病鳥の止まり木27
セスの祈りは無事に通じた。
どこかの神様が聞き入れたのかもしれないので、今夜夢枕に神秘的存在が現れれば、セスはその神の信者になると決めた。
ただし、神等教は無理だ。
政治的な状況が悪すぎる。多分、セスが神等教の信者になろうものなら、即座にメアリから強くお話があるだろう。
空の上か地の下か海の底か、どこか人知の及ばぬ遠さにおわす神より、近くのメアリの方が恐ろしいに決まっている。
神は夢枕に立つくらいしか出来ないが、お嬢様は馬に乗って突っ込んで来るのだ。
セスが神より恐れる人物は、きちんとめかしこんで公爵家の本邸を歩いている。
少しだけ前を行くメアリが髪を払うと、湯上りの肌からほのかな薔薇の香りがセスまで届く。
初めて出会った時から、メアリ・ウェールズは目を奪われるような美しい存在であったが、それは見慣れ始めた時も、しばしの別れの後に再会した今も変わらない。
乗馬用の騎士服から一転して、今は黒いドレス姿である。
細身のシルエットは、少女らしい華奢なラインを露わにしつつ、真っ直ぐな立ち姿は決して侮って良い小娘ではないと主張している。
手出しすれば危ういのに誘われる、一種の妖しさがある。
ドレスにフリルなどが控え目で、コルセットで締め付けていないのは、動きやすさを重視しているためだ。
これは貴族の女当主達がよくする装いで、家の奥向きのことを回す立場ではなく、外に向かって軽快に動く立場であることを示している。
見る者が見れば、公爵家の当主を相手に、辺境伯家の当主として向き合うのだとすぐにわかる。
しかも、ドレスの色合いも挑戦的だ。喪服を思わせる黒である。
貴族にとっては、葬儀も一つのパフォーマンスになる。一月もせずに喪に服するのを止めて動き出す者もいれば、数年以上も喪に服していると言い張る者もいる。
どちらも、喪中であることにメリット・デメリットがあり、そう振る舞う。
爵位持ちが亡くなった場合、正式な爵位継承はその喪が明けてから、ということになる。喪中期間は、継承に伴う引継ぎのための準備期間と言える。
それを踏まえて、メアリの喪中を連想させる黒装束だ。
ウェールズ家当主は引き継いだが、爵位継承はまだ、西部統括官の継承もまだ、こっちにその気はあるのにいつまで喪中でいればいいのか?
そういうメッセージを感じさせる。
本当に強気な少女である。セスの呆れの溜息には、少なからず好意的な成分があった。
色んな意味で、目を奪われる相手だった。
容姿や造作がそうである、というよりも、その在り方が自分にそうさせるのだろうと、近頃のセスは気づき始めた。
年齢も性別も関係なく、ただ自分の好みで動く。その傲慢なまでの我の強さ。
これ見よがしに大輪を咲かせる花を前にしたような感動を強要させられる。
その美しさを眺めながら、それを摘み取ってしまえばどうなるかという妖しい誘惑を感じずにはいられない。
まあ、その誘惑に負けた人間がどうなるか、自分自身で試すつもりはない。セスは、誘惑を飲みこむ。
本当にただの花ならば、装い一つにこれほどの意味を持たせることなどありえないのだ。
後日、このことを仲良くなったアンナに話したところ、花の形、色、咲く時期や時間、その全てに意味があってそこにあるのだと、やんわりと説教をされてしまった。
ある細長い花は、その長さにぴったりの口吻を持つ虫のみに蜜を許すよう進化した結果なのだと事細かな説明に、セスは真顔で口をつぐむ羽目になった。
道端の見慣れた花でさえ、ただ漫然と咲いているわけではない。セスは学んだ。
花と同等に複雑な意味合いを絡めたドレスをまとい、メアリ・ウェールズはドアを開いた。
公爵家応接室のドア、それが開くのを、王国宰相にしてノア・クリストファーは待ち構えていた。
メアリ・ウェールズが甘い蜜を許す要素を、ノア・クリストファーが持っているかどうかは、ここで決まる。
