を乗せて渡っていく。
視覚譜に従って、糸旗が右から左へ。結び目の位置で合図が走る。
声はひとつもない。
それでも、部屋に拍と触れと視線の厚みが満ちていく。
サエの胸に置かれた手の下で鼓動がわずかに速くなる。拍を先行させてはいけない。彼女は息を四拍吸って、二拍止め、四拍吐いて、二拍止める。呼吸が拍譜の外枠になる。
ミオは鈴に伸びそうになる指を自分で握り、呼吸の長さで信号を送った。四拍吸って二拍止める、その止めを触れで肩に押し込む。
ソラの瓶が一度だけ甲高く鳴った。偽休符の空白に、緊張した音が針のように刺さる。天井の“間”が一瞬だけ跳ね返され、白い帯の端が崩れないで済んだ。
ハルの画面に、均整のとれた白が帯になって現れる。今のところ、こちらの沈黙は壊れていない。
だが、集中は長くは続かない。
誰かが一拍飛ばす。すぐに全員の沈黙が噛み合わなくなる。
壁を叩く音が一拍早く、机が遅れ、床の足先が二拍続けて落ちる。触覚の順も乱れ、肘に触れるべきところで背に回ってしまう。
サエは目を閉じ、胸の内側で拍を整える。四拍の吸い、二拍の止め、四拍の吐き、二拍の止め。
葵は旗の結び目を指で弾いて、視覚の合図を半拍早く出した。わざとずらすことで、偽の休符との違いをつける。旗の色を連続二色にして、フェイントを入れる。
レイが目だけで椅子の影を指し、誰かの空席の場所を示す。名前は言わない。影の形だけが指される。
ユウは出入り口の陰から一歩前へ。足音は出さない。目線だけで次の拍の順番を回す。
トオルは帳場でペンを走らせ、拍譜の余白に細い列を一本足した。「乱数」。
「毎回同じ長さの沈黙は、上書きされやすい」ハルが気づきを口にし、端末の白帯を指でなぞる。「長く続けると、向こうの“間”がエコーを起こして、こっちを塗る」
「なら、沈黙の長さをずらそう。ナオの符を借りる」トオルはすぐにうなずき、「一、二、三、五、八。フィボナッチで回す」
拍は整ったように見える。けれど、身体でフィボナッチは難しい。
サエは胸に手を当て、鼓動の間隔を微調整する。ミオの指が背から背へ移り、触れが熱の地図を描く。葵は旗を二色続けて振り、青から白、白から黄へと流れを作る。ソラは瓶の栓に巻いた糸の位置を少しだけずらし、音の余韻を短く切る。
偽の休符が上から落ちてくるたび、こちらの沈黙は秒針の歯車みたいに違う刻みを見せる。真似しづらい。真似した瞬間に別の長さへ移る。
ハルの白帯は、帯のまま太っていく。
「いい、通ってる」ハルが小声で言い、端末の隅にある小さな保存マークに指を伸ばしかけて、まだだ、と自分に制した。
合奏が半分を過ぎた頃、部屋の温度が一段上がった。
密度の高い何かが、ゆっくり座るみたいに沈む。
誰の名も言えない。言えないからこそ、椅子の足が床を押す微かな音でわかる。触れの順番が輪になったとき、そこだけ空気の手触りが違う。
レイの目に涙が浮かんだ。祈りの文句は、いらない。祈りの意味だけがここにある。
葵は旗を胸の前で一度止め、縫い合わせた結び目を指で押さえた。糸は冷えると切れる。今はまだ温かい。
ミオは肩から肩へ移る掌をゆっくりにして、ひとりひとりの呼吸に合わせた。サエの背中に触れたとき、布越しの鼓動が指に移った。
ソラは窓をわずかに開けて、海の呼吸と部屋の拍を重ねる。潮の匂いが薄く流れ込む。瓶の中の小さな塩が、淡い光を返した。
