病鳥の止まり木23
クリストファー公爵家による、王国西部情勢に関する第二回臨時会議は、臨時という割には余裕をもった日程で開催された。
臨時なのだから、セスが西部から戻ってすぐに開催されてもおかしくなかっただろう。
あるいは、セスがメアリに肩入れし始めた段階で、反メアリ派によって帰還命令が出されることだってありえた。
そういった想定にも関わらず、実際の臨時会議の開催は、西部で見聞きした情報を十分にまとめる時間を取るため、とセスに気遣った期間が取られていた。
誰あろうノア・クリストファー公爵の采配である。
この機微を察せないようでは、中央の重鎮の手元で生き残ることは難しい。
中立寄りの勢力がどのような態度を取ったのかは、セスの報告を静聴する姿勢から伺える。
「このように、西部の情勢は惨憺たる有様です。数字で想像しづらければ、こう言いましょう。現在の西部では、生きるために子が親を、親が子を手にかけることさえ、珍しいとは言えません」
その状況でも怯むことなく、辣腕を振るって対処し続けるメアリ・ウェールズ様の姿勢は、まさに西部を統べるに相応しいものだと、セスは褒め称える。
「僭越ながら、クリストファー公爵家の人間として、被害を少しでも減らすべく微力を尽くさせて頂きました。何しろ、こんな状況にさらされた王国民を、不正を働くような不実な貴族家に任せておけないと考えましたので」
結果、西部統括官の代理に最も相応しいメアリが、代わりにその地の面倒を見ることになったが、すぐに状況は改善傾向を見せていることを説明して、まとめに入る。
「メアリ・ウェールズ様は、今回の冷害が起きる前から、事態への対処を諸侯に通知していました。諸侯がそれに従わずに状況を悪化させた現在では、その後片づけのためにウェールズ家の力を振るっているのです」
もうお分かりでしょう。セスが、最も上座の人物に訴える。
「これ以上、西部統括官に相応しい人物が存在するのであれば、その名前と実績をお聞きしたいものです」
西部統括官に名乗りを上げたダドリーが脱落した今、比較対象はフィッツロイしかいない。彼がどんな実績を上げたのか、まるで聞こえて来ないと嘲笑う台詞だ。
視界の隅で、フィッツロイを支持して来たカインが肩を怒らせていることを、セスは無視した。視線の正面に据えた公爵本人と比べれば、取るに足らない相手に過ぎない。
公爵、ノア・クリストファーの眼光と言ったら、凄まじいものだ。
セスは、会議用の生真面目な表情の下、背筋から込みあげる震えを堪える。
別段、鋭いわけでもない。カインのように睨んでなどいない。物静かに、料理の説明を聞くように耳を傾けているだけだ。
王国西部諸侯と王国民の今後を左右する話題に対して、また我が子二人の骨肉の争いを前にして、まるで毎日の習慣に過ぎないかのごとき落ち着きよう。
しかし、決して茫漠としているわけでもなく、説明と違う料理が出て来たら即座に首を切られそうだ。
その落差が、恐ろしい。油断を誘う穏やかな草原が、凶悪な捕食者の狩場であるような罠。
前までは、これほど恐ろしさを感じなかったはずだ。
父が隠していたものを、自分が見抜けるようになったのか。それとも、後継者を見極めようとする父が、隠しきれないほどの力を入れて来たのか。
固い唾を飲みそうになることさえ、はばかられる。
その生理的な仕草すら、減点対象になるのではないか。なるだろう。セスは確信した。
ノアに緊張を気取られれば、それは未熟の証と採点されるはずだ。
セスはこらえる。
手鏡で顔色を確認する仕草すら取れない。これまでの人生で造り上げて来た紳士の仮面を信じて、父の眼光に応じる。
「以上が、私からの報告になります。何かご質問等があれば、お答えしましょう」
受けて立つ。
父であり、公爵であり、王国宰相、そして自分が最も恐怖した怪物に告げる。
怪物は、内奥を見通させない深い闇のような仮面から、一体何を取り出すのか。
臨戦態勢の娘は、他者から見れば、父そっくりの落ち着き払った姿で、席上の何人かは思わず目を見張った。
いずれも、ノア・クリストファーに仕えて長い者達であり、主人にならって紳士の仮面の分厚い者達だ。そんな彼等をして、表情を動かさずにはいられなかった。
これは決まりか。クリストファー公爵家の長年の懸案が片付いたと、どこかほっとした空気が流れた。
しかし、それは気づいた一部の者だけの認識。気づかなかった人物の方が、多かった。
「では、答えて貰おうか!」
気づかなかった勢力の筆頭、カインが机を叩いて立ち上がる。
「今の王都では、メアリ・ウェールズの悪名と共に、セス、お前の堕落を嘆く声も聞こえているぞ! 血染めのメアリの虐殺の向く先を告げる病鳥と言われるなど、クリストファー公爵家の名前を何だと思っているのだ!」
荒れた海のような大声だが、父から視線を外すことができたセスは、むしろ余裕を取り戻した。
「カイン殿、それは誰が言っていることなのです?」
「誰もが皆だ!」
「それが問題だと?」
「そう言っている!」
「ふむ。王都での評判が、西部の窮状を解決するための働きに、何らかの影響を与えるほど重要だと言うのですね」
当然だろうと机が叩かれ、セスは微笑んだ。
「では、カイン殿。近頃の王都でよく聞く、貴方の悪名についてはどうお考えか。存念をお聞きしましょう」
この問いかけへの答えで、セスが想定したのは三つ。
噂など知らないと白を切る。事実ではないと白を切る。関係ないと白を切る。
