妖花、咲く9
ミバルは、まとめ終えた報告書を上司に提出して、石のような溜息を吐き出した。
終わったなぁ。
そう思っている。
自分の先祖達が追い求めてきた長年の研究が、たった今提出した報告書で終わった。
達成感などという気分は湧いてこなかった。先祖代々、心血を注いできたものが終わることは、まるで虚無感に半身を食いちぎられてしまったかのような心地だ。
自分に研究を託して死んだ祖父は、幸運だったなとミバルは思う。
ミバルと同じく、研究だけが生きがいだった祖父は、もし研究を完成させていたら、この喪失感に耐えきれなかったかもしれない。
ミバル自身、耐えきれているとは言いづらかった。報告書の提出先の上司が、酒を片手ににまにま笑っていても、まるで気にならないのだからどうかしている。
「お疲れさん、ミバル。ま、ちょっと座んなよ」
「はぁ、失礼します」
研究中であれば、やることがあるから、と断る誘いだが、今はそれももうない。
いや、実質は、三年前からなくなっていたのだ。
メアリ・ウェールズが、先代の女王を打倒したあの日、ミバルの、結社の研究は完成したのだ。その後の三年間は、先代女王がために廃棄されていた旧研究所の資料の発掘、これまでの研究資料の再整理と総まとめ、経過観察に過ぎなかった。
「終わっちゃったねえ、ミバル」
ひらひらと、カミラは報告書を振って笑う。
上乗せされた実感に、ミバルは返事をする気力さえ失せる。
「あはは、しおれてやんの。どうせ旧研究所の整理をしている他の連中もそんな感じでしょ?」
その通りだった。
これまで結社の研究班にいた者達のうち、ミバルのように後片付けをしている者以外は、別なことに取りかかっている。
新しい研究だったり、研究成果を利用したり、様々ではあるがやることを見つけられた連中だ。
ミバルの父もそうだ。
父アルバは、どちらかと言うと研究が嫌いで金儲けが好きだったらしく、研究成果の商業転用に熱中している。
一方、この研究だけが生きがい、という人生を全力でぶん投げているミバルの同類達は、寄り集まって今日まで研究の残滓にすがって来た。
「これからさ、君達なにやって息してくの?」
そう問いかけるカミラに、ミバルは驚いた。
自分達のことを良く知っている、と。
そうだ。自分達は、あの研究をしていたから息をする程度の価値があると信じられたのだ。
人間として欠陥があるなんて、指摘されなくても自覚している。
「……なにも、ない」
ぼそりと呟いた自分の応えに、ミバルの中で感情堤防が決壊した。
「な、なにも、なにもないんですぅ――っ!」
大号泣である。大の男が――といって、研究一筋の男の体は細いのだが――顔を押さえておいおいと泣き出す。
それを見て、カミラは、噴き出した。
「あははははははははは!?」
号泣と大笑が、部屋の中で炸裂した。
「笑わなくても良いじゃないかぁ! 研究しかっ、研究しかやって来なかったんだからぁ!」
「あははははっ、だってマジ泣きってあんた! 正直! 正直者だよミバル!」
カミラは、笑いながらよしよしとミバルの頭を撫でてやる。
優しくされて、ミバルの感情はさらに制御不能になる。
「ふぐううぅ……!」
「泣くな泣くな、面白すぎるからそんなに泣くな!」
元々整えられていたとは言いづらいミバルの頭を、さらにぐしゃぐしゃにしながら、カミラは笑い過ぎて涙を浮かんだ目を拭う。
「そりゃ、何したら良いかわかんないよな。わかるぞ、ミバル」
「ほんとですかぁ?」
「ほんと、ほんと」
そう言って、カミラは手に持ったヒョウタンを振ってみせる。
そういえば、とミバルは思い出す。目の前の研究者が酒を手放さなくなったのは、メアリ・ウェールズが女王になった頃からじゃなかったか、と。
「そりゃね、あたし達の研究ってろくなもんじゃないじゃん?」
ミバルは満腔の賛同をこめて、鼻水をすすりながら頷く。
人体実験のために、組織だった人さらいを必要とするような研究だ。結社育ちで倫理観の乏しいミバルにだって、問題があることはわかっている。
だから、不安なのだ。
「そうだよな。研究が終わったら、研究者なんて用済みだ。いや、本当にそう思われるわけじゃないけど、そう思われるかもってだけで、不安になるよな」
なんたって、結社の後ろ盾がなければどんな目に遭わされるか。
