第五章 海と海苔と博士の胃痛
翌朝。ホテルのロビーに立つ直樹は、鞄を握りしめながらため息をついていた。
アユが軽やかに現れ、涼しい笑顔を見せる。
「博士、準備はよろしいですか? 村の皆さんが待っています」
直樹は曖昧に頷いた。昨夜、AI Naviに「最初の実験は漁村で」と言われたのを思い出すと、胃の奥がずっしりと重くなる。
ホテルを出ると、ジャカルタの朝はもう蒸し暑かった。道路はバイクと車で埋め尽くされ、クラクションが絶えない。
アユは慣れた様子で横断歩道を渡り、振り返って手招きする。
「博士、こちらです」
直樹は必死に車の波をくぐり抜け、汗をぬぐった。
やがて車に揺られながら郊外に出ると、高層ビル群は消え、川沿いに小舟や木造の家が現れ始めた。
「もうすぐ村に着きます」
アユが言い、直樹は乾いた笑みを浮かべて頷いた。
――
村の広場には、すでに人々が集まっていた。
「博士!」と子供が叫び、大人たちの視線が一斉に注がれる。
その人々の前に、ひときわ堂々とした男が歩み出た。
「博士、ようこそ。我々の村へ」
アユが通訳する。
「この方が村のリーダー、ブディさんです」
ブディは腕を組み、真っ直ぐに直樹を見据えた。
「我々は海で生きている。遊び半分では困る。暮らしがかかっているんだ」
直樹はぎこちなく頷いた。
(いや……遊びどころか、何をすればいいのかすら……)
アユが冷静に通訳する。
「博士は、全力で取り組むと仰っています」
「そうか!」
ブディは大きく頷き、広場に響く声で告げた。
「博士を歓迎しよう!」
歓声があがり、直樹の胃はさらに重くなった。
――
木の机には焼いた魚や米、そして見慣れない海藻料理が並んでいた。
「これが、この辺りで採れる海苔です」
アユが指し示す。
「こちらは食用。市場で売れます」
村人は頷く。
次に、アユが黒ずんだ海苔を示した。
「これは……誰も食べません。匂いが強く、浜に打ち上がると掃除が大変です」
村人たちが鼻をしかめる中、アユが真剣に言った。
「博士は、この“不味い海苔”を使うつもりです」
一斉に注がれる視線。直樹は咳払いをして曖昧に笑った。
(俺も今初めて聞いたんだけど……)
ブディは腕を組み直し、じっと直樹を見た。
「……面白い発想だな。だが、結果を出さなければ意味はない」
――
夕暮れ、直樹は集会所に案内された。
板張りの床にマットと蚊帳。竹の壁からは風が吹き抜ける。
「博士の部屋はこちらです」
アユが告げ、直樹は愕然とした。
(これが……俺の部屋?ホテルの冷房とシーツはどこいった?)
外には大きな水槽があり、ひしゃくが浮かんでいた。
「これは mandi です。インドネシアのシャワーですよ」
アユが笑顔で説明する。
直樹は恐る恐る水を浴び、思わず声を上げた。
「うわっ、冷たっ!」
外で見ていた子供たちが笑い転げる。
(文明が一気に五世紀は戻った気分だ……)
――
翌朝。アユと村人に連れられ、直樹は河口に立った。
水面にはペットボトルや袋、発泡スチロール片。油膜が虹色に光り、鼻を突く腐敗臭。
直樹は漁網を手に取ったが、すぐに固まった。
(……これを、手で拾うのか?)
網を水に浸けた瞬間、ぬめりと悪臭が絡みつき、吐き気がこみ上げる。
(ムリだ。これを毎日? 絶対に続かない)
慌ててスマホを取り出し、AIアプリを起動する。
Naviの無機質な文字が浮かんだ。
――推奨:水車式ごみ回収装置の導入。人力では継続不可能。候補案:木製水車+バケット+電動タイマー。
直樹はため息をつき、ぼやいた。
「……また面倒くさいこと言い出したな」
アユが覗き込み、村人たちに訳す。
「博士は、“人の手ではなく、村の技で作れる仕組みを考えています”と仰っています!」
「おおーっ!」村人が歓声を上げる。
「博士は未来を見ている!」
「我々を救ってくれる!」
ブディは腕を組み直し、ゆっくりと頷いた。
「……いいだろう。博士の言葉、信じてやる」
直樹は顔を引きつらせ、心の中で崩れ落ちた。
(いやいや……俺はただ、触りたくなかっただけなんだって……)
こうして、ジャカルタを救うスタートアップ「ナビシー」の最初の一歩が、村の大きな期待の中で始まった。