病鳥の止まり木24
その晩、骨折りのお礼、として公爵家の食事に誘われたアンナは、昼間の会議の経緯を前菜の皿と共に説明された。
メアリ同様に事務的で簡潔なセスの説明は、いくらか社交辞令的な言葉を添えられていても、食前酒の喉通りを良くしてくれる。
アンナは、華やかな酒気に喉をくすぐられ、艶めかしい吐息を漏らした。
流石は公爵家、そう頷きたくなる上等なお酒を楽しんで、アンナは微笑む。
「流石はクリストファー公爵家、お優しいですわね」
滑らかな世辞の奥、あのカインがどうしてまだ社会的に生きているのか、不思議そうな響きがあった。
それだけの証拠、公爵家の面子にすら傷つけて脅迫できるだけの質と量を集めた彼女は、公爵家の決定を不思議がるだけの権利がある。
「その点の説明をできるように、お礼の晩餐をと父が言い出したのだと思いますよ」
「良い殿方は、口説き文句以外にも隙がないものですわねえ」
前菜の皿のチーズは、果物の皮に包まれている。
果物の酸味と甘味が、後にやって来るチーズの塩気を引き立てる。そのチーズの塩気は、ブドウの蒸留酒が受け止めてくれる。
アンナの脳裏に、指を咥えたカミラの姿が浮かぶほどの美味しさだ。
「では、客分としては、ご馳走の分だけ口説かれて差し上げませんとね、セス様?」
「妻帯者の父に代わって、お受けいたします」
和やかに、晩餐は前菜からスープへと入った。
「理由はいくつもあります。そもそも、ノア・クリストファーの評判があるので、肉親をいきなり、というのは中々難しいところがあります」
まずはそれが来るだろう、とアンナも微笑んで頷く。
「他には、中央では急激に物事を進めないやり方が主流ですから、あまり性急にことを進めると、周囲も騒ぎます。公爵の影響力は大きいので、なるべく緩やかに、影響が出ないように進める必要があるのです」
「身代が大きいと、公爵家といえども大変ですわね」
理解のある姉のように頷くアンナに、セスも微笑み返す。
その裏側で、「でもそれって公爵家の都合でしょう?」と不満を呈されていることを了解する反応だった。
カインなどよりも、よほど公爵家らしいやり取りを求められ、セスは少しだけ楽しかった。
「別な角度から見ると、急に勢力図が変わると、今後の予測がしづらいということにもなります。新興勢力の一つや二つならば対応しますが、あまりに増えると公爵家でも少々目の届かぬところが出ます」
「あぁ、新しい顔が増えるとお名前や経歴を覚えるのが大変ですわよね」
「それに、どこに人が集まるかわかっていた方が、色々と楽ができてよろしいでしょう?」
「まあ、お上手」
アンナは見る者を恋に落とすような笑みを浮かべて喜んだ。
折しも、テーブルの上はスープ。残り少なくなったそれを、皿際に集めてスプーンに乗せる行為と台詞が一致している。
心憎いユーモアである。
メアリに反抗する者を集めるに丁度良い皿際として、カインが社会的に存在を許されている、というならば、賛成してあげても良いくらいには面白い。
つまり、公爵家にとってメリットもあるし、メアリにとってもメリットがある。
デメリットは、カインが再起する可能性があることくらいか。そうなったら叩き潰せば良いだけなので、デメリットとも言えない。
アンナとて、そんなことは話す前からわかっていたことだ。
少しでも良い条件を引き出すためにもったいぶっただけのこと、そこにユーモアを含めて返されたので文句も出て来ない。
スープの皿が下げられ、メインが運ばれて来るのを横目に、会った当初は蕾に過ぎなかった少女にアンナが微笑む。
「綺麗になりましたわね」
女性として、手練手管に優れた熟練者からの褒め言葉に、セスは素直に赤面した。
「控え目に咲いても摘まれる恐れがあるなら、いっそ華やかに咲いてしまえと思いまして」
「あなたほどの美しさであれば、その方が安全ですわ。高嶺の花を掴む度胸のある殿方は少なく、かつ高嶺の花を掴めるだけの能力を持った殿方はさらに少ない。高みにて存分に咲き誇りなさいな」
「ご忠告ありがたく。臆病なもので、もう少し高みで根付きたいと思います」
この程度の賞賛で赤面するようではまだまだだ。
