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名前を失くした少年たち―指でなぞれば消える世界で、私たちは互いの名を呼ぶ。それだけが、生きていた証だった。  作者: 妙原奇天


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第10話 ナオの暗号

 手袋を両手で開いたとき、葵は息を呑んだ。

 掌側の布に、点が縫い留められている。米粒より小さな白のステッチが、指の腹から付け根、掌の真ん中へと、衛星写真の街灯みたいに散っていた。甲側には、細い糸で数字が縫い込まれている。零から九まで、一本ずつ。

 ナオは言葉を選ぶみたいに、指をゆっくり折りたたんで見せた。親指がわずかに触れ合い、示指が一度跳ねる。中指の根元の点に、薬指の先がそっと触れる。

 「これは――」葵が尋ねる前に、ナオは首を傾けた。

 「声の代わり。十本で足りる」

 無口な彼にしては、長い説明だった。

 彼にとって“名”は音ではない。割り当てられた記号列。親指はAとE。示指はI。中指はU。薬指はO。小指は休符。甲の数字は拍数。掌の点は子音の位置――。

 「喉を使わず、肩と指で渡す。間違っても、戻れる」

 ナオはそう言って、葵の前に手袋を差し出した。

 布は薄く、指に吸い付く。掌の点が葵の皮膚に触れ、冷たいはずなのに、じんと温かい。

 葵は思わず、親指のステッチを二度押した。

 言葉が喉の奥で固まっていたからだ。戻ってきて、と言いたかった。海に預けた赤い一針が戻ったときのように、ここに帰ってきて、と。

 親指の二度押しは“願い”の符――さっきナオが教えてくれたばかりの合図だ。

 ナオは目を細め、何も言わずに手袋をはめ直した。


 深夜。

 線路沿いは海より冷たかった。枕木は湿っていて、足を置くたびに古い木の匂いが立った。鉄は夜の水を飲んで黒く光り、遠くの灯台の明滅が、見えない線を一瞬ずつ切り取っていく。

 先頭はユウ。足でテンポを刻む。三歩で吸い、五歩で吐く。サエがその背に拍を合わせる。声は出ない。代わりに、肩甲骨の内側で拍が弾んでいるのが見える。ハルは端末を抱え、画面の端の赤い谷に目を凝らしている。レイは祈りの言葉を、比喩に折り畳んだ。名を直に呼ばない。「あなたの輪郭の影よ、ここに座って」「君の骨の音よ、ここで黙れ」。

 ナオは最後尾で、指を組み替え続ける。夜の空気は音をよく通す。だから彼は、音を出さずに合図を送る。親指が二度、示指が一度、掌の点に薬指が触れる。十本の指は止まらない。光のない鍵盤の上で、黙った旋律が転がっていく。


