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名前を失くした少年たち―指でなぞれば消える世界で、私たちは互いの名を呼ぶ。それだけが、生きていた証だった。  作者: 妙原奇天


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第11話 祈りの嘘

 夜半、図書館の閲覧室は街の心臓から遠く離れた場所みたいに静かだった。

 レイは机いっぱいに紙片を並べ、一本一本の言葉を糸のように拾い上げては結び直す。

 祈りは名をまっすぐ呼ばない。

 窓の東の淡い線よ。

 冷えた茶碗の底の丸みよ。

 この部屋の角の影の端よ。

 言葉は迂回し、比喩は回り道をして、ようやく誰かの輪郭に触れる。その触れがかすかでも、触れさえすれば、呼びの回路は生きる。


 サエが向かいの椅子に座って、指で拍を刻む。声は出せない。喉に小さなガーゼ。けれど、拍は出せる。コン、コン、コン、コン。彼女の拍は、祈りの句読点だ。

 葵は膝に糸文字のノートを置き、指先を温めている。糸の節は冷えると途端に切れやすくなる。ミオが置いていった湯たんぽの温かさが、布越しに低く広がる。

 ユウは窓枠にもたれて目を閉じ、線路の夜を反芻する。枕木の湿り、鉄の冷たさ、偽物の拍。握り拳の外側だけが白くなっている。

 ハルは端末の明るさを落とし、波形のログを遡っていた。ナオが消えた時刻の谷は、他の夜より数段深い。そこに、こちらの沈黙が薄く重なっている。


 レイは紙片を三つの山に分ける。

 一つ目は、外向けの嘘。拾わせるために撒く音符。

 二つ目は、内向けの真。仲間だけが読める符牒。

 三つ目は、沈黙。声を封じるための空白。

 彼は一枚を取り上げ、声に出さずに読む。

 窓の東の淡い線よ。

 これは名の代わり。名を呼ぶと削られる。だから、景色の端で指し示す。

 サエが二拍置き、指で机を軽く叩いて句点を打つ。拍が言葉を固定する。


 「戻るために、嘘を使う」

 レイが言うと、ユウが目を開けた。

 「向こうに拾わせる嘘か」

「そう。拾わせる嘘と、こちらだけの真と、沈黙の順番。三つ重ねて、ようやく一本の祈りになる」

 葵がノートから顔を上げる。

 「糸も三重にする。表紙の内側に、嘘の縫い。ページの角に、真の縫い。見えない綴じの中に、沈黙の縫い」

 ハルが頷き、端末の画面を示す。

 「波形も分ける。向こうが追うリズムには雑音を乗せる。こちらが通す沈黙は“きれいな白”に整える。見かけだけでも区別がつくように」


 紙片の端が重なり、言葉の影が机の上で絡む。

 レイは筆圧を下げ、ひとつの文をさらに屈折させた。

 ガラス越しの息よ、曇りをわずかに作る者よ。

 これは、君だ。名前の母音も子音も使わない。だが、ここに座っている君にしか当てはまらない。

 サエが三拍を短く刻む。ミオが静かに上がってきて、サエの肩に手を置く。触れが拍を支え、拍が祈りを支える。