「公爵閣下のお招きに応じ、参上しました。わたしが、メアリ・ウェールズでございます」
常識的なメアリの挨拶に、ホッとした人間が何人かいた。
爵位を考慮した上での、ごく普通の、招待された側の貴族的な挨拶である。
「遠路遥々のお越し、公爵家当主として、感謝と共に歓迎申し上げる、――メアリ・ウェールズ殿」
ノアの歓迎の挨拶に、メアリの目が細められた。
なるほど、そう来るのね。そう言わんばかりに口元に笑みを浮かべる。
それは敵対的なものではなく、満足気なものだ。
メアリ嬢でもなく、ウェールズ家令嬢でもなく、メアリ殿でもない。メアリ・ウェールズ殿と呼んだ。
少なくとも、ウェールズ家当主としては認めており、未熟な小娘と侮ってはいないということだ。
爵位継承こそまだであるゆえ、辺境伯閣下と呼びこそしないが、気を遣った呼び方をしたのである。
「どうぞおかけになられたい。敬うべき相手を立たせたままでは公爵家の名折れ、また遠方より招いた方を立たせていてはこのノアの名折れ、おくつろぎを願えるか」
「流石は紳士として知られるお方ですね。では、閣下と紳士のお言葉に甘えて、失礼します」
メアリも、ノアも、互いに柔和な笑みをたたえた顔でソファに身を沈ませる。
ひとまず、互いが今すぐの敵ではないことを確認した、怪物同士の笑みだった。
「まずは、招いた側として、公爵家の方からお話してもよろしいか?」
「ええ、承りましょう」
ソファに深く腰掛け、ゆったりと構えてメアリが応じる。
身分差は言葉上だけで流しつつ、実際的には対等――貴族家当主同士である。そういう態度だ。
ノアも、それを当然として頷く。
「王国西部のこの度の混乱への対処、クリストファー公爵として厚く御礼を申し上げる。メアリ・ウェールズ殿のご活躍なくば、王国がどれほどの損害を被ったことか。手当てが遅れたことを含めて、感謝している」
謝罪、お詫びとは言わない。
それを言えば、メアリはこれ幸いと「誠意」の供出を求めるからだ。
そっちが悪かったんでしょ? 言葉だけで済むと思って?
そう突っ込まれる余地を避けたのだ。
「お言葉、確かにお受けいたしました。わたしとしては、亡き父エドワードが担うはずだった務めを果たしただけではありますが、閣下がそのようにお考えであること、理解しましたわ」
許す、許さないとは口にしない。
それを言えば、ノアはこれ幸いと「誠意」を出し惜しむためだ。
すでに許されたものに、重ねて何らかの礼を積むのも失礼だろう。まるで物乞いをさせているようではないか。
そう引っ込められることを避けたのだ。
この辺りの揚げ足取り以外の何物でもないやり取りは、ある程度の権力者の習性である。
あまりに直截的な意思表示をすると角が立つゆえ、それとない言葉が重要になる。
その点で、メアリはノアについて行った。
西部での行状を聞けば、そういった駆け引きが出来ないかもしれないと思われた少女が、その気になればかように上品な殴り合いも出来るのだ。
それも踏まえて、ノアは「誠意」を示した。
「ついては、ご都合がよければ、公爵家のパーティにご参加を願えないだろうか。その席で、この度のメアリ・ウェールズ殿のご活躍を紹介したい」
「あら、興味深いですわ。名高いクリストファー公爵家のパーティですもの、お付き合いしがいのある方がたくさんおられるのでしょうね」
メアリは即座に食いついた。いささかはしたないくらいの素早さだったが、無理もない。
今最も西部に、メアリの手元に不足しているものとは、領地経営が出来る人材である。
セスにけしかけられて、とりあえず制圧しただけの領地は多数あり、そこを管理する人材は、今まさに不足している。
ノアは、公爵家の名前でその候補となる人材を集めて、メアリに声をかける機会を作ると言っている。メアリにとっては、まさにそれこそが欲しかった宝玉である。
