告白と正拳突き
小次郎の呆然とした表情は、ツバサを沈黙させた超絶的な一撃よりも、銀にとって衝撃的だった。小次郎の『男の怒ち』は、敵の超能力の防御を打ち破り、一瞬で戦闘を終結させた。しかし、その勝利の直後、敵の少女、のえるから発せられたのは、戦意ではなく、まさかの『恋心』だった。
「あたし……あなたのこと、好きになったみたい」
その告白は、湿った地下の空気と、焦げた学ランの臭い、そして空間が裂かれた轟音の残響の中で、異質な、あまりにも個人的な音として響いた。
銀は痛みに耐えながら、うつ伏せの姿勢からゆっくりと上半身を起こした。全身の筋肉が痙攣の余韻で震えている。キャリコ100Mを握る手の感覚が鈍かった。残弾は四十一発。
「おいおい、冗談だろ」
銀はかすれた声で言った。
小次郎はピクリとも動かない。
その巨躯は、まるで巨大な岩石の彫像のようだった。目の前の事態が、彼自身の力で敵をねじ伏せるという単純な戦闘とは、全く異なる次元に移行してしまったことに、彼の武骨な頭脳は処理が追いつかないようだった。
のえるは、頬の赤みを増しながら、スカートの裾を指先で弄んだ。
「冗談じゃないよ。だって、あんなに強いんだもん。あたしの最高の防御を、ただのワンパンで壊しちゃうなんて……あたし、ずっと、自分の能力がすべてだと思ってた。でも、あなたを見てわかったの。この世界には、もっとすごい、ねじ伏せられない力があるんだって」
彼女の眼差しは、最早、敵対者に対するものではなく、熱に浮かされた信奉者のそれだった。空間を歪曲させる強力な超能力を持つ少女が、その能力を打ち破った『強さ』そのものに惹かれている。
銀は立ち上がろうと試み、膝が笑うのを感じたが、なんとか線路に両足をついた。
「そこまでだ、お嬢さん」
銀はキャリコをのえるに向ける。
「その痴話げんかは、この任務が終わってからにしろ。悪いが、急いでいる」
のえるは銀に視線を移したが、その目には一片の畏れもなかった。彼女の能力は銀の特殊弾頭を無力化したのだ。
「撃っても無駄だよ、お兄さん。あたしが守りを固めれば、鉄砲dsって、あたしには届かない」
「わかってるさ。だが、お前がその能力を持続させられるかどうかの話だ」
銀はのえるの能力の発動に、ごく微細な、しかし確かな動揺が伴っていることを見て取っていた。彼女の能力は強力だが、精神的な集中力と、恐怖や不安といった感情に強く結びついている。先ほどの防御は、意識を失ったツバサと、小次郎の圧倒的な存在に対する『不安』から発動されたものだ。
「お前は、この番長に惚れた。つまり、小次郎がお前を攻撃するとは思っていない。その信頼が、お前の防御をどれだけ弱めるか、試してみる価値はある」
銀はそう言うと、キャリコを構え直した。
小次郎が初めて口を開いた。「銀……お前、それは」
「黙ってろ、小次郎。俺たちの任務を思い出せ。地球がどうにかなるかどうかの瀬戸際だ。その気のない口説き文句に付き合っている暇はない」
銀は引き金を引くフリをした。
カチリ、と安全装置を外す音だけが響く。
のえるは動かなかった。その一瞬の躊躇、『小次郎が撃たせないだろう』という微かな期待が、銀には見えた。
「ほら見ろ。お前はもう、俺たちを敵だと思っていない」
銀はキャリコを下げた。
「のえる、だったな。お前の目的は何だ? なぜ、この線路で俺たちを待ち伏せていた?」
のえるは再び、顔を青ざめさせた。
「……カグヤ様に命じられたから。あなたたちを、先に進ませるな、と」
「カグヤ……やはり、そうか」
小次郎は確信を得た。
「のえる。お前はカグヤの手下か?」
銀は再び少女に向き直る。
のえるは首を振った。
「あたしは……ただ、カグヤ様の力に惹かれただけ。カグヤ様は、あたしたちの能力を肯定してくれた。この世界は、能力を持たない大多数の人間と、あたしたちのような異能力者に分かれるべきなんだって。ツバサも、カグヤ様の掲げる新世界に熱狂してた」
「新世界ね。いつもその手は、大量の血で塗れている」
銀は吐き捨てるように言った。
「そして、お前が惚れたこの男は、その超能力も新世界も関係ない。ただの意志の力で、お前の能力を打ち破った。この事実は、お前の『新世界』の思想に、小さなヒビを入れたんじゃないのか?」
