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策略の令嬢、冷酷公爵を落とす

作者: W732

アウストリア侯爵家の屋敷は、その壮麗な外観とは裏腹に、朽ちかけた魂のように静まり返っていた。かつては王国の経済を支えるほどの一大勢力を誇ったこの家も、今や見る影もない。父は政争に敗れ、心労から病に伏せ、当主としての責務を全うできないでいる。二人の兄は、父の築き上げた莫大な借金と無駄遣いを清算することなく、放蕩の限りを尽くした挙句、数年前に次々と病死した。残されたのは、邸宅の屋根の隙間から雨漏りし、使用人の給金すら滞るほどの困窮と、そして、侯爵令嬢エレノア・アウストリア、ただ一人だった。

「エレノア様、今日の食事はまた粥のみでございますか……」

老執事が申し訳なさそうにそう告げた時、エレノアは窓から外の景色を見ていた。領地は荒れ果て、かつては豊かだった農地も、今では雑草が生い茂るばかりだ。領民たちの顔には、疲労と諦めの色が浮かんでいる。侯爵家の名誉も、威厳も、見るも無残に地に堕ちていた。

周囲の貴族たちは、アウストリア家を嘲笑の対象とし、「地味で才能もない令嬢が、この家をどうにかできるはずがない」と陰口を叩いた。確かに、エレノアは舞踏会で目立つこともなく、芸術に秀でているわけでも、特別な魔法の才能を持っているわけでもなかった。しかし、彼女の心の中には、誰にも見せない冷静な理性と、家門を救うという揺るぎない覚悟が宿っていた。この家を、父を、そして何よりも困窮に喘ぐ領民たちを救うためなら、どんな手段も厭わない。その決意を固めていた。


エレノアが目をつけたのは、王都の社交界で「氷の公爵」と囁かれる男、ラインハルト・フォン・シュヴァルツ公爵だった。彼はわずか十年で、一代にして莫大な富と強大な権力を築き上げた新興貴族だ。その手腕は冷酷無比で、感情を表に出すことは決してない。何よりも、女性関係には一切興味を示さず、清廉潔白を絵に描いたような人物だとされている。それが、エレノアにとっては最大の好都合だった。

「あの公爵に、政略結婚を申し込む……」

エレノアは、冷え切った自室で、自らのプランを練っていた。アウストリア家が残された唯一の価値は、その古くからの血統と、侯爵令嬢エレノアの清廉潔白な処女性だけだ。新興貴族であるラインハルトは、血統の弱さを抱えている。そして、彼が女性に興味を示さないということは、女性側の「恋愛感情」を排除した、純粋な「契約」としての結婚を持ちかけられるということだ。彼が求めるものと、エレノアが提供できるものは、完璧に合致している。

数日後、エレノアは、王都で開かれる小さな貴族の集まりに顔を出した。ラインハルト公爵も出席しているという情報を得ていたからだ。会場は、アウストリア家の没落ぶりを嘲笑うかのような、皮肉な視線で溢れていた。だが、エレノアはそれらに一切動じることなく、ただ一点を見据えていた。会場の隅で、一人静かに立っているラインハルト公爵の姿を。

彼の周りには、誰一人として近づこうとしない。その威圧感は、氷の壁のようだ。だが、エレノアは迷わず彼のもとへと向かった。

「ラインハルト公爵閣下。突然のことで恐縮ですが、わたくし、侯爵令嬢エレノア・アウストリアが、閣下にご提案したいことがございます」

エレノアは、深々と頭を下げた。公爵の視線が、上から静かに彼女に向けられる。その瞳は、感情を読み取れないほど深く、吸い込まれそうだった。

「……アウストリア侯爵令嬢、私に何の用かね」

彼の声は、凍てつくような冷たさだった。だが、エレノアは怯まない。

「単刀直入に申し上げます。わたくしと、政略結婚をしていただきたく存じます」

その言葉に、周囲の貴族たちがざわめいた。狂気の沙汰だ。没落寸前の侯爵家の令嬢が、あの冷酷な公爵に、自ら結婚を申し込むなど。

だが、ラインハルト公爵は、そのざわめきにも動じず、ただ静かにエレノアを見つめていた。彼の表情には、一切の感情の揺れが見られない。だが、エレノアには、彼の瞳の奥に、ほんのわずかな「興味」が宿ったように見えた。

