婚約者と家族に虐げられ、使用人のように扱われ続けた悪役令嬢は、捨てられたその瞬間から全員が破滅への道を転げ落ち、やがて隣国の麗しき王子に拾われ溺愛される
セシリア・アーデルハイト侯爵令嬢は、王都では「婚約者に見放された哀れな悪役令嬢」と囁かれていた。
だが、その囁きの裏には彼女自身の涙と苦悩が隠されていることを、誰も気に留めはしない。
彼女は幼い頃から王太子エドワードの婚約者に選ばれ、将来は王妃としての教育を受けてきた。礼儀作法、語学、音楽、舞踏――全てにおいて一切の妥協を許されず、家族からは「王家の顔を潰すな」と罵声を浴びせられる日々。
それでもセシリアは歯を食いしばり、努力し続けた。
だが、王太子が寄り添ったのは彼女ではなく、男爵令嬢リリアーナだった。
「セシリアは冷たい。いつも俺を責め立てる」
「リリアーナは優しい。お前も少しは彼女を見習え」
エドワードはそう言ってはセシリアを突き放し、リリアーナを庇った。
婚約者としての務めを果たすため、王太子に助言や注意をしても「悪役」として責められる。
ついには、王宮で彼女の立場は孤立し、彼女を嘲る笑いが日常となっていた。
それでも――セシリアは耐えた。
王太子のため、家族のため。
自分が踏み台となっても、皆が笑顔でいられるのならと。
◆
だが、限界は突然訪れる。
「――セシリア・アーデルハイト。お前との婚約は破棄する!」
舞踏会の場で、エドワードはそう高らかに宣言した。
リリアーナの白い手を取り、誇らしげに人々へ見せつけながら。
「お前はリリアーナを虐げた! 嫉妬に狂い、彼女を貶めようとした! その醜さに、俺は愛想を尽かした!」
群衆がざわめく。
セシリアの胸は張り裂けそうだった。
「……そんなこと、私は――」
否定の言葉は、群衆の冷たい視線にかき消される。
家族ですら、彼女の味方にはならなかった。
「これでやっと、家の名誉も守られるわ」
「お前が王太子殿下に嫌われたせいで、どれほど我らが肩身の狭い思いをしたか!」
母も姉も、彼女を責め立てた。
セシリアはその場に立ち尽くし、全てを失った。
◆
婚約破棄の翌日から、彼女の人生は急転した。
侯爵家からは「不要」と追い出され、持参金も衣服も取り上げられる。
実家の屋敷を出た彼女は、わずかな下働きのような仕事をして糊口をしのぐしかなかった。
かつて「悪役令嬢」と呼ばれた令嬢は、いまやぼろをまとった孤独な女に過ぎない。
◆
だが、世界は皮肉だ。
エドワードはリリアーナを愛人同然に扱い、王家の重責を顧みなくなった。
王妃教育を受けていないリリアーナは宮廷で失態を繰り返し、諸侯の信頼を失っていく。
そして、放蕩を重ねた王太子とその愛妾は、次第に支持を失い、やがて王位継承権すら危うくなる。
アーデルハイト侯爵家も同じだった。
セシリアを切り捨てたことで、王太子派としての立場を強めようとしたが、王太子の失墜と共に家の評判は地に落ちた。
商人たちからの信用も失い、家計は火の車。
華やかに振る舞っていた母や姉は、今や取り立てから逃げる日々を送っていた。
◆
そんな中、セシリアはただ静かに生きていた。
ひっそりと小さな花屋を手伝い、朝には市場で働き、夜にはわずかな灯りの下で眠る。
贅沢はなくとも、誰にも責められず、誰にも虐げられない生活。
それが、彼女にとっては初めて得た「平穏」だった。
けれど、運命は再び彼女を大きく揺り動かす。
「――お嬢さん、少しよろしいかな?」
市場で花を買いに来た青年が、セシリアの手を取った。
漆黒の髪、深い青の瞳。気品と威厳をまとったその姿に、周囲の商人たちが息を呑む。
「私は隣国ヴァルシュタインの第一王子、アレクシス・フォン・ヴァルシュタインだ」
その名を聞いた瞬間、セシリアの胸は大きく波打った。
「――君を、ずっと探していた」
アレクシス王子の言葉に、セシリアの運命は再び動き出すのだった。
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「……探していた?」
セシリアは思わず問い返した。
隣国の王子が、自分のように落ちぶれた女を探す理由などあるはずがない。
アレクシスは穏やかに微笑んだ。
「君の名を、私は前から知っていた。王太子の婚約者として、才気にあふれる令嬢がいると。……けれど、気づけば君は婚約を破棄され、行方をくらましていた」
