真田陽太郎 雲を読む
真田陽太郎:本日は、南高北低の典型的な夏型の気圧配置となり、終日晴天となる見込み。風速はおおよそ1.2メートル、北東の風。体感気温は35度を超え、酷暑の予想。この条件下では、グラウンド表面温度も著しく上昇するため、散水量は通常より1.5倍程度増やすことが望ましい。
毎朝七時に、当日の気象予報を野球部のグループに送信するのが日課となっている。始まりは些細なことだったが、次第に皆が「今日どう?」と聞いてくるようになり、自然と定着した。習慣とは実に漸進的に形成されるものである。
きっかけは中学時代の理科教師であった。彼は自他ともに認める気象マニアであり、テストでは音声で伝えられた気象情報を基に、日本列島の白地図に天気図を描き、天気を予測する問題が出された。その際に僕は、わずかな高気圧の張り出しや上空の風の蛇行が、後に局地的な雨や突風を引き起こすという連関を知った。ミクロな差異が、マクロな結果をもたらす現象系に、僕は深い魅力を覚えた。目の前を悠然と流れる雲は今この瞬間もどこか遠くの何かの影響を受けている。
野球は極めて天候の影響を受けやすいスポーツである。風向や風速はフライの落下地点を変え、湿度や気圧は打球の伸びに直結する。さらに降水は試合そのものを左右し、判断を迫る局面をもたらす。これらの要素は単なる外的条件ではなく、時に選手の技術と同等に勝敗を分けるファクターにもなりうる。
こうした複雑性と不確実性の中に秩序を見出し、結果に至る過程を観測、解釈しながら、実践に活かす、おそらく僕は、そういう意味で野球が好きなのだ。
少し早めに家を出たつもりだったが、佐々木氏はすでに準備を終え、強烈な日差しのもと、用具をグラウンドに運び出している最中であった。野球が好きだという点は僕と共通しているが、こういうところは少々考えが合わない。酷暑の中で一人ですべてを運び出そうとするなど、どう考えても非合理的だ。熱中症のリスクもある。僕は足早に加勢へ向かった。大きな器具であればグラウンドに置いておけるが、ボールケースやドリンクケースといった細かな類はそうはいかない。こういう場面では、やはり人の手が必要になる。
「佐々木氏、おはよう。僕はこっち方を持つよ。」
「真田、おはよう。サンキュ。今日、絶対暑くなるな。甲子園、大阪松陽勝つと思う?」
そう言うと、佐々木氏は西の空を見上げた。
「うーん、どうだろう。希望的観測を含め、僕は七割方、横浜桜蔭かなと。佐々木氏の予想は?」
「まあ、互角だけど、大阪かな。松蔭の城之内、調子はいいけど、準決勝でも延長まで投げてたし。肩がどこまで持つか不安があるよな。甲子園、天気どうだ?」
「その心配はあるけど、打線は横浜が上だぞ。関西方面は上空に寒気が流れ込んでいて、大気の状態は不安定なんだ。局地的に激しい雷雨が発生する可能性がある。ただし、あくまで局所的な現象だから、甲子園を直撃するかは読みにくい。でも、仮に降っても通り雨だ、試合の中止までは行かないかと」
グラウンドにはまだ誰もいなかった。すぐ側の丘陵から高らかに響く蝉の声は、僕らを歓迎しているようだ。時刻はまだ八時前というのに、この体感気温である。この分では予想最高気温は超えるかもしれない。
我々はホースで水撒き作業に入る。雪高のグラウンドは広く、三分割にして使っているが、僕らの使用区域にはどういうわけかスプリンクラーはついていない。というか、物理的距離の問題で届いていないという方が正しい。佐々木氏がホースの中間を支え、僕が先端の拡散器を操る。ライトからレフト、外野から内野へ、僕らは黙々と続けた。放射状に放たれた水の玉は僅かに北東へ逸れる、予報通りである。ホースを支える役は見た目以上に忍耐を擁するが、佐々木氏はいつもその役を買って出る。この夏ずっとそうだった。