例えば、この別荘にいる侍女や薔薇騎士達、自分達が実験体として集めた者達は、不要になった自分達を生かしておくか。
「あたしだったら、ここぞとばかりに恨みを晴らすね」
カミラは、酔いの回った眼でミバルを見つめる。
その眼差しに、ミバルの涙が引っ込む。
結社で最高最悪の頭脳、カミラ。
彼女はそう呼ばれている。
メアリ・ウェールズを完成させた、最高の頭脳。
しかし、彼女は奴隷として連れて来られた実験体であり、代々結社の頭脳を自負してきた者達からは忌み嫌われている。
それゆえ、最悪の頭脳。
ミバルは、自分が結社の古い構成員の家系であることを思い出した。
カミラとは敵対する派閥の所属と言って良い。研究内容以外に興味がなかったので、ミバル自身は気にしたことがなかったが、父アルバなどは露骨に衝突したことがある。
研究が終わったら研究者なんて用済み――ミバルの背筋を冷たいものが伝う。
「そう緊張するなよ。復讐しようなんて考えちゃいないさ」
敵意の欠片もないゆるい笑顔に、ミバルはほっとする。
だが、カミラの続く言葉は、決して安心できるものではなかった。
「でも、その不安は消えないぞ。あたしが保証する」
酒の揺れる音を鳴らして、カミラが笑う。
そうか、とミバルは零した。
薄々、そうだろうなと思っていた。そうでなければ良いな、と願っていただけで。
「不安を薄める方法を、教えてやろうか」
「あるんですか、そんなものが」
そんな方法があるなら、悪魔に魂を売っても良いとさえ思える。
そして、カミラという美女は、どちらかというと悪魔なのだった。
「美味いものを作る研究をするんだよ」
「……んん?」
「だから、研究だよ、研究。美味いものの研究!」
うん、とミバルは頷く。研究、研究か。分野は色々あるものの、それなら得意だ。カミラほどではないかもしれないが、自分は結構得意だぞ。
でも、あれ?
ええと、今、何の話をしてたっけ?
「ほら、飲んでみろ、ミバル。酒が飲めないわけじゃないだろ?」
「え、ええ、好きだと思ったことはないですけど」
押しつけられたヒョウタンに、ミバルは首を傾げながら口をつける。
あ、そういえば間接キスだな、なんて思っている間に、口内に鮮烈な香りが満ちる。
「!?」
ミバルが驚いている間に、香りが変化していく。
辛いと思った口内が、酒を転がすうちに甘味を感じ、呑みこんだ後に湧いた吐息はもう一口欲しくなるほど芳しい。
「これは、美味しいですね」
「だろう? 屋敷の庭で育てたブドウで作った蒸留酒だ」
蒸留酒。それはわかる。飲んですぐにわかった。
だが、とても信じられない。
「蒸留酒を飲んだことはありますが、これはまるで別物です」
「そりゃそうさ。ブドウからして適した品種の選別から、育てる土壌、生育中の管理、収穫時期まで厳選した。醸造に使う酵母、蒸留器の改良、蒸留後に保管する樽の材質と加工法――」
この酒を造るために、結社最高の頭脳と称された研究者が、どれほど手間暇をかけたのか、ミバルは聞くうちに相槌を打つようになる。
「そこまで」
「ここまでだ。これでもまだ、もっと良いモノを作れる気がしてならない」
「ほほう、興味深い」
まったく分野外のことであるが、空っぽになっていたミバルの探究心にカミラの好奇心が染みる。
さらに、カミラは机につまみとして燻製肉を出す。
これもただの燻製肉ではない。
長く保存が効くことではなく、味が良くなるように作った逸品だ。割と非力なミバルの顎の力でも、心地良い程度で噛み千切れる。
そして、噛めば噛むほど広がる風味は、ただ塩辛いだけではない。燻製に使った木の香りが、塩気と肉の旨味の奥からほのかに香る。
そこに蒸留酒である。濃い燻製肉の味を押し流し――いや、絡み合って喉の奥へと落ちていく。先程よりも口の中に残る香りが芳しい。
これは組み合わせの力だな。
ミバルは深く頷く。
「べらぼうに美味しいですね」
「いけるねぇ。どんどんやりなよ」
カミラは、もう一本ヒョウタンを取り出しながら勧める。
「これ、なんでヒョウタンかと思いましたけど、風味にかすかにこのヒョウタンの香りがあるんですね」
「お、そこに気づくとは良い舌してんじゃん」
「そ、そうですかね? あんまり美味しいから、舌に集中するからかも」
ぐいぐい酒を飲んで、がじがじ燻製肉を食う。
ミバルは、何度目かの酒を口に含んで、そういえば、と呟いた。
