病鳥の止まり木32
「あの子、遊ぶと楽しいから西部に連れて行くわ」
踊りまくった体に、ワインを流し込んでメアリお嬢様は決めた。
「ダメです」
同じくワインをあおって、セスは却下した。
「ダメならどうして今日あの子を招待したのよ」
空になったワイングラスを、すいっと脇に掲げると、白い侍女が寄って来て即座に注ぐ。
ワイングラス一杯までなみなみと注ぐ技術はすごいが、多過ぎである。
「スヴェーリエ子爵家では、兄や姉にお金をかけてしまって、あの子にろくな結婚相手も用意できないのですよ。このままでは、お金だけは余っているところの愛人や後妻ですよ。私が見たところ、兄弟の中で一番頭が良いのは彼女なのに」
「それはもったいないわね。わたしが貰ってあげるわ」
「ダメです」
セスの眼光の先で、グラスぎりぎりまで注がれたワインをメアリが口に運ぶ。優雅に、何の問題もないという平気な顔を保っている。
無事にワインに口をつけて、音も立てずに減らしたことに、セスは小さく拍手をしてあげた。
デジデリアを巡る敵ではあるが、今の一連の動きは見事だった。
多分、メアリも困ったと思うのだ。注がれてすぐには動けなかったのだから。
「ダメと言うなら、あなたが彼女を貰ってあげるの?」
「……しばらくは私がメアリ様の政治面を担当するのですから、私の下について貰っても良いと思うのです」
「そんなに心配しなくても、取って食べたりしないわよ?」
「でも、玩具にして遊ぶのでしょう?」
「そうよ?」
それがどうかしたのか。
心底不思議そうなメアリお嬢様の顔を見て、セスは溜息を吐いた。
「デリアは繊細なので、メアリ様のお気に入りに対する遊びに耐えられるとは……」
「わたしが気に入ったのが悪い、みたいな言い方をされるのは心外ね。わたし、物持ちは良い方よ?」
「でもメアリ様、私のことはお気に入りですよね」
「そうよ?」
「私と同じ扱いをデリアにされたら堪りません。壊れます」
解せぬ、とメアリ様はお気に入りの男装令嬢に唇を尖らせた。
デジデリアの身柄については、後日(本人の意向など関係なく)話し合いで決めるとして、今のうちに会って話をつけなければならない人物は多くいるのだ。
一つ休憩を挟んで、次の社交に向かう。
最初の時間で、西部の領地への植え替えに積極的な人材とは話がついた。
次は、デジデリアのような消極的だが有能な人材だ。
もっとも、メアリはデジデリアの能力がどんなものかは知らない。
確かめるための場だったのに、デジデリアはまともにメアリと話せずじまいで、評価するならマイナスの方だ。
ただし、メアリにとって可愛いというのは重要だった。
領地を任せられないなら別にジャンヌのように侍女にすれば良いのだ。
身の回りの侍女が、まともに教育を受けていない平民ばかりのメアリお嬢様にしてみれば、貴族家出身の侍女がいるだけでプラスだ。
なんとでもなる。
さて、次はどんな人物かと会場を見回したメアリは、隅の方で壁の花となっている夫人を見つけた。
その陰に、社交デビューもまだだろう子供を守るようにしている。
「セス、次はあちらの彼女にしましょう」
「デリアの次に彼女ですか? 随分と落差がありますね」
ワイングラスの中身を一気に飲み干し――飲み干そうとして、量の多さに断念した。
二口、三口、一息入れて、メアリはちょっとばかりワインを恨めしそうに見つめてから、四口目でようやくグラスを空にして、立ち上がる。
「同じ味ばかりでは舌が鈍るでしょう。甘味の後の口直しよ。……けふっ」
「飲み切らなくても、給仕に預ければ良いのに……」
「あなた知らないの? 食べ物を残すともったいないモンスターというのが出て来るのよ」
「え? あ、はぁ……?」
庶民の間で、子供が食べ物を残さないように使われる、怪談話のようなものだ。
セスもまあ、下級の使用人から聞いたことはある。
「もちろん、余った料理は使用人や平民に配るけれど、わたしは自分の皿に取り分けられて、自分が手をつけた物は残さないと決めているの」
「そ、そうですか……。ご立派? ですね?」
メアリ様、まさか本気でもったいないモンスターを信じているわけではないですよね?