水撒き完了の頃合い、和田氏と辻氏が来た。我々四人はトンボを持ちグラウンド整備に入る。一年生は練習開始より一時間早めに着て、準備をする。まだ渡辺氏がきていないが、あと十分もすれば、主将の田中先輩がグラウンドへ上がってきて、その事実に落胆するのだろう。あらゆる感情を押さえ付ける暴力的な暑さがグラウンドを覆っている。
午前九時か十三時、今日我々に割り振られたグラウンド時間だ。練習メニューは事前に監督から主将へ伝えられている。ほぼ毎回同じようだが、天候に合わせて若干の変更もなくはない。それでも今日はメニュー通りに終えるだろう。積雲がつつがなく僕らの上空を漂っている。気圧配置が安定している時の雲の動きだ。
先輩たちも次々とグラウンドに集まり、はたして渡辺氏も全体集合には遅れることはなかった。田中先輩の眉は引きつっていたが、彼の事情を察してか、何も言わない。マネージャーの二人の動きはいつもとても正確で、開始時刻五分前にはドリンクを用意してくれる。氷が惜しみなく詰められた麦茶が、僕らの生命線だ。
時刻通り、田中先輩が全体を集め、今日のメニューを簡単に伝えると、すぐにアップに入る。グラウンドを二周し、ラダーを使ったトレーニングを行う。続けざまに守備練習へ、キャッチボールに入る。次第に飛距離を広げ、最後は数人で連携中継プレーを想定してのキャッチボールだ。我々は十一人だから、五人と六人で交代しながら行う。声を張り上げて、ボールを呼ぶ、声を出せば出すほど、意識がボールに没入していく。声出しも一種の技術なのだと先輩は教えてくれた。
津守先生はだいだいこの頃グラウンドにやってくる。それを合図にノック連が始まる。先生はバットを多彩に操り、ゴロからフライとボールを投げ分ける。乾いた音が響くと、グラウンドが本格的に目を覚ます。
捕球とは極めて多様な反復の連鎖でもある。内野には内野の、外野には外野の処理手順があり、それを身につけるには実に膨大な時間を要する。一つの捕球からその人の運動神経と野球センスが垣間見えてしまうから恐ろしい。僕は野球センスも運動神経も人並みだけど、足だけは速いということでセンターを任されている。フライにせよ、ゴロにせよボールの軌道予測も割と上手い方だと思う。今日は風がわずかに東へと吹くため、打球の伸びに影響を与えていることがわかった。
我々野球部で運動神経が最もいいのは田中先輩でそれに次ぐのが渡辺氏だろう。一方、経験に基づく野球センスで言えば、佐々木氏が頭一つ出ている。彼はあらゆる球の変化に柔軟に無難に対応する。ステップは軽く、捕球から送球までが非常に滑らかである。反応の良さもさることながら、その動きには一切の無駄がない。
ノック錬がそろそろ終わるかという頃、皆の集中力が途切れ始めた。僕はフライからの送球時、ボールへの動力が抜けてしまい、和田氏はゴロのイレギュラーバウンドを処理しきれず、辻氏は壮大な悪送球をする。渡辺氏は捕球処理の際に、一瞬の油断を見せ、足元を抜けたゴロが後方に転がる。佐々木氏が皆を鼓舞するように大きな声を張り上げた。そこまでは良かったと僕は思う、無論ミスは良くないのだが、その為の練習である。だが渡辺氏はすぐにボールを追いかけなかった。恐らくそれがいけなかった。その動きを見ていた田中先輩の表情が如実に変わった。
「渡辺」
その一言には、怒気が含まれており、渡辺氏が硬直し、頭を下げた。田中先輩はそれ以降は何も言わなかった。転がったボールは僕が代わりに拾った。
すかさず田中先輩は休憩の合図をした。僕らは一斉に生命線へ駆け寄った。
「……悪かった、ちょっと気が抜けた」
渡辺氏が僕に言った。
「渡辺氏、連日夏日が続いているから無理しないで」
僕が言えることはほとんどない。
「なべやん、これ、飲んだ方がいいかも」
佐々木氏はそう言うと、麦茶ではなくポカリを差し出した。