それは、アンナも同意見なのだろう、目元が悪戯っぽい。
「つきましては、不肖の娘の指導料として、父より個人的なお礼であると秘蔵のワインを出すように言われています」
メインの皿と同時に、アンナの新しいグラスにワインが注がれる。
やけに古い瓶で、ラベルも何もない。ガラスに出生を明かすシンボルが浮いているようだが、それもすり減ってよく読めない。
「こちらはどういったワインですの?」
「旧帝国時代の一本」
高級品を貢がれる経験も多いアンナではあったが、流石にその一言には声を上げて驚きそうになった。
旧帝国と名の付くものは、全てが高級品だ。ワインも、宝飾も、魔術も。
旧帝国時代から続く秘密結社の研究成果、メアリ・ウェールズを見れば全て理解してもらえるだろう。
本当だとすれば、伝説級の一本だ。
アンナは自分が飲むよりもメアリに持って帰りたい。
「という噂の一本です。確かめられる者がいませんので、真偽は怪しいところですね。実際のところは、それを真似ることができた後代の代物ではないかと」
「そう、そうですの。それでも、十分な高級品ですけれど……」
値段がつかない類の品だ。
いかに人気の高級娼婦でも、こればかりは飲む機会がない。王侯貴族の中でも、力の強い者でなければ手に入れる機会さえないだろう。
そんな代物も、すでに開栓されてしまっている。もうこれは飲むしかないのだ。
アンナは小さく頷いて覚悟を決めた。
グラスにワインを注ぐ給仕は、明らかなベテランであったが、そんな人物でも緊張していることが伝わって来る。
公爵家にとっても、それほどの一本なのだ。
ノア・クリストファーが、今ようやく咲いたセス・クリストファーの姿をどれほど喜んでいるのか、雄弁に物語っている。
アンナはふと、娼婦時代の贈り物を思い出す。
色々な物を美貌に捧げられた。宝石もドレスも、本やグラス、詩や絵画だったこともある。埋もれるほどの量の中でも、印象的な物はやはり覚えているものだ。
あれも赤ワインだった。
忘れもしない。あれは、高級娼婦に娘の機嫌の取り方を教えてくれと乞うてきたお客だった。
娘の結婚を前にして、娘との時間を取りたいと思ったが上手くいかないと悩んでいた苦労人だった。
話を聞いてみれば、娘の好きな食べ物も、好きな花も、好きな趣味も知らないという。
これは難しいとアンナが眉をひそめると、小さな領地を貰ったばかりの新興貴族ゆえ、家を形にするだけで、家族と過ごす時間がなかったと言う。
難題だ。
人気のお菓子を買って、それを娘さんと一緒に食べながら、彼女の話をじっと聞いてあげなさい。
説教はするな。
娘のあれこれに一言も文句を言うな。
絶対に説教するな。
アンナに出来た精一杯の助言だった。
後日、その客は娘の生まれ年のものだというワインを贈って来た。娘の結婚を一緒に祝って欲しいと。
アンナは、あのお客のおかげで、貴族とは真面目にやればどこまでも仕事が湧いて来るものなのだと知った。
娼婦であっても、貴族であっても、苦労する者は苦労するのだ。
グラスに揺蕩う赤い液体には、あれほど純粋な父親の気持ちは混じっていないのだろうとは思う。
しかし、公爵家として次代にかけた期待と不安は、飽和するほどに入っているだろう。
あれも親で、これも親か。
それぞれの立場と環境がある。メアリ・ウェールズの父親のような者もいれば、アンナの父親のような者もいる。
想いに笑みを浮かべつつ、グラスをあおる。
希少価値を舌で転がして味わう。
美味しいかどうかは、まあ、古い酒にありがちな保存の問題もある。公爵家が手に入れてからは万全だろうが、その前がどうだったかの保証は、開けるまでわからない。
「まあ、わたくしの仕事はこんなところですわね。後はメインを楽しむ時間ですわ」
主菜の皿の上には、ローストされた肉の薄切りが、薔薇の花を模して飾られている。
この演出を求めたセスは、肉の薔薇を切り分け、おっかなびっくり口にする。
「メインも楽しめるよう、努力しますよ」
二人の間で、メインが何を指しているか、明白だった。
露払いが済んだ王都に、彼女がやって来る。
西部の覇者となりつつある、メアリ・ウェールズが。