のえるは俯いた。その小さな身体が、葛藤で震えているのがわかった。
「……あたしは……どうすればいいの」
「簡単な話だ。道を空けろ。そして、このガキを連れて、ここから逃げろ」
銀はツバサを顎で示した。
のえるは顔を上げた。その目に、再び熱意が戻っている。
「逃げない。あたしはあなたたちについて行く。小次郎さんが、そのカグヤとやらをどうにかするところを、この目で見たい」
「何を言っている」小次郎は困惑の声を上げた。
「あたしが、道案内をする。この地下の線路は、歌舞伎町の地下深くにあるカグヤの領域『夜の塔』に繋がっている。複雑な仕掛けや、待ち伏せのポイントも知っている。あたしの能力があれば、あなたたちが遭遇するかもしれない他の超能力者たちの攻撃だって、防げるかもしれない」
のえるは早口で続けた。
「お前が裏切らない保証はどこにもない」銀は疑いの目を向けた。
のえるは、背後に横たわるツバサを見た。そして、腰に下げていた、ウサギのマスコットをちぎり取り、銀に向かって投げた。
「このマスコットは、あたしが超能力に目覚めた時に、初めて歪曲させたもの。今、これを渡す。これは、あたしの宣誓。あたしは、もうカグヤの手駒じゃない。それに、もし裏切ったら、小次郎さんが、あたしの能力ごと壊してくれるんでしょ?」
彼女の瞳は、再び小次郎に向けられ、純粋な憧憬を湛えていた。
銀は宙に舞ったマスコットを掴み取った。確かに、マスコットは微妙に歪んでいるように感じられた。
(空間の歪曲能力者そのものを、人質にするようなものか……悪くない取引だ)
「銀、どうする」
小次郎が静かに問いかけた。
銀は小次郎の焦げた学ランを見た。彼は戦闘を続けるには疲弊しすぎている。そして、キャリコの残弾は四十一発。まだ、道は遠い。のえるの能力は、戦闘においては厄介極まりないが、移動においては最強の盾となる。
「のえる」
銀ははっきりとした声で言った。
「わかった。我々は、お前を連れて行く」
ふたりは、再び歩き始めた。ただし、ふたりの後ろには、ひとりの仲間と、ひとりの元敵が加わっていた。
のえるは、ツバサを背負い、小次郎の少し後ろを歩いていた。小次郎は依然として無言だったが、背中から発する威圧感は、のえるにとって最高の護衛であると同時に、逃亡を許さない枷でもあった。
線路はさらに地下へと潜り、空気はより冷たく、重みを増していく。
「この先、五分ほど歩くと、カグヤが仕掛けた防衛線がある」
のえるが静かに言った。
「どんな仕掛けだ」銀が問う。
「ただの壁。超硬質なコンクリートでできた、厚さ五メートルの閉鎖壁。カグヤは、能力を持たない人間がこれ以上地下へ侵入するのを防ぎたかった」
「迂回ルートは?」
「ない。昔の地下鉄の緊急停止壁を応用したものだから。正規の開閉パスコードは、カグヤ本人しか知らない。ツバサも、あたしも知らない」
「まさか、これをまた、お前の能力で歪曲させて通るのか?」
銀は眉をひそめた。
のえるは首を振った。
「無理。壁自体は歪曲できても、壁の向こう側の空間の座標がわからない。壁の途中で空間の歪曲が崩れると、あたしたちの身体が、コンクリートに埋め込まれた状態で固定されてしまう」
「つまり、俺たちの行く手を阻むための、純粋な物理障壁ってわけか」
銀はキャリコを再び構えた。
「銀。お前の特殊弾で、この壁を穿てるのか」
小次郎が壁を見上げる。
銀は苦笑した。
「無理だ。一発の弾丸が消せる空間は鶏卵大だ。厚さ五メート
ルを、直径数センチの穴で、四十一発の弾丸で貫通させる? 現実的じゃない。効率が悪すぎる」
のえるが、ふと立ち止まった。
「でも、もしかしたら……」
「なんだ」
「小次郎さんの拳なら……」
のえるはそう言って、再び頬を赤らめた。
小次郎は壁に向き直り、腕の筋肉を緊張させた。雷撃のダメージはまだ残っているが、彼の肉体は既に次の行動のために最適化されつつあった。
「お前の言いたいことはわかる。だが、俺の拳は肉体だ。空間をぶち破れても、物理的な壁は……」
「さっきの男の怒り、あれはただの拳じゃなかった。あたしの超能力すら、あれで壊れたんだよ」