「侯爵令嬢。私に、貴女と結婚する利点があるとでも?」

「はい、ございます」エレノアは迷わず答えた。「閣下は莫大な財と権力をお持ちですが、名門の血統という点においては、いまだ盤石とは言えないと拝察いたします。そして、王家との縁遠さも、課題の一つかと」

エレノアは、淀みなく続けた。

「アウストリア家は、古くからの名門。たとえ今は没落寸前でも、その血筋は確かです。そして、わたくしは、清廉潔白な処女。これまでの私生活において、いささかの瑕疵もございません。わたくしと結婚なされば、閣下はアウストリア家の血統を手に入れ、王家との繋がりを強固にすることができます。そして何よりも、女性に一切興味を示さないという閣下の清廉なイメージを、さらに確固たるものにできるでしょう。貴族の女性から、自ら結婚を申し出たとなれば、世間の目は閣下の『潔癖さ』をより確信するはず」

エレノアの言葉は、完璧なまでに論理的だった。彼女は、彼の利益のみに焦点を当て、自分の価値を最大限にアピールした。そこには、個人的な感情や色恋沙汰など、微塵も感じられなかった。

ラインハルト公爵は、長い沈黙の後、初めて口元にわずかな笑みを浮かべた。それは、嘲笑なのか、それとも感嘆なのか、エレノアには判断できなかった。

「……面白い。侯爵令嬢、貴女の覚悟と、その提案の合理性は理解した。この件、検討しよう」

彼はそう言い残すと、エレノアに背を向け、冷徹な仮面を再び被った。周囲の貴族たちは、その場から動けないエレノアと、去っていく公爵の背中を、好奇の目で見ていた。

エレノアは、その場に立ち尽くしたまま、静かに息を吐いた。初めての、そして最後の賭け。その第一歩は、なんとか踏み出せた。だが、これからが本番だ。冷酷と名高いあの公爵の心を動かし、そして家門を再興させるという、想像を絶する道のりが、今始まったのだ。


エレノアの提案は、驚くべきことに、わずか数日で実を結んだ。ラインハルト公爵からの婚約の打診が、アウストリア侯爵家へと届けられたのだ。社交界は蜂の巣をつついたような大騒ぎとなった。「氷の公爵が、没落寸前の侯爵令嬢を娶るなどありえない」「きっと哀れな令嬢が、公爵に無理やり結婚させられたに違いない」――そんな憶測が飛び交い、エレノアは同情と軽蔑の視線にさらされた。だが、エレノアはそんな世間の声に動じることなく、淡々と結婚の準備を進めた。彼女の瞳には、ただ、家門を救うという固い決意が宿っていた。

婚約が成立すると、エレノアは公爵邸に足繁く通い始めた。「未来の公爵夫人」として、公爵家の運営に携わり、ラインハルトの仕事を手伝うことが、彼女に課された(そして自ら課した)務めだった。しかし、公爵邸の管理体制は、エレノアの想像をはるかに超えていた。

「侯爵令嬢殿下。書類はすべて、私の許可なく触れてはなりません。公爵閣下の私的な文書は、特に機密性が高いのです」

公爵の筆頭秘書官である老練な男は、エレノアに一切の妥協を許さなかった。全ての部署で、厳格な規律と徹底した管理が行われており、エレノアが口を挟む隙などほとんどなかった。

だが、エレノアは挫けなかった。彼女はまず、公爵邸の図書室にこもり、シュヴァルツ公爵家の歴史、領地の産業、財政状況、そして歴代の公爵が下した重要な決断まで、片っ端から読み漁った。公爵の冷徹な経営手腕と、その裏にある合理的な思考を理解しようと努めた。

