元侯爵令嬢と招かざる客
シネイドの食堂を利用するのは近所の馴染み客が多い。だが、最近は遠方からも看板娘の評判を聞きつけて、可愛らしい店員に接客してほしいと望み訪ねる客も少なからずいた。
そして、ごく稀に無作法な客が来ることもある。ただ、今回の客は度が超えていた。
「おいおい…。オレは嬢ちゃんにお酌してほしいって言ってんだよっ!ばばぁは引っ込んでろっ!」
「ぁあ?誰がばばぁだって?ここはそういう酒場じゃないんだよっ‼︎大衆食堂だって言ってんだろ!」
アフリックを背中に庇いながら、シネイドは啖呵を切る。相手は一見客だった。
シネイドの食堂では提供する飲み物に酒はない。食卓へ予め水差しとグラスが用意されており、それを自由に飲んでもらう仕組みだ。
果汁などの有料の飲み物はあるが、その場合でも酌はしない。グラスに飲み物を注いだ状態で各テーブルへと運んでいた。
「可愛い女の子が目の前に居りゃ、酌の一杯ぐらいしてもらいたいって思うのが男のサガってもんよ!客が願ってんだ!サービスだろ?」
この横暴な客はアフリックへ酌を強要しているだけでなく、あろうことか、配膳していたアフリックのお尻を触ろうとしたのだ。男を警戒していたシネイドは厨房から駆けつけ二人の間へ割り込んだ。
「いいかげんにしろよ!お前みたいな客!願い下げだ!出てけっ!」
シネイドは出口を指差した。頭に血が上った男はシネイドの胸ぐらを両手で掴み突き倒す。
巻きこまれて一緒に転ばないようにシネイドは軽くアフリックの肩を押した。バランスを崩したアフリックはその拍子に誰も座っていなかったカウンター席の椅子へ寄りかかる。
「キャーーーーッ!」
驚いた女性客が悲鳴をあげ、その場が混乱した。倒れた拍子にシネイドは唇を噛んでしまったようで血が滲んでいた。アフリックの顔色が青ざめる。
「てめぇっ!やろってのか?」
客相手に本気で喧嘩を吹っ掛けたくはない。客を怪我させたとあっては店の評判が落ちてしまう。シネイドは握った拳を納める。
「女将さん、私…。お酌します…」
「ダメだ!ダメだ!ああ言う輩はつけあがる!後で何を要求されるか…」
嫌らしい目つきでアフリックを舐めるように眺める男へ小さな影が立ち塞がった。
「あっ、アフリックちゃんは僕が守る!」
母親と一緒にランチを食べに来ていた少年だ。母親が一瞬目を離した隙にアフリックの前へ飛び出していた。
「オレもっ!」
足を震わせながら青年が続いて叫んだ。子供を危険に晒すわけにはいけないと勇気を振り絞ったようだ。
「じじぃも加勢するぞっ!」
杖で身体を支えた覚束ない足取りの老人が更に寄り添う。
「あっあたいも!」
厨房から勝手にフライパンを持ち出した常連の女性客が颯爽と参戦した。彼女はシネイドが厨房から離れたのを心配して火の元を確認していた。
その様子に男は更にいきり立った。
「なんだとっ!」
シネイドは客たちの安全を考慮して男の前へ進む。無駄に恰幅の良い男だ。男の気がすむまでシネイドは黙って殴られる覚悟だった。
老爺は杖を構え、青年は震えが止まらない。
アフリックは傍らにいた子供の肩を掴んで両腕へ包んだ。女性客はその上からフライパンでアフリックたちの頭を庇う。
「「キャッ!」」
猛り狂う客はシネイドへ殴りかかる。シネイドは客の拳を防ごうと平手を前へ突きだした。
「あっ危ない!」
思わず、アフリックは顔を手で覆った。そこへ眩しい光が指の隙間から差しこむ。アフリックは目を瞑ってしまう。
「おいこらっ!お前、好き放題しやがって!」