もちろん、ノアにとっても悪い話ではない。
王都でくすぶっている継承順位の低い貴族家の人間は、貴族家の数を倍した分だけいる。
彼等は一定の教育を受けているため、放っておくにはもったないし、下手をすると火種になる。何世代にも渡って子供全員に十分な立場を用意できるほど、王国貴族の身代は大きくはない。
実家で嫡子の下働きをするしかないところに、領地を得る機会が与えられたとなれば、当人も、その家も、感謝せずにはいられないだろう。
クリストファー公爵家は、メアリ・ウェールズへ借りを返すと共に、中央貴族としての立場も強化できるという算段だ。
強かである。大貴族でありながら、易々と損をするつもりはない、ということだ。
実に好ましい歯応え。メアリは鼻歌でも歌い出したい気分で応じる。
「同じ王国とはいえ、中央と西部では多少の文化の違いもありましょう。貴族家としての家風もまた同じ。西部貴族として、またウェールズ家の人間として、社交の場でその違いを理解し合えればと思います」
西部には西部の土壌があるように、中央には中央の天秤がある。
カインを生かしておくやり口、ノア・クリストファー公爵の立場を踏まえたやり方について、まあ言いたいことは色々あったが、「誠意」に免じて文句は吞み込もう。
そう伝えつつ、喜ばせてくれた相手に、メアリも気前良く振る舞う。
「パーティの招待客はもちろんお任せいたしますが、場合によってはいささか早口で対処することもあるでしょう。歓迎していない、などと誤解されませんよう。現在の西部は少々立て込んでおりまして、早口が癖になっているのです。そこも含めて招待して結構ですよ」
西部は現在、貴族家が丸ごと潰されるような事態が多発している。
そこの領主候補に赴任した人間が、いつの間にか消えていたって不思議ではないだろう。
つまるところ、邪魔者を始末したかったら、そういうのも候補として押し込んで来ても良いぞ。こっちで手早く片付けてやる。
そういうメッセージだった。
「ふむ。心得た。後日、私の招待客については事前に知らせておこう」
「ええ、楽しみにしています」
カチリと、歯車が合うようにお互いの視線が合う。
一番の問題が解決を見たと、眼差しだけで了承を得て、少しばかりノアの空気が変わった。
「少し話は変わるが、この度は娘が世話になった。父親としてお礼を申し上げたい」
「あら、わたしの方こそ、素敵なご令嬢とお会いする機会を頂戴し、お礼を申し上げたいくらいです」
「それは光栄だ。あなたから見て、娘はどのように映るのか伺いたい」
「とても愛らしい人ですね」
即答するメアリの眼差しと言葉に撫でられて、セスは背筋が震えた。
捕食性植物の誘い香を連想させる、妖しく危うい甘さ。
「初めて会った時は、固い蕾か、青い果実のような、そんな魅力を感じました。咲かせてみたい、熟した実を見たい。あるいは、その花を摘みたい、実を齧りたい。そう誘ってくるような、とても蠱惑的な在り様で」
妙に艶めかしい表現をされて、セスは色んな意味で落ち着かない。
メアリから褒められていることも微妙だし、褒め言葉の中にいくらかの嘲りが含まれていることも首が落ち着かない。
そして、父の前でそんな評価をされるのがたまらない。
「我が娘ながら、セスには才能がある。それを押し隠す謙虚さも。わかる者にはそれがたまらなく魅力的に見えるだろうな」
「ひょっとして、それをご存じでわたしの元にご令嬢を寄越したのではありませんか?」
それは、セスが聞いてみたかった問いだった。
自分は、ただの偶然でメアリと邂逅したのか、それとも何らかの策謀であったのか。
娘が思わず目を向けた先、ノア・クリストファーはひっそりと笑った。
「メアリ・ウェールズ殿のお父君は、有名な方だった」