 ユウの拳はほどけない。レイはその硬さに目をやり、言葉を少しだけ柔らかくした。

 「怒りは熱だ。今は、熱を均さなきゃ」

 ユウは無言でうなずく。熱は走る足のために残しておく。


 夜がわずかに傾いた頃、掲示板の釘が軋んだ。

 翌朝の話が、少し前倒しでやって来たみたいに、風が紙をめくる音が階段の方から聞こえた。

 ミオが駆け下り、戻ってくるまでの間に、レイは外向けの嘘を三行だけ書いた。

 北。青。R。

 拾われやすい、単純で、間違いようのない印。

 ミオが戻り、手に白い紙を持っていた。行政局の掲示。

 行方不明児童の保護情報を提供せよ。

 紙はほとんど白い。決定的な情報はどこにもない。その代わりに、呼びやすい愛称の一覧がびっしりと印刷されている。

 「これ、吸い上げだよね」ミオは迷いなく言った。「私たちの呼び方を辞書にする罠」

 ユウが紙を握り潰し、トオルが二階から降りてきて、裏帳の別称欄を閉じるみたいに指で掴んだ。

 レイは掲示の白さを見つめ、息を吸った。

 「なら、辞書を書こう。向こうのための、嘘の辞書」

 全員の視線が集まる。

 「葵の縫い、ソラの瓶の栓、ナオの指、ハルの波形、トオルの記号列。それをわざと混線させる。見た目に整っているのに、どこかがズレている。向こうが学習すればするほど、誤ったモデルに近づくやつ」

 ハルは一度だけ笑った。

 「誤学習を誘う祈り、か。性格が悪い」

 「生き延びるための悪さは、悪事じゃない」レイは言い、紙片をまた三つに分けた。


 祈りの多層化が始まる。

 第一層の嘘は、目につく場所で囁く言葉にする。窓辺、ダクトの真下、拾われやすい高さ。

 「北」「青」「R」

 発音は短く、拾い損ねにくい。

 第二層の真は、机の下、ページの隅、肩に触れる順で伝える。

 ページ右下の糸の節を二回。瓶の栓の刻みは三つ。拍は欠けたところで集まる。

 第三層の沈黙は、休符の設計。ハルが波形の白を整え、ミオが喉の負担を避ける呼吸配分を再度確認する。

 代償はすぐに現れた。

 複雑になるほど、誰かがどこかで取り違える。

 サエの拍は正確だが、喉の奥が痛むと顔が歪む。葵は糸の節を増やすたびに指を切り、ユウは走りの合間に手順を覚え直す。

 ミオは指先についた血を塩水で洗い、包帯を軽く巻くたびに言う。

 「間違いは人を殺す。だから、間違いを殺す」


 午前の光が古い窓ガラスに薄く広がった頃、レイは祈りの原点を葵に話した。

 「昔、兄がいた。名前を呼ぶたびに叱られた。親の前では、兄を『あの影』とか『椅子の脚』とかで呼んだ。そうやって、呼ばずに合図する術を覚えた」

 葵は針を止める。

 「呼称は、権力だと思った。与える者、奪う者、隠す者。行政局の生存価値指標は、その逆だ。数で人を定義し、白罫線に押し込める。だから、祈りはその鏡像に立てる。名は定義じゃない。関係の重みだ。祈りは、その重みに触るための運動。向こうが数で冷やすなら、こっちは言葉で温める」