アフリックの耳に馴染みのある声が届く。
「オスカリ?」
瞳を恐る恐るを開けると黒髪がアフリックの前でサラサラと揺れる。オスカリは目眩しの魔法で男を撃退したようだ。彼は目が見えないと何度も呟きを繰り返し床を這いつくばっていた。
「ひっ!」
ようやく男が瞼を開くと、眼前には喉元へ剣先を突きつける茶髪の平凡な顔立ちをした青年が立っている。
「アフリックが可愛いのは致し方ないが…。命が惜しくないようだ…」
「…。殿下…でございますか?」
オスカリが作成した認識阻害の魔道具で容姿を変えながら、リーアムは政務の合間にシネイドの食堂へ何度も通っていた。
リーアムを諌めに行ったつもりが散々喚かれ泣きつかれ、勝手にアフリックへ会いに行かれるよりは自分の監視下に置く方が余程安心だとオスカリは結論に至った。
アフリックを泣かせたことは許せないが、オスカリはリーアムとも付き合いが長く情に絆されてしまった。
「分かるのかい?」
「えぇ…。話し方で…。今日まで気づきませんでしたけど…。そのお姿で何度もいらっしゃってましたよね…」
黒のシュナウザー犬を連れて足繁く来ていた青年はいつもテラス席で食事をしていた。アフリックは犬が気になり覚えていたのだ。給仕の仕事をしていたため、我慢していたが、撫でて可愛がりたいとずっと思っていた。
因みにペットの犬は魔法で姿を変えていたオスカリである。アフリックが犬好きなので、オスカリは意気揚々とペット役を引き受けた。
「ごめんね…。君が嫌がると思って…。容姿を誤魔化せるようにオスカリにお願いしたんだ…。黙って見守るつもりが今日は見過ごせなくて…」
執務を済ませたリーアムが犬を連れて食堂へ到着したとき、扉を開けば乱暴な客がシネイドへ殴りかかろうしていた。
衝動的にオスカリは変化を解き魔法を放ち、リーアムは剣を抜いて矢面に立った。
「殿下…」
リーアムはアフリックが幸せになるのを見届けたかった。
リーアムでない他者の人間とアフリックが結ばれても構わない。必要とあらば、手助けだってしたい。
ただの自己満足なのは理解している。
けれども…。アフリックが幸福な日々を送ってくれさえすれば…。リーアムは救われるような気がしていた。
「ここに来ているのは、王太子でなくてただの客だから…」
「ぐえっ!」
目の前いた男から突然呻き声が聞こえた。
男を羽交締めにしている大きな背中…。もじゃもじゃ頭に顔半分髭で占めた特徴的外見を持つ男が、乱暴を働いていた客の首を絞めつつ、外へ連れ出していた。
「アイツ…。出禁の意味わかってんのか?」
「お兄様…なのですか?」
「気づかなかったのか?下手な変装で毎日食堂の片隅で飯を食べてたじゃん?」
シネイドは知っていたようだ。
シネイドの言うエイノの下手な変装はアフリックには有効だったようで、人見知りの客だとアフリックはずっと思っていた。エイノはいつも下を向いて視線を合わせることなく、メニュー表を指差し注文をしていた。
「お兄様…」
外には勇ましい男たちが店を囲んでいる。騒ぎに驚いた女性客が治安部隊を呼んできたのだ。
暴れていた男は隊員に捕まっていた。何故か、傍らでエイノも確保されている。エイノの実力なら振り払うこともできたであろうが、外交問題にならぬように彼なりの配慮なのだろう…。
「顔は良いんだけど、不器用なんだよな…。兄ちゃん…。あの格好じゃあ、不審者に間違えられても仕方ないよな…」
シネイドはエイノを助けだそうと治安部隊へ説明しに出て行く。スカートの裾が引っ張られ、アフリックが視線を移した。