曖昧な返事だったが、メアリはそれを肯定と取った。
「お話に聞いて想像した通り、中々に娘想いのお父君ですね」
娘に甘い、と言われなかったことに、ノアはホッとしたように頷いた。
穿った見方をすれば、ノアは自分の継承者への教育の締めくくりを、ウェールズ家に丸投げしたとも言える。
王国西部のバランスを取るため、自分の子を結社の実験に捧げるほど苛烈な教育方針を取った家、その教育の精髄たるメアリならば、甘ったれた娘を強引に開花させてくれるのではないか。
そう見られて仕方ないことを、ノアは自覚していた。結果として、見事に娘がその才を咲かせているのだから。
「あまり言われたことがなかったが、あなたのお父君ほど、自分の教育に自信がなかったのだろうな。娘に重荷を背負わせておいて、教育上手とも、教育熱心とも言えなかった」
「その娘からすると、社交界でも人望を維持した閣下の方が、我が父よりも上手だと思いましたよ」
「ふうむ。娘と同じ年頃の女性からそのように評価されるというのは、殊更に嬉しいものだ。若返りそうだ。後で妻に見て貰おう」
「流石は閣下、紳士でいらっしゃる」
親子ほどに年の差があっても、淑女の褒め言葉に鷹揚に喜ぶ様は、立派な伊達男である。
男性との接触が少ない人生だったメアリは、男性たるものこれくらいでなければダメよね、そう思った。
不幸なことに、メアリ・ウェールズの男性の基準は、王国でトップクラスに厳しいものとなった瞬間である。
なお、同じことはセスにも言える。
この年で婚約者もまともに決まっていないのは、後継者の問題があって先送りされていたこともあるが、セスの好みが厳しいことも、同じくらいには影響している。
貴族家につきものの婚姻の悩みが、実は大迷走の域に入りかけているとは露知らず、メアリは会話を進める。
「時に閣下。閣下の卓見をお伺いしたいのですが、中央から見て王国はどんな状況ですか?」
中央の重鎮との直接対面、この得難い機会に、メアリは情報をまとめて得ようと切り出す。
「ふむ、面白い質問だ。私もメアリ・ウェールズ殿のご意見を伺いたい」
ノアにしても、西部の覇者となりつつある相手、また西部の覇者にしようと自分が目論む相手が、どのような展望を持っているかを確認する機会は逃せない。
「あくまで中央から見た意見に過ぎない。無論、西部の人間から見れば」
「ええ、異論はあるでしょうね。しかしそれは」
「そう、中央の人間から見た紛れもない事実が含まれている」
メアリもノアも、互いの表情は社交辞令以上に柔らかい。
知的水準、あるいは思考水準が近い人間との会話に楽しみを見出しているのだ。
セスは、父親の珍しい種類の笑みを見て、やっぱりそうか、と思った。やっぱり、メアリ・ウェールズは、自分よりもノア・クリストファーに近いのだ。
血を通わせた子供として、少しだけセスの唇が尖る。
少し前までは、そんなことはしなかっただろうということに、セスはしばらく気づかない。
尖った唇の先、父親はしばし考えてから口を開いた。
「そうだな。まず、全体的なバランスで言うと、ややぐらついた形と言わざるを得ない」
飛び出して来た言葉は、普段よりもいくらか事務的な、応接室より私的な談話室に通された響きがあった。
「元々、東部で戦争を仕掛けられていたところに、今回の西部での飢饉だ。最も裕福な中央が、不安定な部分のある東西の支援を行うという仕組みの王国にとって、いささか不運なタイミングであった」
「閣下にとっても、西部は予想以上の被害を受けた、と言ったところかしら」
「うむ。西部だけを取ってみても、予想外のものが重なったのだな。飢饉の規模、リッチモンド家の暴走、神等教の……あれは暗躍なのか、それとも傲慢なのか」
「そこですね。西部からすれば、飢饉の規模は想定されたもの。リッチモンド家の暴走は、まあ思った以上にお粗末だったけれど、計画内には収まる。予想を越えさせたのは神等教ね」