セスは、喉までせり上がって来た文句を飲みこんだ。万が一、メアリが本気で信じていた場合、どう答えれば良いのかわからなかったからだ。
セスの戸惑いを無視して、メアリは颯爽と目的の人物に向けて歩き出す。
今宵のメアリとセスは主役だ。動けば会場中の視線も動く。
メアリが向かう先の婦人も、会場の動きに気づいたらしい。近づいて来るメアリに体を向けて、居住まいを直した。
この婦人に対して、メアリはセスからの紹介を必要としなかった。
すでに知り合いだからだ。
「お久しぶりですね。今はなんとお呼びしましょう?」
「今は、ヨハンナ・アマーリエ、とお呼び下さい。メアリ・ウェールズ様」
一応、まだ目上の気遣いが必要かどうか、微妙な言葉遣いで声をかけたメアリに、婦人は静々と頭を下げて、服従の意思を示した。
年の頃は二十代後半、美貌と言って差し支えない女性であるが、いささか表情が暗い。
化粧の下には、疲労の色がありそうだ。
「そう。わかったわ、ヨハンナ殿。では、そちらの子も?」
メアリの目が、ヨハンナの後ろから、前に出て来ようとする少女を見る。
ヨハンナは、その子供を出て来ないように押さえていた手を下げた。
「はい。こちらはわたくしの娘、テレジア・アマーリエでございます。まだお披露目前でございますので、テレジアからのご挨拶はご容赦下さいませ」
「無論、それで構わないわ。年を知っていて招待したのはわたしだもの」
デビュッタント前の子供は、社交場に普通は出て来ない。礼儀作法の教育が終わっていないということだから、当然である。
それでも、何らかの事情で参加した時は、基本的に挨拶もしないし、何かあっても見て見ぬふりをするのが作法になる。
メアリも、テレジアの顔を確かめて、軽く頷いて見せるだけで挨拶はしない。
ただ、テレジアの勝気な眼差し――自分の母親を守ろうと前に出ようとする態度を見て、口の端をほんの少しだけつり上げた。
「今日の招待に応じた礼をするわ。何か、わたしに言いたいことはあって?」
ヨハンナに視線を戻して尋ねると、ありがたそうに一礼を返された。
今のヨハンナとテレジアにとって、この宴席は居心地が良いものではない。それでも、招待に応じたのは、彼女達なりの目的があってのこと。
メアリは、それを口に出しやすいよう促したのだ。
それでも、ヨハンナはいくらか言いづらそうにして、テレジアが母親の手を握りながら声を上げた。
「西部の様子を教えて下さいませんかっ」
ヨハンナが小声で叱るが、少女は眉間にぎゅっと力を込めて見返す。
「お母様は、これだけは聞かねばなりませんと、この場に来たのではありませんかっ」
娘の言葉に、母親は苦い顔をした。
そうではあるが、その問いがどれほど危険かを想像している顔である。
メアリは、その鮮やかな紅色の唇を、笑みの形に歪めながら開いた。
「西部の状況ならば、ひどいものよ。ただ、わたしが乗り込んだところは、メアリ・ウェールズの名にかけて落ち着かせているわ。少なくとも、混乱がそれ以上悪化しないよう、鎮静させたわ」
例えば、とメアリは少しもったいぶってから、具体例を挙げた。
「リッチモンド領はそうよ。元通りとは行かないけれど、農村を最低限は立て直したから、餓死者は大きくは増えない。旧リッチモンド伯爵家の家臣も、わたしに忠誠を誓った者達は良く働いているわ。騎士のゲルトという人物は特に働き者ね」
いくらか、リッチモンド伯爵家の旧臣の名前を挙げて話をしてから、メアリははたと気づいた表情を浮かべた。
「あら、ごめんなさい。その子はお披露目前だったわね。それなのにまともに答えてしまったわ。何せわたしも社交場に出るのは慣れていないから、失敗したわ。今のは忘れて頂戴」
ひらひらと手を振るメアリに、ヨハンナは再度、頭を下げた。
「仰せのままに、メアリ様」
母親にならって、テレジアも黙って頭を下げる。
余計なことを一切言わない親子に、メアリはがっかりした、という風に嘆息を漏らす。
ヨハンナに落胆したわけではない。礼儀を弁え、苦境であろうに恨み言どころか助力すら請わない態度には、感心している。
ヨハンナが立場を弁えて振る舞える分だけ、残念なのだ。
「あなたを叔母と呼べないことが、残念だわ」
「もったいないお言葉、ありがとうございます。どうか、リッチモンド領を、よろしくお願いいたします」
今度は、母親に続いてテレジアも、よろしくお願いしますと、小さく声にした。
ヨハンナは教育もしっかりしているようだ。ますます、叔母と呼べないことが残念である。