 数百メートル進んだところで、谷が強くなった。

 偽物の拍が枕木から返ってくる。半拍遅れて、また半拍早く。足がもつれそうになる。ユウの呼吸がにわかに浅くなり、サエの肩が一瞬強張った。

 ハルの端末に、鋸の歯みたいな波が立つ。ピークが高すぎて、数値が振り切れていた。

 レイは祈りの文句をさらに屈折させる。「名の表皮の向こう側、無音の衣よ」。

 ナオは足を止めずに、手の形を四度変えた。

 Tは休符。喉を開く。拍を一つ落とす。再開。

 四点セットが、夜の冷たさに沈んでいく。谷はほんのわずかに薄れた。足元のもつれがほどけ、ユウの足が前へ出る。

 「助かった」ユウの息が白い。

 ナオは頷き、指をまた戻した。

 彼の指は震えている。寒さではない。緊張で震える。その震えを、符に変える。指を触れ合わせるたび、掌の点がかすかな電気を帯びるみたいに、意味の火花が散る。


 線路脇に、配電ボックスの残骸があった。

 錆びた扉はこじ開けられ、内側の端子は蜘蛛の巣に覆われている。

 ナオはしゃがみ込み、手袋の甲を擦らないように配線を外した。

 「使える?」ハルが問う。

 「死んでる。でも、骨は鳴る」

 ナオは瓶の栓に仕込んだ小さな磁石を取り出し、金属の端子に挟んだ。ハルの端末から細いコードを引き、瓶の栓とつなぐ。

 「指サインを、短い断続に変えて送る。音じゃなくて、触れの間隔を、鉄に覚えさせる」

 ユウが周囲を見張る。サエは拍をほとんど無音で刻み、レイは祈りを続ける。

 ナオは指の動きを微細に刻み、符を電気の点線に変える。

 電気は街ではない。けれど、街の骨を通る。

 金属の骨は、じわりと鳴った。目には見えない。耳にも届かない。けれど、ハルの画面の谷が、一瞬だけ平らになる。

 「今、薄くなった」ハルが息を吐いた。「通った。外の線の上に、こっちの休符が重なった」

 端末の隅に、赤い点が三つ点った。巡回ドローン。

 「あと三十秒」ナオが言う。指は止まらない。震えはあるが、動きは正確だ。

 ユウは地面を見渡し、逃げ道を二つ確保する。サエは拍を心臓に隠し、レイは言葉をさらに短く折る。

 電気の点線が、街の骨を駆けた。足下の鉄が、目に見えない拍をひとつ飲み込んで、もうひとつ吐き出す。

 それで充分ではないかもしれない。けれど、まったくの無力でもない。

 彼らは少しだけ戻れる。少しだけ前に進める。


 帰ろう、とユウが合図したときだった。

 遮断機の影が動いた。線路脇から、白い制服の職員が現れた。

 無言だ。マスクの奥の目は、何も見ていないようで、すべてを見ていた。

 ユウが一歩前へ。職員の視線がユウの腕の印で止まり、細くなる。それから、ナオの手袋に落ちる。

 指先のステッチ。甲の数字。

 職員は静かに手を伸ばし、ナオの手首を取った。

 「確認」

 聞いたことのある声の抑揚。選別の入口に立つ人間の、形式的な声。


 ユウが振り払おうとした。サエが首を振る。ここで暴れれば拍が崩れる。崩れた拍は、戻らない。

 レイは祈りの文句を早口に屈折させる。言葉の刃を鈍い光に変えて、職員の外側に滑らせる。

 職員は肩をすくめ、興味を示さない。マスクの奥の目は、どこにも焦点を合わせていないのに、掴むべきものだけは掴んで離さない。

 ナオは一瞬、葵の指を思い出した。親指のステッチ。二度押しの願い。

 彼は自分の親指を、二度押した。

 その合図は誰にも見えない。願いは手の内で自己完結する。

 職員は手袋を没収し、同じ流れで、彼自身の腕も取った。

 「質問に答えれば、戻れる」

 文面だけの声。彼らがいつも聞かされてきた、戻るという単語の、軽すぎる重み。


 ナオは頷かなかった。頷かないことが、彼の頷きだった。

 ユウの方へ、わざと倒れ込むように体を預ける。その掌がユウの手に一瞬だけ触れ、小さな何かが滑り込む。

 パンチカードの欠片。

 五×五の短い穴の配列。

 ユウはそれが何かを理解できない。けれど、ハルは覗き込んで、目を見開いた。

 「座標だ。選別の部屋の」

 白罫区の外――地図の端に沈んだまま、誰も近づかなかった建物。閉ざされた地下室。そこで、“生存価値指標”がリアルタイムで書き換えられている。音声干渉のパラメータも、そこから流れてくる。