その点については、ウェールズ家から宮廷に報告書が送られている。
王国宰相たる人物が見落としているはずない。
「その宗教は中央でも聞く。戦争相手である隣国から流れて来たのだ、当然注視の対象でもある。が、中央ではそう問題になっていないために、西部でこれほどの事態に関わるとは思わなんだ」
「わたしも、いくらか中央での連中の振る舞いを聞いたけれど」
メアリは、アンナを一瞬だけ見てから、ノアに頷く。
「閣下の印象……西部でのことが起こる以前の印象はどうだったかしら」
「無論、警戒すべき対象ではあったが、そこまで優先度は高くなかった。隣国の姫君の添え物、その程度のものだ」
王国宰相が、隣国の姫君と言うならば、それは第二王妃のことだろう。
先の戦争の和平の証として輿入れして来た、重要なパイプ役――と言えるかどうかは、現在も東部で戦争中である事実を考えれば知れる。
そもそも隣国の姫、というものの存在が軽いのだ。
隣国――正式には、シュタウフェン諸王連合国という。その実態は、小さな王族の集合――王国からすると、領地貴族達の寄り合い所帯のようなものである。隣国の姫と言ったところで、その中の有力者の娘の一人に過ぎない。それも、連合国を統一王国にまとめあげることのできない程度の有力者である。
だから、戦で押され始めて日和った有力者が、娘を差し出して停戦を結んでも、別な有力者が力を持て余せばすぐにまた戦争が起きる。
王国人がこの国を指して、ヒュドラと呼ぶのも納得である。
一つの頭を潰しても別の頭が噛みついて来る。そして、別の頭を相手にしている間に、潰した頭も再生する。王国東部が赤子の如く落ち着かず、王家がその泣き声をあやすために出ずっぱりになるのも納得の厄介さである。
王国とて、内実は一丸となっているわけではない。
だからといって、和平の証である姫が建前以外の何物でもないというほど、統率を欠いているわけではない。
「輿入れの流れで、宗教も持ち込まれたの?」
「うむ。隣国の政治形態を見れば、さして不自然な教義でもない。あそこは元々、諸部族がそれぞれ小競り合いをしていた土地だ。連合国と自称するようになっても、今もって他部族をかつての怨恨相手として強く認識している」
「その怨恨を、神の名の下に解消しよう、と?」
「発端まではわからない。しかし、隣国であの宗教を信じる者が増えていく理由には、関係しただろう。神の名の下に平等なのだから、過去に由来する違いに目をつぶろう、争うのは止めよう、苦難に助け合おう。穏健派がそのように利用したことは自然ではないかな」
なるほど、とメアリは頷いた。それは理解できる話だ。
少なくとも、ある日突然、神の啓示に打たれたと言われるよりは。
「それで、穏健派に分類される姫が、それをこの国にも持ち込んだというわけね。神の名の下の平等は、国をまたいでも同じだ、と言ったのかしら」
「おおよそ、そんなところだ。侍女や贔屓の商会にもその一派がいたので、そこが拠点となって活動が始まったのだな。中央で見ている分には大人しいものであった」
ノアの分析に、メアリは軽く顎をしゃくって続きを促す。
「東部でも、大人しいものと把握している。東部ではむしろ、連合国の好戦派に対してこそ敵対的で、我が国の東部諸侯に協力的でさえあると言うが……」
「それが、本拠地から離れた西部においては、やたらと王国の足を引っ張るような動きになっている、というのは、妙な話ね」
「全く驚きだ。それゆえ、情勢判断をこれほど誤ったのだろうな。神等教が最大の不確定要素となった」
王国宰相ともあろうものが、とはメアリも口にしない。
彼女とて、神等教があそこまでスカートに絡んで邪魔になるとは思わなかったのだ。もっとも、討伐して回っていた時のメアリはスカートなどはいていなかったが。