ユウは外の通りの足音を数え、危険が近づいていないか確かめる。ドローンの高い唸りは今はない。向こうの“間”は遠のいていく。
ハルは端末の白を見届け、親指で保存を押した。
古いプリンタが、紙の匂いを部屋に吐き出す。パンチカードに小さな穴が穿たれ、局所保存のハッシュが記録される。
トオルは影帳に「沈黙合奏:成功」の文字を記す。文字は黒くならない。煤も広がらない。
サエが胸の上で指を一度だけ鳴らし、拍を閉じる合図を出す。
終わった。
誰も拍手はしない。拍は“名の拍”にしか使わないから。
代わりに、静かな休符が部屋に落ちた。
成功の直後、音のないところから、サエが膝をついた。
喉ではない。胸の奥の熱だ。
ミオが駆け寄る。
聴診器はない。でも、耳はある。指の腹もある。肋骨の間にそっと手を入れ、息の流れを拾う。
「痛む場所、ここ?」
サエはうなずいた。声は出ない。眉間の皺が深い。
「声帯じゃない。胸骨の後ろ側が焼けてるみたい」ミオが小さく呟く。「音が出なくても、拍の負荷が中を擦っていく。無音のやけど」
塩水を一口。サエはゆっくり飲み、横になった。呼吸のテンポだけは崩さない。四拍吸って、二拍止めて、四拍吐いて、二拍止める。
葵が毛布を肩に掛け、旗をひとつ外して枕の高さを整える。糸の結び目が頬に触れないように。
窓の外に、遠い赤い点が揺れた。
救急かもしれない。誰かが通報したか、向こうの“間”がこちらの熱に反応したか。
ユウがカーテンを引き、部屋の内側の影を濃くする。
レイがサエの手を握る。祈りの文句は使わない。ただ、手の温度だけで意味を渡す。
ハルは端末を閉じ、パンチカードを懐に入れた。持ち出せる“名の証”は、今はこれだけだ。
トオルは影帳を閉じる前に、端の余白に小さく一行を書き足した。「沈黙の耐性=長さをずらす」。次回の手順に残しておくべきメモ。
ソラは瓶を一本だけ持ち、栓に指を添える。今鳴らせば、外へ知らせてしまう。鳴らさないほうがいい夜もある。
葵は針を布に刺し、糸をほどかないよう結び目を二重にした。指に薄い痛みが走る。痛みは、まだ生きている印だ。
部屋が落ち着きを取り戻しかけた頃、床下から低い脈動がした。
耳を澄ますまでもなく、全員が同時に顔を上げる。
線路の方角だ。夜間バッチの予備運転かもしれない。あるいは、新しい“間”の試運転か。
ハルが端末を再び開く。白帯の端に、揺れる縞が薄く乗る。
「動き出した」
ユウは短く頷き、合図の順番を頭の中で並べ替えた。今夜のうちに線路の影の階段へ行くつもりだった。サエの状況を見ていたが、行かない理由にはできない。サエは彼らの拍の中心だが、いない拍でも回す練習は、今日のためにしてきた。
レイは祈りの紙片を束ね、外向けの嘘を三行だけ新しくした。拾わせて、外へ動かして、こちらの沈黙を通すための誘導。
ミオは救急セットを握り、サエの額に手を当てる。熱は高くない。痛みの質が違う。「行って。彼女のテンポは、ここで守る」
サエがわずかに笑った。喉は動かない。目だけが笑った。拍は乱れていない。
葵は旗の結び目をもう一度確認し、糸を一本だけ赤に替えた。合図が遠くからでもわかるように。
ソラは瓶の栓を強く握って、また力を抜いた。海が呼吸している音を想像する。波が見えない夜でも、海は息をしている。
トオルは影帳の新しい頁に「線路への手順」と見出しをつけた。遠い順から近い順へ。最後に全員が触れる。帰りの拍を必ず残す。