ある日、エレノアはラインハルトが抱えている案件について、資料を読み込んでいるうちにあることに気づいた。彼の指示書には、常に最効率の選択肢が記されているが、時折、その選択肢の裏に、わずかながらも「人」への配慮が垣間見えるのだ。例えば、荒れた土地の開発計画において、通常ならより効率的な他所の領民を導入するはずが、あえて地元に雇用を生み出す方針を取っていたり。それは、冷酷と評される彼のイメージとはかけ離れたものだった。

「公爵閣下。この領地開発計画ですが、もしや、閣下は雇用創出を優先なさっておいでですか?」

エレノアは、ラインハルトが執務にあたっている部屋で、資料を指しながら問いかけた。彼は、眉一つ動かさず、エレノアに視線を向けた。

「……ほう。そこまで読み取れるとは、貴女は予想以上に聡明だな」

ラインハルトの声には、わずかながらも興味の色が含まれているようにエレノアには感じられた。彼は続けた。「効率だけを追求すれば、人は疲弊する。疲弊した民は、やがて反乱を起こす。一時的な利益のために、長期的な安定を損なうのは愚策だ」

彼の言葉は、あくまで合理性に基づいていた。しかし、エレノアは彼の言葉の裏に、冷徹な計算だけでなく、民を思う隠れた優しさが存在していることを感じ取った。その日以来、エレノアはラインハルトの指示の意図を汲み取り、彼の思考を先回りして行動するようになった。彼の言葉の裏にある「隠れた意図」を理解し、それを補佐するように立ち回ったのだ。彼女の的確な補佐は、やがて公爵の側近たちからも認められるようになり、彼女を見る目は尊敬へと変わっていった。

そんなエレノアとラインハルトの関係を快く思わない者もいた。ラインハルトの失脚を狙う政敵や、アウストリア家が再興することを恐れる古い貴族たちだ。彼らは、エレノアの過去の恥部をでっち上げようとしたり、公爵邸の内部情報を漏らそうとしたり、様々な妨害工作を仕掛けてきた。

ある夜、エレノアは不審な人物が公爵邸の裏口から侵入しようとしているのを発見した。それは、過去にアウストリア家の没落に加担した男だった。エレノアは躊躇なくその男を捕らえ、公爵に報告した。

「この男は、かつて我が家を陥れた者の一人です。おそらく、閣下の情報を盗もうと……」

ラインハルトは、冷たい目でその男を見下ろした。そして、エレノアの顔をじっと見つめた。

「侯爵令嬢。貴女は、この私を、信頼しているのか?」

エレノアは、その問いに迷うことなく答えた。

「はい、閣下。わたくしは、閣下の合理性と、そして、その心の奥底に隠された真の意図を、深く信頼しております。この家門と、そしてわたくしの未来を託すに足る方だと」

エレノアは、この時すでに、彼を「利用する」という初期の打算を超え、彼に強い信頼と、尊敬を抱き始めていた。彼女の言葉に、ラインハルトの表情がわずかに緩んだように見えた。彼は、捕らえた男を冷徹に処理し、そしてエレノアに言った。

「貴女は、私が選んだに足る女だ」

その言葉は、エレノアにとって何よりも大きな賛辞だった。偽りの婚約から始まった関係だが、二人の間には、打算を超えた、奇妙な、しかし強固な信頼関係が築かれつつあった。そしてエレノアは、ラインハルトの冷酷な仮面の下に、自分が初めて触れた温かい感情の存在を感じ始めていた。


エレノアとラインハルトの婚約は、数々の妨害を乗り越え、より強固なものとなっていた。エレノアはもはや、彼を利用するという打算ではなく、彼の冷徹な仮面の下に隠された孤独な魂に触れ、彼を心から理解し、支えたいと願うようになっていた。ラインハルトもまた、自分の利益のためではなく、純粋に自分を理解し、支えようとするエレノアの存在が、何よりもかけがえのないものだと気づき始めていた。

ある夜、エレノアはラインハルトの執務室で、彼の横顔を見つめていた。彼はいつも完璧で、感情を表に出すことはない。しかし、その瞳の奥には、どこか深い孤独が宿っているようにエレノアには感じられた。