「可愛らしい娘さんね。薔薇はお好きかしら」
黒髪を飾る薔薇飾りに手をやって、メアリは一本の薔薇を取った。
「これを差し上げる。わたしの手の者なら、これを見ればわたしの客だとすぐにわかるわ。ただし、何度も使える物とは思わないことね」
「重ね重ねのご厚情、感謝いたします」
腰を落として薔薇を受け取ったヨハンナに続き、テレジアも黙って頭を下げる。
「わたしの物になった以上、リッチモンド領は無下には扱わないと約束するわ。もし、わたしに任せておけないと思ったその時は、メアリ・ウェールズは資格のある者からの挑戦をいつでも受けて立つ、そう覚えておきなさい」
メアリの本音では、ヨハンナは西部に連れて行きたい人材だ。
彼女なら――ダドリー・リッチモンドの妻として、内政をこなしていた彼女なら、西部での領政を任せられる。リッチモンド領ならなおさらだろう。
しかし、それが難しいこともわかる。
彼女が旧姓のアマーリエを名乗り、娘にも名乗らせていることから、よくわかる。
家臣団から謀反を起こされ、領地から叩き出されるようなリッチモンド家である。末期の内情がどれほど混沌としていたかは、旧リッチモンド家臣からいくらか聞き出せた。
いくらか、になっているのは、家臣でもよくわからない部分があったからで、つまりそれくらい混沌としている。
少なくとも、ダドリーの元妻は、その娘を連れて、アマーリエと旧姓を名乗った。
リッチモンド伯爵家として、現在メアリの掌中にあるリッチモンド領になんら権限を要求するつもりがない、ということだ。
メアリにとっては敵が増えなかった。有益な態度だ。
別に、かねてよりヨハンナがウェールズ家に友好的だったわけではない。
リッチモンド伯爵家に嫁いできた彼女は、ウェールズ家よりリッチモンド家を優位に立たせるべく送り込まれた人材だった。
クリストファー公爵家一門で、ダドリー・リッチモンドを西部統括官に推していた派閥の手先にあたる。
しかし、リッチモンド家がヨハンナを手に入れた時には、ウェールズ家は、怪人エドワードが秘密結社を完全に掌握するための手駒を得ていた。
リッチモンド家の長女とエドワードとの間に生まれた、娘……つまり、メアリである。
皮肉なこと、というよりも、怪人エドワードの計算通りだったろう。
リッチモンド家の長女との結婚の条件に、王都屋敷を提供することで中央社交界との繋がりを相手に与えておいて、その王都屋敷の力を発揮できるようになる前に、盤石の体制を西部に敷いた。
ウェールズ家が、完全に結社をまとめていなければ、リッチモンド家はまだ打つ手はあったかもしれない。
その可能性を確かめる術は、ヨハンナには残されていなかった。
この状況を悟って、ヨハンナはウェールズ家への手出しを当面は控える方針を打ち出していたらしい。
しかし、当主ダドリーが率いるリッチモンド家はそれと真逆、強硬な対立路線に終始した。
ヨハンナがアマーリエの姓を名乗ること、ダドリーとの間に生まれた娘にもそれを名乗らせていること。ついこの前まで伯爵家夫人だった彼女の、苦しい立場が伺える。
夫である当主ダドリーは、少女と言える年頃のメアリに完敗。
リッチモンド家は領地から追い出され、娘を連れて実家に逃げ込んだ。
社交場に出たら、良くて腫れ物扱い、大抵は笑い者にされるだけだろう。
それでも、ヨハンナは今日、この会場に出て来た。自分が治めていた領地の状況を知るために。
それが、リッチモンド伯爵夫人だったヨハンナのすべきことだったから。
流石は、クリストファー公爵家の派閥に名を連ねる家の出身、立派だと思われる態度を苦境でも貫き通す。
これができる胆力があれば、彼女とその娘には再起の芽がある。
少なくとも、領地から叩き出されてフィッツロイのところに泣きついた連中よりは有望だ。今すぐは無理でも、いずれ自分の配下におけるように手を打っておいて損はない。
ヨハンナとテレジアを招待した自分自身に、メアリはご満悦で頷く。
有能な人材はいくらでも欲しい。西部の人手不足は、メアリお嬢様も必死になるほど深刻なのだ。
ただ、人手不足といっても、誰でも彼でも良いわけではない。余計な仕事を増やすような人材は当然お断りだ。
そういう輩は、公爵家が弾いているはずだが、あえて呼んだ者もいる。
あちらこちらに声をかけ、声をかけられ、主な挨拶は終わった。
話がまとまったからと帰るせっかちもいれば、これはダメだと帰る者も出て来る。料理と酒が美味いからと残る逞しい者もいる。
厄介者はこの時間帯に呼んである。