 葵は黙って頷き、針目を一つ深くした。指の腹に熱が移る。

 ユウは窓の外を見ながら、低く言った。

 「温めるなら、戻すこともできる」

 レイは短く笑って、紙片をさらに屈折させた。


 夕刻。

 祈りの嘘の運用は、できるだけ目立つ場所で始められた。わざと拾わせるために。

 窓辺、布を少しだけ上げ、外気の隙間に向かって、レイは第一層を囁く。

 「北」「青」「R」

 ダクトはそれを拾い、天井の向こうのどこかへ運ぶ。波形のログに音が刺さり、ハルの画面に短い爪痕が残る。

 第二層は机の下。

 サエの拍が休符を刻み、葵がページの右下の節を二度、ミオが肩に触れを一つ、ユウが瓶の栓の刻みを三つ。

 ハルの端末は、向こうが追うリズムと、こちらが通す沈黙を分離して表示する。向こうの追尾線は揺れ、こちらの白はまっすぐ伸びる。

 トオルは影帳に二重のチェックを入れ、ナオの列の空白に薄い鉛筆の線を足した。ソラは窓の外の風の音を数え、波がない夜に瓶を指で鳴らして、代わりの潮を作る。


 祈りが流れる。

 部屋の空気が、誰かの輪郭で濃くなる。

 ナオではなかった。

 古い写真の中の少年。名前を言えない。喉が勝手に空転する。だが、いる。

 レイは震える声で、比喩をさらに屈折させる。

 「ここに座れ。椅子の影。君の体温はガラスの曇りだ」

 ハルの画面の白が整い、沈黙が通った。

 葵は糸文字の角を指で押さえ、ほどけかけた一画を留める。ミオは咳の気配を探り、サエの手に自分の手を重ねて拍を支える。

 ユウは靴紐を結び直し、外へ走る準備を整える。

 今夜、線路の影の階段に向かう。ナオのパンチカードが指した座標へ。


 祈りが終わるはずのところで、窓がわずかに鳴った。

 風ではなかった。

 ドローンの巡回が、いつもより早い。

 嘘の辞書が効きすぎた。向こうが興奮している。

 ダクトの向こうから、偽物の拍が連打で落ちてくる。半拍遅れ、四分の三拍、四分の一拍。床が低く震え、波形の谷が重なった。

 サエの拍が一瞬乱れ、葵の糸が小さく切れた。

 レイの頭に白い痛みが走る。脳の奥を指で撫で回されるような不快。吐き気が喉の奥に突き上がる。

 ハルが端末の画面で緊急遮断を試みる。ショートカットの列が素早く点灯し、波形の線が一度だけ平らに近づく。

 その上に、文字が出た。

 外部制御:上位権限。

 ハルの指が止まり、舌打ちが喉の奥で潰れる。

 「噛み合った。向こうの別の層に、こっちの嘘が」

 レイは机に手をつき、額を押さえた。

 吸って、吐いて。拍の通りに。

 「まだ、祈れる」

 指先が震える。紙片の角が汗で少し柔らかくなる。

 葵が糸を取ろうとして、針を落とした。針は床で乾いた音を立て、紙の下に滑り込む。

 サエが咄嗟に拍を切り替える。休符を増やし、偽物の拍に沈黙で蓋をする。

 ミオはサエの背中に手を当て、呼吸のテンポを戻す。ユウは窓辺で身を低くし、影になって視線の高さを下げた。

 トオルは影帳を閉じる。

 レイはもう一枚、紙を引き寄せる。

 祈りは暴発し始めている。けれど、ここで止めたら、外の道は消える。

 「祈る。嘘の外側で」

 言葉は掠れ、しかし、出た。

 窓の東の淡い線。

 冷えた茶碗の底の丸み。

 部屋の角の影の端。

 削られる前に、かすり傷で通す。

 ダクトは唸り、床の震えが少し強くなる。

 外で、赤い点がいくつも動いた。

 ユウが立ち上がる。ハルが端末を抱え、葵が針を探す。

 サエが指を上げ、二拍を刻む。

 レイは笑う。

 震える笑いだが、言葉はまだ残っていた。

 「行こう。祈りを、武器にする」


 図書館の扉が揺れ、夜気が流れ込む。

 祈りの嘘は効いた。効きすぎた。

 外は騒がしい。中は静かだ。

 静けさには意味がある。

 その意味で、今夜を切り抜ける。

 その意味で、階段を降りる。

 その意味で、名を取り戻す。


 レイは最後に一度、紙片の角を揃えた。

 そこに書いてあるのは、名前ではない。

 それでも、確かに「あなた」を指す文だ。

 紙を胸に当て、目を閉じる。

 吐いて、吸って。

 拍は戻った。

 祈りは、まだ続けられる。

 次の一呼吸で、外へ出る。


 窓の布がはためき、偽物の拍が一度、床を撫でて消えた。

 その直後、天井のダクトの奥が低くうなり、波形の白が一度だけ崩れる。

 ハルの画面には、上位権限の文字が残ったままだ。

 レイは紙を握りしめ、笑みを細くした。

 「まだ、祈れる」

 指は震えていた。

 それでも、祈りの輪郭は、崩れていなかった。

 扉の向こうの夜に、五人分の足音が溶けていく前の、最後の沈黙。

 沈黙にも形がある。

 形のある沈黙は、通る。

 通った先に、名の影がある。

 そこへ向けて、呼ばずに呼ぶ。

 祈りの嘘で、道を作りながら。

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