瀬山遥 この音を聞いていたい
朝練の為に五時半に起きるようになったのは、顧問の小野寺先生が六時半に開けてくれるようになったからで、その時間コートに上がれるようにするためだ。
いつもと同じように着替えを済ませ、まだ誰もいない体育館に礼をする。バッシュを結んで、モップをかける。朝の光が空中を舞っている埃をキラキラ照らしだす。ボールを取り出し、ゴールを下げる。ドリブルを突きながら軽いアップをして、シュート練習に入る。
ゴールの真下、サイドシュート、バックシュート、それぞれ右左三十本ずつ。体があったまってくると、だんだんに距離を広げていく。フリースロー、ワンドリからのジャンプシュート、ミドルシュート、そして最後にスリーの位置まで来る。二、三回ドリブルをついて、膝を曲げ、ぐっと踏み込む。今日は調子がいい。まっすぐ上に飛び、お腹だけに力を込めて、その力を腕に流し込むように、優しく空にボールを放つ。思い通りの角度、ボールの抜け感だ。一度視界から離れたボールは、描いた通りのコースで再び視界に戻ってくる。そして、まっすぐ静かにゴールの網を抜け落ちる。
シュパッ
リングやボードに当たらない、その音が体育館に響いたとき、私はとても高揚する。何度でも何度でも、高揚する。何度も何度もシュートを打つ。
いつもならそれを淡々と繰り返すけど、その日は次第に、あの試合を思い出してしまった。脳裏にこびりついて剝がれない苦いあの記憶だ。
私の体は記憶をたどって無意識的に動きだす。ディフェンスを振り切るため体を小さくスイングしてフェイントをかける、一気にぐっと加速させ、左コーナーから右コーナーへ走る、途中ピタっとセンターへスクリーンをかけて、見計らったタイミングで体をオープンにし、あの位置でボールをキャッチする。ディフェンスはマリへ集中してるから、ミユから鋭く狂いのないパスがくる。目の前は完全フリー、これ以上ないノーマークだ。私が一番好きな右の外角0度のポジション、大好きなスリーポイントシュート。何度も何度もマリとミユと併せてきた私たちのセット、練習してきたシュート。渾身のシュートを放った。
甲高いブザーの音が鳴り響く。あの音は鳴らなかった。少し短くリングに当たって、相手選手がボールを拾う。試合に敗れた。
今なら少しわかる。私は勝ちたいんじゃなくて、勝たなきゃいけないんだと思っていたのだと思う。周囲からのプレッシャーと自分の実力の差に自分が怖気づいていて、あの試合、あのシュートを外したのは、自分が弱かったからだ。あの瞬間、私はバスケをやらされていたのかもしれない。その弱さが、そのプレッシャーがボールに伝わったんだと思ってる。入れなきゃいけない。入れたいではなかった。
本当は自分でも気が付いてる、私がもっとしっかりしたガードだったなら、あのシュート関係なく、あの試合には勝っていた。敗因はガードの差だったんだ。残酷までに絶対的な差だった。そう、私のせいでチームは負けた。私は手を膝につき、浅い呼吸を繰り返す。そして今、私は避けてきた問いにぶつかった。
私はどうしてバスケを続けているの?
ではそうだとして、それが一体どうしたってことだ。私が私の中を覗いてくる。まず、この高校でバスケを続けても、県大会行けるかの行けないかのレベルだろう。マリとミユの高校とは試合すらできない。中途半端な部活動を続けるくらいなら、勉強とかに注力すべきだと思う。実際、この数週間、先輩たちの意識の低さにイラついていたし、何より自分が少し周りより上手いという優越感にも浸っていた。そんな自分も嫌だったはずだ。実際は、基礎力があるだけの差で、自分に特別な才能があるわけじゃないことくらい、自分が痛いほどわかってる。そんな薄っぺらいプライド掲げて、ここで続けることに一体なんの意味があるのだろう? その先に何があるの?
頭の情報が部活なんて時間の無駄だと言ってくる。無意味だと突き付けてくる。だけど、そうなんだけど、それでも、どうしようもなく、本当にそうなの?って、無駄なんて言葉で切り捨てられない、胸の真ん中の奥深くの方からからこみ上げるものがある。私はそれをまるで知らないみたいで、言葉にできないけど、それが私に言うの、変わりたい、もっともっと、強くなりたいって。
私はもう一度、右の外角0度に立った。二、三回ドリブルをついて、膝を曲げ、ぐっと踏み込む。まっすぐ上に飛び、空に優しくボールを放つ。親指の押し込み、人差し指と中指の爪のかかり具合、角度、抜け感、全部思い通りだ。一度視界から離れたそのボールは、描いた通りのコースで再び視界に戻ってくると、まっすぐ静かにゴールの網を抜け落ちる。
シュパッ
そうだ、そうなんだ。私はただこの音をもっと聞いていたい。この音が私を誰よりも私らしくする。心が願ってやまないんだ。試合でシュートを入れたい。本気のバスケがしたい。私、こんなにバスケが好きなんじゃん。
気が付いたら涙が頬を伝っていて、頭と心がやけにクリアになっていた。Tシャツの袖で汗と涙をふき取った。どうしてバスケを続けたいのか、その答えは、実に単純明快だ。――私は、バスケが好きなんだ。
私はシューターになりたい。どんな時も決められる強い選手になりたい。私はバスケを自由に心から楽しみたいと心底思った。
時計が八時前を指していた。私は足早に片付けを済ませ体育館を後にする。そして、部室棟の階段でパックジュースを飲みながら、シュートフォームの録画を確認する。今日は途中からシュートの本数を記録しそびれていたし、シュートの乱れが激しかった。けど、いつもよりたくさん汗をかいている。ボールのリリースポイント、筋力や体力の課題、今のチームでできる試合運びとか、これからやるべきことが頭にどんどん湧いてきた。今のチームなら私は背の大きさ的にガードでなく、シューターフォワードが妥当だろう。それに私はもっといろいろなチャレンジがしたい。勝つために。先生やキャプテンにも聞いてみようと思った。
「時間、大丈夫?」
我に返って、声に振り返ると、まだ部活姿の背の高い坊主頭の男子がいた。この間と同じ人だ。ぺっちゃんこのパックジュースとか、その味とか、汗だらけなのとか、私と同じでなんだか笑えた。
「同じだね。急ごっ」
私はそのまま階段を駆け上がる、その足取りはとても軽い。
彼の名前は何だろう。部室棟の向こうの桜が満開なのに今更気がついた。アスファルトの薄い灰色と、地面に生えた雑草の色んな黄緑と、部室棟の錆びた屋根の赤褐色と、濃い空の青と、やたらに横に長い真っ白な雲と、一本桜の淡色のピンクと、やけに鮮明に目に映る。ここは、こんなにも鮮やかだ。今ならもっともっと高く飛べそうだ。もっともっとシュートを打ちたい。決めなきゃいけない時に決められるそんなシューターになりたいなと、私は思った。