悪夢と逆夢
カオルは冷笑した。
『それがお前の恐怖の核だ。この力は、誰にも止められない。お前はまた、大切なものを壊すだろう。お前自身が、この星の安全装置を壊す、破壊者だ』
幻影のヒスイが、小次郎の心臓を貫こうと手を伸ばした瞬間、小次郎は駆竜を抜いた。半径百メートルに及ぶ「星屑殺し」の領域が展開される。しかし、それはカオルの生み出した幻影には何の影響も与えない。
「幻影だろうが、現実だろうが、俺の博打だ!」
小次郎は、幻影のヒスイに向かって拳を振り抜いた。重力操作によって強化された一撃は、現実の物質を破壊する威力を持ち、ヒスイの幻影は、まるでガラスのように砕け散った。
だが、幻影が消えた直後、小次郎の背後に、気配もなく一つの影が舞い降りた。
「幻影を殴るのに夢中とは、お遊戯ですな」
それはニンジャだった。影の中に溶け込むような黒装束に身を包んだ、仙術の使い手。彼は指先で複雑な印を結び、小次郎たちの足元の床に、新たな奇門遁甲の術式を刻んだ。
「お前たちの真のゴールはカグヤ様だ。この程度で手間を取らせるな。さあ、夜の塔の底なし沼へようこそ」
ニンジャの術式が完成すると、図書館空間の構造全体が再びねじれ、小次郎、銀、のえるは、次なる階層、次なるトラップへと突き落とされた。
ニンジャは、小次郎たちが消えた虚空を見下ろし、静かに笑った。
「駆竜使いめ。奴が星屑殺しを使うのは、奴の心に恐怖がある証拠。その恐怖をカオルが暴き、我らが仕留める。それが、この塔の仕組みよ」
小次郎は、落下しながら、銀とのえるを再び重力場で抱え込んだ。彼の拳には、幻影を打ち砕いたことによるかすかな痺れが残っていた。
「...まだ、終わらねぇ」
彼の瞳は、次に待ち受けるであろう「破壊者」としての自分自身との対峙を、静かに受け入れていた。
落下は一瞬で終わった。三人が足を踏みつけたのは、無数の黒い瓦が敷き詰められた、古代寺院の中庭のような空間だった。天井は遥か高く、夜空のように黒く、周囲には、まるで水墨画のような山水が広がる。
「今度は…仙術か」
銀が呟き、道士の心得で辺りを見回した。空間そのものが、ニンジャのイメージによって作り替えられている。
「ここは、『夜の塔』の内部ではない。ニンジャの『イメージ』が作り上げた、別の位相空間です」
のえるが周囲の空間の歪みを解析する。彼女の視界には、微細な時間の流れのズレが映っていた。
その時、頭上から、黒い装束の影が音もなく降下してきた。ニンジャだ。彼の両手には、仙術で錬成された黒い炎の玉が二つ、妖しい光を放っている。
「愚かな。我の『奇門遁甲』は、星屑と仙術で空間を歪める。お前たちの力では、出口は見つからぬ」
ニンジャの声は、周囲の山水にこだました。
「出口は、アンタをぶっ飛ばせばいいだけだ」
小次郎は静かに言った。
ニンジャが放った炎の玉は、空気中をねじ曲げながら小次郎に迫る。銀が素早く呪符を投げつける。その黄色の紙片は、炎の軌道を逸らすのではなく、炎の内部に「入り込み」、その黒い気を一瞬で白く浄化した。
「道士の符、ごときで。この業の力は止まらぬ!」
ニンジャは即座に指先で印を結び直す。
空間が再び歪む。山水画の風景が猛烈な勢いで小次郎たちに迫り、まるで空間そのものが巨大な蛇のように三人を飲み込もうとした。
「銀! のえる! 掴まれ!」
小次郎は、地面に足をつけずに、浮き上がった。彼の周囲の空気の密度が一変し、小次郎たちは、まるで透明なバリアに守られたかのように、空間のねじれから逃れた。
「空間の『歪み』を、重力で『矯正』している……」
銀は小次郎の力の使い方に感嘆した。
「あれは、仙術の応用で作り上げた、空間の『亀裂』です。通常の力では修復できない!」
のえるが叫び、自身の指先に集中する。彼女は、亀裂が最も深部に達している空間の一点に、極小のエネルギーを放出した。それは、周囲の時間の流れを巻き戻し、亀裂が発生する前の「正常な空間」を一瞬だけ呼び戻した。
一瞬の静寂。ニンジャが作り上げた空間の蛇は、その頭部を失い、霧散した。
「小手先が!」
ニンジャは怒り、さらに複雑な印を結んだ。彼の身体の周囲に、、仙術で錬成された星屑が集まり始める。
「真の奥義を見よ! これは『幻術』にあらず、現実を書き換える『真実』よ!」
ニンジャの術が発動した。周囲の瓦や山水が、突如として動き出し、巨大な岩石の巨人へと姿を変えた。一つ一つが重力を持ち、小次郎たちに襲いかかる。
「駆竜」
小次郎は、初めて刀を鞘から完全に抜いた。それは、星屑を殺すための刀であり、同時に、重力操作の力を最大限に引き出すための増幅器であった。
「銀、のえる、下がってろ。これは俺の仕事だ」
刀を振り抜く。その軌跡に沿って、空間の空気そのものが圧縮され、衝撃波と化して岩石の巨人たちを粉砕する。重力波と衝撃波。それは、竜の民が残した**「安全装置」**が持つ、たった二つの物理的な力だった。
小次郎は、岩石の巨人の残骸を避け、ニンジャのいる場所へと一直線に「飛んだ」。まるで、重力など存在しないかのように。
「くたばれ、ニンジャ!」
ニンジャは小次郎の接近を予想し、最後の奇門遁甲を展開する。小次郎の眼前に、壁が一瞬で生成され、その壁は、小次郎が触れた瞬間に千年の時を重ねたかのように脆く崩れ落ちた。
小次郎の拳は、その時間操作による防御を突破し、ニンジャの顔面へと炸裂した。
ニンジャは、黒装束ごと壁に叩きつけられた。しかし、その身体は実体を持たず、ナノの塊となって霧散する。
「残念ながら、ここも幻術よ」
ニンジャの声は、塔の遥か上層、カグヤの領域から響いた。
「お前が斬りたかったのは、幻影ではない、現実だ。だが、お前は常に、最も恐れる過去の『幻影』を斬る。だからこそ、カグヤ様の前には辿り着けぬ」
ニンジャが消滅した後、この図書館空間は役目を終え、崩壊を始めた。
「小次郎さん! 早く!」
小次郎は、銀とのえるを抱え、重力操作で崩壊する塔の壁面を駆け上がった。彼の心には、ニンジャの最後の言葉が重くのしかかっていた。
(俺は…また、幻影を斬ったのか?)