「わ、私は……ただの、無能で、冷たい女だと……」
セシリアは言葉を濁す。そう刷り込まれてきたから。
だが、アレクシスは即座に首を横に振った。
「違う。君は冷たくなどない。むしろ、誰よりも誠実に周囲のために尽くしたはずだ。それを理解できぬ者が、君を利用し、押し潰しただけだ」
その言葉に、セシリアの胸が熱くなる。
誰一人として、これまで自分を肯定してくれた者はいなかった。
ただこの人だけが、真っ直ぐに自分を見つめ、価値を認めてくれる。
「セシリア。君が嫌でなければ……私の国へ来ないか?」
◆
セシリアは迷った。
だが、家も、帰る場所もない彼女に、選択肢はほとんど残されていなかった。
そして何より、アレクシスの瞳が――「守りたい」と強く語っていた。
「……私などでよければ」
震える声で答えると、アレクシスは彼女の手を包み込み、まるで宝物のように唇を落とした。
「ありがとう。もう君を二度と、誰にも傷つけさせはしない」
◆
隣国ヴァルシュタイン王国。
そこで待っていたのは、信じられないほど穏やかで温かい日々だった。
セシリアのために用意された離宮は、彼女が望めばすぐに花畑に変わり、図書室に変わり、庭園のようにもなった。
侍女たちは彼女を尊敬と親愛の眼差しで支え、王子自らが食卓に同席し、彼女の一言一言に耳を傾ける。
「セシリア、今日はよく眠れたか?」
「そのドレスは君に似合っている。いや、君ならどんな衣も霞んでしまうな」
毎日が、夢のようだった。
かつて使用人のように罵られた日々が嘘のように、彼女は「愛されること」を知った。
◆
一方その頃――。
エドワード王太子とリリアーナの評判は完全に失墜していた。
リリアーナは立ち居振る舞いで何度も失敗し、諸侯の妻たちの失笑を買った。
「セシリア様ならばあり得ないこと」と陰口を叩かれるたび、彼女は嫉妬と焦燥で荒れ狂い、王太子を責め立てた。
だが王太子もまた、国政を顧みぬ放蕩三昧。
やがて民衆の怒りを買い、ついには国王から継承権を剥奪されるに至った。
「なぜだ! 私は王になる男だぞ!」
「全部あの女のせいよ! セシリアのせいよ!」
二人の叫びは空しく響き、もはや誰も耳を貸さなかった。
さらにアーデルハイト侯爵家も、借財と訴訟で屋敷を手放し、社交界から姿を消す。
母も姉も贅沢な暮らしに慣れすぎており、あっという間に落ちぶれた。
「セシリアを切り捨てなければ、こんなことには……」
嘆いても後の祭り。
彼らは自らの手で未来を潰したのだ。
◆
やがて――セシリアとアレクシスの婚約が、盛大に発表された。
「ヴァルシュタイン第一王子、アレクシス殿下が、かのセシリア嬢を妃に迎えるそうだ!」
「セシリア様は悪役令嬢ではなかったのか? ……いや、真実は逆だったのだな」
王都を駆け巡る噂は、瞬く間に人々の認識を変えていった。
かつて彼女を嘲笑った者たちは青ざめ、掌を返すように「才女セシリア様」と称えた。
そして婚約式。
アレクシスは壇上で、堂々と宣言する。
「この女性こそ、我が半身。国を共に背負い、愛し続ける唯一の存在だ!」
その力強い声に、会場は歓声に包まれた。
セシリアは涙を堪えきれず、アレクシスの胸に顔を埋める。
「……夢みたいです。こんな日が来るなんて」
「夢ではない。君がずっと耐え、努力してきたからこそだ。私はそれを誇りに思う」
アレクシスは彼女の頬を優しく撫で、唇を重ねた。
その瞬間、セシリアの心の奥で何かが解けていく。
もう、誰にも踏みつけられることはない。
もう、誰にも否定されることはない。
彼女は「ドアマット令嬢」ではなく、愛される王子妃となるのだから。
◆
それからの日々は、まさにシンデレラストーリーそのものだった。
セシリアは国母教育を受け、アレクシスと共に政務に臨む。
彼女の冷静な判断力と誠実な姿勢は国民の信頼を集め、やがて「慈愛の妃」と呼ばれるようになる。
アレクシスはそんな彼女を溺愛してやまなかった。
「セシリア、政務で疲れただろう。今日は私の腕の中で眠るといい」
「君がいるだけで、私は世界を征する力を得られる」
夜ごと囁かれる甘い言葉に、セシリアは幸福を噛み締めた。
かつて虐げられ、蔑まれ、泣いてばかりだった少女は、今や世界で一番愛される女性となったのだ。