「美味しいものを楽しむなんて、久しぶりです」
「それはお前、もったいない。これからその分も美味いもの食べて帳尻合わせないと、すごくもったいないぞ」
カミラの言葉に、ミバルは真面目な顔で頷いてから、苦笑する。
「さっきまで、今後について割と絶望してたんですけどね。ちょっと美味しいものを口にしたらこれとか。何と言うか、所詮は生き物ですね、私も」
「そりゃそうだよ。ミバルもあたしも所詮は生き物だ。美味しいものを食べれば、あっという間にご機嫌になる。そして、他の人間も同じ。ここの侍女も、騎士も、メアリもな」
「……なるほど」
ミバルが、この会話の意図を察したところで、カミラはいよいよ、本命の誘いをかける。
「どうせやることがないなら、あたしと一緒に美味いものの研究しようぜ。美味いものを生み出し続ける限り、あたし達には価値がある」
確かに、妙手のように思えた。
飲食物の研究なら、直接的に被害を受ける誰かというのは存在しないだろう。むしろ、生産量の向上や食べられる物の種類を増やせば、人助けになる。
身の安全のためか、罪悪感からかはわからないが、それはとても魅力的に感じる。
さらに、ミバル達の研究は、植物に関するものだった。
どちらかというと毒物の知識の方が多いが、食べられるものについての知識もある。これらは農業に通じる知識だ。
色々と勝手は違うだろうが、ゼロからのスタートと言うわけでもない。
何より、先程覚えた美味しいという感動は、やる気を出すには生物学的に大変効果があった。
「他の、旧研究所でしおれてる連中にも、声かけて良いですかね」
「当ったり前じゃん。あたしのこれまでの研究成果の一部を提供するから、皆でディスカッションしてきなよ。んで、絶対連れて来い!」
だって、とカミラは人手不足を嘆いた。
「美味いものには、上限がなければ際限もないんだよ! 美味の研究者は何万人いたって人手不足だ!」
カミラが提示した無尽の研究テーマ。決して辿りつけない到達地点の提示。
「それは……」
ミバルは、途方に暮れた思いで呻く。
自分は、死ぬまで研究目標を達成できないのだ。
「最高じゃないですか」
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ミバルは、ディスカッション用の資料として与えられた木箱一杯の酒とつまみを持ちあげる。
その拍子に、脳の隅っこに追いやられていた、どうでも良いことを思い出した。
「カミラさん。そういえば、父のアルバから連絡が来てたんですよ」
「そうなん? なんか気になることでも?」
「正直興味もなかったことなんで、俺は気にもしてなかったんですけど」
ミバルは、それが組織人として問題があることを自覚している顔で、首をすくめる。
「研究に使っていた戦闘向けの花とか、寄生花の強化用の薬液とか、在庫がないかって確認でしたね。あるならこっそり送れみたいな内容でした」
これってつまり、そういうことだと思うんですよね。
ミバルは、そう苦笑する。
「ああ、お前の親父は面倒なこと考えてそうだなぁ」
「ええ、面倒だったんで、手紙をすぐに焼いちゃって、知らん顔してようと思ったんですよ、俺。でもまあ、面白い話をもらったんで」
木箱を軽く掲げて、ミバルは肉親よりもカミラの利益を優先する理由を示す。
「そうか。そういう面倒事は、研究の邪魔だな」
「邪魔ですね」
「しょうがない。あたしは上司だから、その面倒事を預かってやるよ」
「ありがとうございます」
一番気になること――変な手間を取られたくない――を、すぐに汲み取って片付けてくれたカミラに、ミバルは子供のように声を弾ませる。
一方、カミラは年上の姉、あるいは母のように、仕方ないな、と苦笑する。
「良いってことよ。あたしも面倒だから上に放り投げるだけだしな」
「良いですねぇ。あ、ちなみに、旧研究所の他の連中にも同じような連絡来てたと思います」
「よし、全部まとめてメアリにぶん投げようぜ」
「はい!」
この日、ミバルは三つのことを知った。
一つは、カミラが実に話のしやすい上司であること。
一つは、メアリが面倒事を預かってくれる長であること。
そして、飲食物の研究は実に楽しそうだということ。
こうして、彼の人生は大きく変わり、その裏で父親の運命も大きく変わったのであった。