「閣下……いえ、ラインハルト様」

エレノアは、恐る恐る彼の名を呼んだ。ラインハルトは、筆を止めてエレノアに視線を向けた。

「何かあったのか、エレノア」

「……いえ。ただ、わたくしは、ラインハルト様が、常に完璧であろうとされていることを、知っております。ですが、もし、もしよろしければ、わたくしは、ラインハルト様が、その仮面を外せる唯一の場所でありたいと願います」

エレノアは、自身の震える声に気づかないふりをして、続けた。

「わたくしは、ラインハルト様が、その冷酷さの裏に隠された、本当の優しさと、強大な責任感を抱えていらっしゃることを理解しております。どうぞ、わたくしには、ご自身の全てをお見せください」

エレノアの言葉に、ラインハルトの瞳がわずかに揺れた。彼は、椅子から立ち上がり、エレノアの元へと歩み寄った。そして、彼女の頬に、そっと手を伸ばした。彼の指先は、ひんやりとしていたが、そこから伝わる温もりに、エレノアの心臓は高鳴った。

「……私の過去は、血と裏切りに満ちている。私は、誰をも信じなかった。信じれば、裏切られると知っていたからだ。だが、貴女だけは……」

ラインハルトは、苦しげに言葉を紡いだ。彼の声は、これまでにないほど人間的で、そして痛みを伴っていた。

「貴女は、私の全ての策略を見抜き、それでもなお、私を支えようとしてくれた。エレノア……貴女は、私がこの世界で、唯一心を開ける存在だ。私は……貴女を、愛している」

彼の口から発せられた「愛している」という言葉は、凍てついた氷が溶けるような、温かく、そして切ない響きを持っていた。エレノアの瞳から、とめどなく涙が溢れ出した。彼女は、彼に抱きつき、その背中に手を回した。彼の身体は、想像以上に温かかった。


結婚式の日は、雲一つない晴天だった。王都中の貴族たちが二人の結婚を祝福するために集まった。かつて「不釣り合いな取り合わせ」と囁かれた二人は、今や「最も互いを理解し合う夫婦」として、社交界の羨望の的となっていた。エレノアの父である侯爵は、娘の晴れ姿に涙し、ラインハルトに深々と頭を下げた。アウストリア家は、ラインハルトの支援を受けて完全に再興し、その名誉も回復していた。領民たちの顔にも、再び笑顔が戻っていた。

祭壇でラインハルトと向かい合い、エレノアは誓いの言葉を口にした。

「ラインハルト様。わたくしは、貴方を愛しております。そして、貴方の妻として、このシュヴァルツ家を、そして貴方を、永遠に支え続けることを誓います」

彼女の言葉に、ラインハルトは、初めて公衆の面前で、心からの優しい笑みを浮かべた。その笑顔は、氷の公爵の冷酷な仮面を打ち破り、そこに温かい光を灯したかのようだった。


結婚後、エレノアは公爵夫人として、ラインハルトを公私にわたって支え続けた。彼が時に見せる人間的な弱さを受け止め、彼の孤独を癒した。ラインハルトもまた、エレノアの聡明さと優しさに支えられ、以前にも増して優れた統治者となっていた。彼の政策は、冷徹な合理性だけでなく、エレノアの助言によって、より人々に寄り添ったものへと変化していった。


数年後、二人の間には、愛らしい子供が生まれた。その子は、ラインハルトの聡明さと、エレノアの優しい瞳を受け継いでいた。

侯爵邸の広々とした庭園で、エレノアは子供を抱き上げ、ラインハルトと共にその成長を見守る。あの日の、家門を救うための「策略」は、彼らを結びつけ、そして、冷酷だった公爵の心に真実の愛をもたらした。

エレノアの策略は、己の家を救うだけでなく、一人の孤高の魂を救い、そして彼自身の幸福をも紡ぎ出したのだ。夕日が二人の影を長く伸ばし、その温かい光が、二人の幸せな未来を祝福しているようだった。


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