第二章 ジャカルタの空港にて
入国ゲートを抜けた瞬間、直樹は立ち止まった。
むっとする湿気と熱気が顔にまとわりつき、シャツが一瞬で肌に張り付いた。
成田での春の涼しさが遠い昔のように思える。
「……暑っ」
誰に聞かせるでもなくつぶやき、重たいキャリーバッグを引きずる。
人混みの向こうに、一枚のボードを掲げる女性が見えた。
白いシャツに紺のスカート。髪を後ろでまとめ、目は冷静そのもの。
直樹は思わず背筋を伸ばした。
「……ナオキさん、ですね?」
流暢な日本語に、直樹は慌てて頷いた。
「あ、はい! 日星飲料の直樹です」
名刺を差し出すと、彼女は軽く笑って首を振った。
「ここでは名刺はあまり使いません。私はアユ。政府からの翻訳を任されています」
(いきなり外した……)
直樹は気まずく名刺をポケットにしまい込んだ。
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タクシーに乗ると、外はクラクションとエンジン音の嵐だった。
窓越しに広がるのは、渋滞する道路、バイクの波、屋台の匂い。
排気ガスと香辛料が混ざった空気が車内に流れ込んでくる。
「……すごい数のバイクですね」
直樹は思わず口に出した。
「ジャカルタでは一番の交通手段です。家族三人で一台に乗るのも普通ですよ」
「えっ、三人? 危なくないんですか?」
「危ないです。でも、車よりずっと速い」
アユは窓の外を見ながら淡々と答える。
直樹はバイクの流れに目を奪われ、つい声が裏返った。
「うわっ、子供まで乗ってる!?」
「普通です」
それだけ言って、彼女は小さく微笑んだ。
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道沿いにはモスクの尖塔がいくつも見えた。
スピーカーから流れる祈りの声が、騒音の上に不思議なリズムで重なる。
「……あれは?」
「モスクです。時間になるとお祈りの声が流れます。
この国は“祈りの国”とも言われます」
「へえ……」直樹は曖昧に相槌を打ちながら、
(祈りでプラスチックが減れば、俺の仕事なんていらないのに……)
と心の中でぼやいた。
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夕暮れが迫る頃、車は空港近くの街のホテルに着いた。
ガラス張りのロビーは冷房が効きすぎていて、外の熱気が嘘のようだった。
直樹は思わずホッとした。
部屋に入ると清潔なベッド、温水シャワー、薄いカーテン越しに赤い夕陽。
「……普通のホテルだ。よかった……」
声に出して安堵する。
アユはドアの前で言った。
「明日は政府の研究所にご案内します。博士の論文に、皆が関心を持っています」
直樹は言葉を失った。
(いやいや、あれAIが勝手にでっち上げただけなんですけど……!)
ドアが閉まると、部屋は一気に静かになった。
遠くからクラクションとアザーンの声が混ざり合い、窓の外で夜が深まっていく。
ベッドに腰を下ろし、直樹はスマホを手に取った。
「……Navi。俺、どうすればいいんだ?」
無機質な文字が浮かぶ。
——質問を定義してください。
「質問って……俺が聞いてんだよ……」
冷房の効いた部屋でさえ、直樹の額にはじっとりと汗がにじんでいた。