渡辺氏は母子家庭で、夏休みバイトをしている。きっと今朝もそうだったのだろう。それでも、このえぐるような暑さの中、ここへきて野球をしているのだ。それがどういうことかを皆が知っているから、皆何も言わない。帰って用意されたご飯を食べ、夜な夜な気象情報を書き写し、颯爽と練習にやってこれる僕が言えることは、ほとんどない。
ノックは少し間を置いて再開され、その後バッティング練習に入ったものの、皆のやり場のない感情がグラウンドに居座った。渡辺氏の動きにはやや硬さが残っていたし、田中先輩の素振りもどこか鋭さを増していた。と言うよりは、自分自身を律しているかのようだ。暑さのせいにしてしまえば楽なのに、そう単純な話でもない。それでも、そんな強張りも練習終盤には少しずつ霧散していった。
練習終了後、グラウンド整備に残った一年を佐々木氏が呼び集めた。
「今日は真田の予報通り暑かったな。だけど、それは関係ない、グラウンドに立ったらちゃんと楽しんで声出して野球をしような。天気とかで言い訳すんのはやめよう。それで、準備のことだけど……渡辺気にすんなよ。俺はできるやつがやればいいと思うよ。みんなは?」
「うん、俺も気にしない」
と和田氏が真顔でまっすぐ渡辺氏を見て言う。
「俺も。今朝も早かったんだろ、むしろまじで尊敬だわ」
辻氏は明るく大きな声で、渡辺氏の肩をさする。
「僕も気にしない、渡辺氏の体調が気になるくらいだ」
最後に僕もいうと、佐々木氏が満天の笑みで僕らを見つめた。我々はいつの間にか等しく真っ黒に焼けている。
「ならこの後、先輩に言いにいこう、あと少しだけど夏休みまだあるしさ」
渡辺氏の肩は震えていた。
「ごめん……ちゃんと一年の仕事とかできてなくてごめん」
彼のやり場のない想いを受け止められるのは、我々なのだと思う。
「ありがとでいいだろ、そこは」
和田氏が渡辺氏の肩を組むと、辻氏はその坊主頭をごりごりする。
我々は田中先輩へ一部始終を説明した。先輩はもちろん事情を知っていたし、こういう風に言いに来ることを待っていたようだった。
「これで怒るべきことを怒れるようになったよ、ありがとな」と、むしろ感謝された。
解散後、佐々木氏は美味しそうにおにぎりを食べ始めた。皆が帰りの支度をする中、彼だけがランニングシューズに履き替え、黙々と外周を走りに向かった。この暑さの中かれを動かすものはなんだろう。
彼の見ている景色は、僕のそれとは違っている。もっと遠く、もっと高く、誰も見ていない場所を、彼は見据えている気がした。まるで僕が積雲の背後にある寒冷渦を読み取ろうとするように、この雲の遥か彼方の連動する気象に思考を巡らせるように。
ケータイの画面が甲子園の速報を知らせる。僕は佐々木氏に追いつこうと制服のまま駆け出した。
「佐々木氏、甲子園結果でたよ。大阪松陽が四対二で横浜桜蔭を破り初優勝」
僕が大声でそういうと、佐々木氏は西の空を見上げた。
「そうか、ありがとな。真田、甲子園の雲ってこっちにくるの?」
「風向きは北東のまま、風速が速まっている。今夜あたりは雷雨かもしれない。それが……厳密に甲子園の雲かは誰にもわからないよ、でも天気は繋がってるんだ、空は全部繋がってるんだよ」
佐々木氏が僕の言いたいことを理解したのかは分からないが、彼の見つめる空には甲子園のスコアボードが浮かんでいたのかもしれない。
我々には軽々しく甲子園なんて言う人はいない。だけど、だからと言って何かを諦めている訳ではない。我々のできる野球がある。僕はこの十一人で野球を続けられることが、なんだかすごいことだと思えた。こんな暑い夏にそんなことを思えることが、僕は尊いと思う。
僕にできることは、より正確に天気のことを伝えるくらいだろう。それでもそれが、少しでも役に立てたら、皆が日々快適に過ごせたら、いいなと思う。だから、僕は今日も明日も雲を読む。