ハルはパンチカードを胸ポケットに押し込み、白帯の太さを確かめた。「今なら通る。今を逃すと、吸われる」
扉に手がかかる。
ユウ、レイ、ハル、ソラ。四人の足音が、音にならない音で床を伝わる。
葵は針を持ったまま立ち上がり、サエの枕元にひざまずいた。
「帰ってくる」葵は言葉にせず、サエの掌に触れた。
サエは親指を二度だけ押した。願いの符。
その押しが、部屋中に静かに広がった。
祈りは声でなくていい。拍でなくていい。沈黙にも形がある。
形のある沈黙は、通る。
通った先に、名の影がある。
そこへ向けて、呼ばずに呼ぶ。
今夜の合奏は終わらない。扉の外でも続く。
扉が開く直前、葵の指先が一度だけ痛んだ。
さっき結んだ二重の結び目が、爪の腹に刺さっていた。
痛みは小さい。けれど、確かな場所を教えてくれる。
ここにいる。
呼べないけれど、いる。
葵は指を握りしめ、痛みを拍の中に沈めた。
扉が開いた。冷たい空気が流れ込み、室内の温度がわずかに下がった。
外の赤い点は、こちらへは向かわない。線路の方へ伸びていく。
ハルが振り返り、白帯の画面を掲げる。細い白が扉の方角へ延びていた。
レイは紙片を胸に当て、短くうなずいた。
ユウが扉の外へ一歩。ソラが続く。
サエは横になったまま、胸の上で二拍を刻んだ。
ミオがその手を包み、呼吸の止めを一拍長くする。「無理に出すと、あとで潰れる」
サエはわかっているという顔で目を閉じた。拍は乱れない。
トオルは影帳を閉じ、鉛筆を置き、深く息を吐いた。
静けさが戻る。
戻った静けさは、意味を帯びていた。
白い帯は細くなり、けれど途切れていない。
沈黙の合奏は、まだ続いている。
部屋の内側で守る拍と、外へ持っていく拍が、見えない糸でつながっている。
誰も拍手はしない。
代わりに、毛布の角がそっと整えられ、旗の色が一つ入れ替わり、瓶の栓がかすかに回転を止めた。
遠くで、線路が低く鳴った。
それは夜間バッチの予備運転かもしれない。あるいは、もっと違うものの胎動か。
どちらでもいい、とレイは思った。
祈りの言葉は、今はいらない。
祈りの意味だけを、持って行く。
ここに残す。
戻す。
その三つを同時にやるために、合唱は声以外の全部で続いていく。
窓の隙間から、海の匂いがもう一度入ってきた。
ソラが開けたままの小さな呼吸口。
旗の結び目がかすかに揺れ、葵の指がそれを止める。
指先に、さっきの痛みはもうない。
代わりに、温かい鈍さが残っていた。
それは、名の重みが指に移った証拠のように思えた。
サエは目を閉じたまま、胸の上で二拍、二拍。
ミオは背に手を置き、熱の地図をゆっくり塗り直す。
トオルは影帳の端を撫で、白い粉のついた指をそっと払った。
ハルの保存したカードが、懐で小さく硬さを主張する。
ユウの足音は、もう聞こえない。
レイの紙片には、折り目が一本増えていた。
沈黙の合奏は、今夜を越えるための橋だ。
橋の下では黒い水が動いている。
でも、糸は切れていない。
結び目は増えた。
増えた結び目が、次の沈黙を支える。
遠くの脈動が、少し近づいた。
誰も慌てない。
拍は崩れない。
声がなくても、合唱は鳴っている。
それを知ってしまったから、もう前と同じには戻らない。
戻らない代わりに、戻せるものが一つ増えた。
名の輪郭だ。
呼べない名の、確かな重さだ。
それを今日は、ここに残した。
そして、持って行った。
両方とも、間違いじゃない。
両方とも、合唱だ。