 ナオは頷きもしない。

 ただ、親指のステッチにもう一度自分で触れて、連れていかれた。

 職員は彼を連れ、闇に紛れた。遮断機は最初から降りていなかったように、静かに揺れていた。


 戻る道、ユウは手袋を抱えて走った。

 汗で布が湿り、縫い目が柔らかくなる。

 図書館の灯りが見えはじめる頃、手袋の内側で糸が一筋ほどけた。

 縫いの隙間から、薄い紙がにじみ出る。

 トレーシング紙。鉛筆で薄く数字列が書かれ、指の図が添えられている。

 その片隅に、短い手書きの一文。

 わたしの名は、ここにいない。


 ユウの足が止まった。

 ミオが先に手袋を受け取り、布を広げて光に透かす。ステッチの点の裏側に、極小の結び目がいくつも隠れていた。甲の数字は、裏返すと別の桁に化ける。

 「最初から、名を外側に置いていた」ハルが言う。端末のスロットにカード片を挿す。

 画面の地図に、点が一つ点る。脈打つみたいに、弱く明滅した。

 「ここだ。地下に入るルートがある。海側じゃない。線路の影から下りる階段がある」

 トオルはその場で帳簿を開き、影帳の新しい列に“奪還計画”と書いた。三冊目のさらに裏、彼だけが読める記号で、五人分の役割を書き込んでいく。

 レイは祈りの文をほどき、別の形に結び直す。

 「祈りの言葉を、武器にする。呼びではなく、封じの言い回しに変える」

 ユウは手袋を葵に渡した。

 葵は手袋の内側の、鍵穴の印のように見える縫いの癖を指で探り、小さく息を吸った。

 「鍵にする。糸を一針、私の名から分ける」

 彼女は迷いなく、自分の名の縫いから一画をほどき、手袋の内側に縫い込んだ。鍵穴の印の中心に、小さく赤い縫いが灯る。

 「これで、扉は開く。開かなくても、開いた証拠になる」

 ソラが瓶の栓を鳴らし、音がすぐに止まった。波はここにない。だけど、瓶の内側の塩は、糸の節の間で小さく光った。


 夜はまだ深い。

 ハルは端末の明るさを落とし、地図の点を拡大する。線路沿いに細い白のライン。そこから下に降りる、切れ目のない階段の記号。

 「行けば、壊せるかもしれない。戻せるかもしれない」

 ユウが頷く。指先で、親指のステッチを二度押した。

 「戻す」

 サエは拍を胸の内で二つ打ち、ミオが救急袋の中身を確かめる。

 トオルは影帳にもうひとつ欄を増やした。

 〈鍵〉――縫いの色、点の位置、押す回数。

 〈偽装〉――合唱のテンポを外へずらす時間帯、祈りの言葉の屈折角。

 〈帰路〉――誰の肩に触れるか、どの順で呼ぶか。


 「ナオの“いない名”は、濃い」葵が呟いた。

 「外側に置いたから、中心に近い。消すつもりで外に出したのに、残すための外になってしまったんだ」

 レイが目を伏せ、祈りの文をひとつ唱えた。

 「名は呼ばれずとも、そこにある。なら、呼べる距離まで持ってくればいい」


 扉の向こうの階段は、図書館の床下の暗さに似ているはずだ。

 そこで名が削られ、数にされ、指標に直されていく。

 彼らは数にした。彼らも数にする。

 違いは、帰りの線を縫ってあるかどうかだ。


 葵は手袋を胸に当てた。

 親指のステッチが、服越しに軽く響いた。

 願いの符だ。

 「戻ってきて」

 言葉は喉の奥でほどけ、音にならずに胸の中に溶けた。

 それでも伝わると信じた。

 糸は遠くでも、結び目を覚えている。


 窓の外を、風が一度だけ叩いた。

 掲示板の五線の端に縫い込んだ糸が、風でわずかに揺れた。

 ナオの描いた図の矢印は、線路の影から地下に降りる。

 その先で、誰かの名が沈黙に置き換えられている。

 沈黙は空白じゃない。意味のある空白だ。

 そこに触れれば、戻せる。

 触れなければ、永遠に“いない”ままになる。


 トオルが机に三冊の帳簿を重ねた。

 黒い煤の行は広がっていない。今夜だけは、止まっている。

 夜明けまで、あと少し。

 外の谷はまた強くなる。

 彼らの沈黙が、そこに打たれる。

 帰りの拍は、ここに残る。

 準備は、静かに進んでいた。


 葵は最後にもう一度、親指のステッチを二度押した。

 返事はない。

 でも、返事のない沈黙にも、意味はある。

 それを教えたのは、ナオの指だった。

 十本の指がない場所で、十本の指の続きをやる。

 名の外側から、名の中心へ。

 その細い道を縫うために。


 夜は、まだ深い。

 けれど、ページの角は、確かに朝の方向を向いていた。

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