のえるは力強く言った。
「あたしが、壁の表面の空間だけを、最大限に湾曲させる。そして、小次郎さんが、その湾曲を、拳で破壊する。その一瞬の衝撃で、壁そのものに、共振による亀裂が走るかもしれない」
「共振、だと?」銀は顔を上げた。
「空間の湾曲のエネルギーと、小次郎さんの拳のエネルギー。ふたつの力が、壁の表面でぶつかり合って、破壊的な振動を生み出す。試してみる価値はある!」
のえるの瞳は、まるで実験を成功させようとする科学者のように輝いていた。彼女はもう、恋する乙女の顔ではない。小次郎という力と、自分の能力の融合に興味を持つ、研究者の顔だった。
小次郎は、その言葉を静かに受け止めた。彼は、銀のように思考を巡らせることはしない。ただ、己の肉体と意志に問いかける。
「やってみるか」小次郎は答えた。
「じゃあ、いくよ!」
のえるはツバサをそっと線路に寝かせると、両手を前に突き出し、渾身の力を込めた。彼女の全身から、青白い、微かな光が溢れ出す。コンクリートの壁の表面が、まるで水面に油が浮いたように、不規則に揺らぎ始めた。
「空間歪曲……展開!」
壁の表面が、今にも弾けそうなほどの緊張を帯びる。
「小次郎!」
銀が叫んだ。
小次郎は、深く息を吸い込み、雷撃で焦げた服を脱ぎ捨てた。鍛え上げられた鋼のような肉体が露わになる。彼は、闘志を再び全身に漲らせた。
「地球が、待ってる!」
ゴォォォォォォン!!
小次郎の剛拳が、湾曲した空間の壁に叩き込まれた。
先ほどと比べて、音の性質が違った。空間を破砕した鈍い音に加えて、壁全体が悲鳴を上げるような、甲高い共鳴音が響き渡った。
バリバリバリィィィン!
壁の表面の湾曲空間が、音を立てて砕け散る。 そして、その衝撃が、厚さ五メートルの超硬質コンクリートの壁を、縦一直線に、深々と貫く亀裂を走らせた。
「やった……!」
のえるが、力の使いすぎで膝をついた。
銀はすぐにその亀裂を観察した。
「五メートルを貫通している……!
信じられん。お前の力と、小次郎の意志が、科学を超えた破壊を生み出したぞ」
「急げ、銀。壁が、また固まるぞ」
小次郎が、亀裂の縁を掴み、その肉体の力で、亀裂をさらに広げようと試みる。
「待て! 亀裂の周りの空間が、不安定だ。歪曲の余波と拳圧で、通り抜ける際に身体の一部が空間に飲まれるかもしれない」銀は小次郎を制した。
「のえる。お前が、亀裂の両脇の空間を、まっすぐに固定しろ。俺たちが、通り抜ける一瞬の間だけでいい。できるか」
のえるは顔を上げ、力強く頷いた。
「やってみせる!あたしが、道を作る!」
再び、のえるの能力が発動する。亀裂の両脇の空間が、彼女の意志によって、ねじれを修正され、通り道だけが、虚無の回廊として固定された。
「行くぞ!」
小次郎が先頭を切り、亀裂を通過した。続いて銀が、そして最後に、のえるがツバサを抱え直して、その回廊を通り抜けた。
壁の向こう側は、さらに深く、暗い線路の続きだった。彼らが通り抜けた瞬間、壁の亀裂は、鈍い音を立てて、再び固く閉じた。
「間に合った……!」
銀は息を吐いた。
「のえる。お前は……大したものだ」
銀は心からそう言った。
のえるは照れたように俯きながら、
「小次郎さんの力を道にしただけだよ」
彼女の顔は疲労困憊していたが、達成感と、小次郎への憧憬で満たされていた。
「しかし、おれたちは、一人の敵を味方につけるという、なんとも大胆な賭けをしたものだ」
銀はつぶやいた。
「銀」
小次郎が言った。
「俺は、お前を信じている」
銀は、その言葉に少し驚きながら、キャリコを肩に担いだ。
「ああ。わかっているさ。お前の力も、お前の人望も、俺たちにとって、この地球にとって、必要不可欠なものだ」
銀はのえるを振り返った。「さあ、ツアーガイド。カグヤの領域は、まだ遠いのか?」
のえるは、ツバサを背負い直すと、決意を新たにした表情で、暗闇を指差した。
言いながら 銀は、腰の特殊弾頭が四十一発であることを再認識した。弾頭を温存するために、のえるの能力と小次郎の拳を頼ることになるだろう。
前途は多難だった。だが、彼らは立ち止まらない。