「一応、西部の神等教――そのうちのまともな者達からすると、西部での布教に来た者は、程度が低いそうよ。まともな神官は王国中央までで大部分が枯渇し、その先の西部に乗り出した者達は神等教の看板を掲げただけの詐欺師も多い、と」
「宗教の拡大の規模に人材が追いつかなかったというわけだな。逆らえない時勢の結果か。一応、筋は通るように聞こえる」
その筋に納得していないことを、ノアは口調のわずかなニュアンスで表明した。
つまり、これは王国に対する攻撃だと判断しているのだ。
「メアリ・ウェールズ殿。私はこれでも王国宰相として、父祖から継いだ役目を誇りとしている。立場によってもたらされる役得に対して欲が全くないとは言わないが、血族の手が支えて来たこの王国を愛しているのだ」
それは、ノア・クリストファーの絶大な強さであり、同時に限界でもあった。
あくまで王国に損害が少ない立ち回りをするがゆえに、後れを取る危険がある。
「この国を愛しているわけではないけれど」
一方で、メアリにはその制限が存在しなかった。
「我が父エドワードは、わたしをこの国の貴族として育て上げた。その教育の中で、庇護下にある存在を踏みにじられて黙っているような振る舞いは惰弱と教わっている。そしてわたしは、惰弱と侮られることを好まない」
それが、メアリ・ウェールズの強さであり、危険でもあった。
支配者として強く、好みを第一原理として動く。王国として有益であると同時に有害な劇薬だ。
治療に適量を用いたい。しかし、その血の一滴でさえどれほど人を殺せるか。
ノアが今の王国を守ろうとすれば、この傲慢な劇薬を制御してのけなければならないのだ。
その思惑は、もちろんメアリもわかっている。自分がいかほど扱いづらいのか。強い支配者としてあれ、と造り上げられた自分自身が何よりわかっている。
メアリ・ウェールズは、使われる存在ではなく、使う存在として生まれたのだ。
使おうとする存在が現れれば、蹴り倒して絡め取り、滋養にしてしまいたくなる。
「しばらくご厄介になるわ、閣下。世話役は選ばせて頂いても? せっかく仲良くなったご令嬢だもの、もう少しお話がしたいの」
その支配者の衝動を抑えるには生贄がいる。
自然界の多くのものは、栄養が十分に満ちているならば、必要以上の捕食をしないものだ。
メアリは、しばらく腹を満たすために、公爵家のご令嬢を所望する。折角、自分好みに咲いた花なのだ。手元に置いて眺めたい。
同時に、ノアにとっても悪くない話だ。
メアリの動向を、お気に入りにされた娘を使って把握し、あるいは制御できる。
公爵家の次期当主とほぼほぼ決めている替えの利かない存在を、この妖しさの塊に預けるというのは大問題ではあるが、ノアは顔色にその問題を一切出さなかった。
「それは喜ばしい。娘と話の合う同世代の人間は中々少ないと思っていたところだ。メアリ殿なら、立場的にも大いに結構。こちらこそよろしくお願いしたい」
「ありがとう、そう言って頂けると嬉しいわ、ノア殿?」
とうとう、互いの名前を最低限の敬称で呼び始めた二人に、セスは天井を仰いで嘆息を漏らして見せた。
途中から、メアリがじりじりと言葉遣いを変えていたが、それをノアが認めたのだ。
怪物と怪物が、がっちりと手を組んだのだとセスは理解した。自分はその怪物同士に挟まれた哀れな生贄役である。
「男装を止めてスカートをはいた方がいいかな」
生贄といえば、やっぱりフリフリヒラヒラのお姫様が似合うだろう。
控えめながら、自分を犠牲にするのはやめてくれ、という訴えだったが、隣で一緒に控えていたアンナが静かに笑う。
「パンツの方が似合うと着替えさせられるに決まっていますわ」
果たして、大幹部の発言が正しいかどうかは、セスの方を見たメアリの、綻ぶような笑みが物語っている。