想定外の返事が来たらどう切り返そうかと構えるセスに、兄は想定通りで答えた。
「今は西部についての話をしているのだ。私の王都での話が何の関係があるのか」
お戯れを、と口にするセスは冷笑を浮かべていた。
「王都が関係ないのであれば、私とメアリ様が王都でどう噂されても関係ないですし、クリストファー公爵家の面々がこうして話し合いなど持たなくともよいでしょう。皆、暇ではないのですよ?」
関係のあるなしなど、ある程度の弁論術さえ心得ていれば、どのようにでもこじつけられる。
問題は、それを押し通す力があるかどうかだ。
これまで、その力はカインの方が勝っていた。長男として取り巻きの数、脅しを中心にした根回し、何より対抗勢力のセスが、自分から一歩退いていたためだ。
しかし、セスはもう退かない。
「クリストファー公爵家は、当代当主の紳士という評判で各所とやり合っていることは事実。それゆえ、カイン殿も私の評判を問題にしたのでしょう?」
紳士の中の紳士など、決して威圧的な評判ではない。だが、その名前に盾突く者は、紳士に非ずという評判を買う恐れがある。
それは、体面を重んじる者達が、二の足を踏むに十分な脅迫になる。
ノアの提案に下手な応じ方をして、社交界で爪弾きになった者は確かに存在するのだ。
それを思えば、クリストファーの名を持ちながら、悪名をかぶるのは痛い。
だからこそ、紳士であると言い換えられるよう、振る舞わねばならないのだ。
「私は、胸を張って言えます。今回、メアリ様に協力したのは、西部の民を助けるために必要なことだったと。目の前の民を苦しみから救うために必要なことであり、それを見捨てるような冷たい血はこの身には流れていません」
その内実が、保身のための恐怖であったとしても、言わなければ誰にわかるものか。
言わなくともわかるような手合いには、弁舌の巧みさでもって能力を売りこむのみ。
「その振る舞いによって悪名をかぶるのであれば、このセス・クリストファーは頭を垂れてお受けします。病鳥の名を宝冠として、自らの行いの誉れとしましょう」
罵詈雑言の類は、俯いた頭に垂らされるからこそ惨めになるのだ。
メアリ・ウェールズを見てみるが良い。他者からなんと言われても、傲岸不遜に立つ彼女にとって、血染めのあだ名はその彩りの一つに過ぎないではないか。
悪名だろうと、自分らしい装いに仕立ててしまう彼女の在り方に、魅力を感じずにはいられなかった。
そう感じたからこそ、セスは真似る。
メアリ・ウェールズの振る舞いは、セス・クリストファーよりもなお、ノア・クリストファーに近かった。表層ではなく、その深奥が。
「それで、カイン殿はいかがか」
自分は悪名を正々堂々と受けた。この受け方であれば、流石はノア・クリストファーの子であると評される方法で。
事実、自分の行いを逃げも隠れもせずに受けて立つ少女の姿は、出席者の感心を買った。
感心してしまえば、西部情勢の報告と合わせて、それは立派な行いだったのだという気になって来る。
少なくとも、今のセスであれば、そう盛り立てて虚飾の衣を重ねても、見事に着こなすだろう。
一方で、カインである。
無論、出席者達もカインの悪評は聞いている。カイン派閥の者達は、その後始末に駆け回っているため、身に染みている。
彼の一派が何と言われているかといえば、ゴロツキ、無粋者、迷惑客などなど、悪名というのも恥ずかしい、小さなものだ。
一番大仰なもので、公爵家のならず者である。
西部の地で暴れ回った末の悪評と、歓楽街で威張り散らしただけの悪評と思えば、妥当な落差ではあるが、同じテーブルに乗せられれば可哀そうなほどの小物ぶりである。
「それについては、全く根も葉もない噂に過ぎない。我が公爵家の名を騙る悪党どもの仕業を、真に受けた者がいるのだろう」
堂々とカインは言い放った。
王都に流れ出した噂について、セスが持ち出すことはカインも予想していた。だからこそ、即座に切り捨てられる者を切り捨て、無関係だと突っぱねられるように身辺を整えてこの場に臨んだ。
「なるほど。では、カイン殿の手の者が、歓楽街で料金を踏み倒す、店で暴れ回る、ゴロツキを使って平民を脅す、犯罪者の後ろ盾になっている、というのは事実無根であると」
丁寧に上げられた悪行に、カインは不快そうに腕を組む。
「もちろんだ。お前は自分の兄をなんだと思っているのだ。このカイン・クリストファーは、公爵家の長男である。そのようなことをするわけがあるまい」
つまり、自分は公爵家の偉い人間なのだから下手に探るな、ということだ。
よくもまあ恥ずかしげもなく、などということを、セスは口にしない。
ただ、視線にたっぷりと冷笑を乗せる。
「それは困りましたね。事実がないのであれば、カイン殿の噂は、すぐに消せるものではなさそうです。何せ、火元もわからぬ噂ということですから」
相手に防御方法があるように、攻撃方法もいくらでもある。
火のないところに煙が立ったと言い張るなら、消し方のわからぬ煙が風で流されるまで黙っていて貰うだけだ。
「そんなもの、公爵家への侮辱だと言えばすぐに黙らせられるだろう」
そうなってはまずいと、カインも防御を続ける。
「それは悪手でしょう。事実のない噂は、強く否定すればするほど、真実らしく見えるもの。火がないところで火消しに大騒ぎしているなど、周囲から見ればおかしなものです」
「お前は、このような噂を放置しておけというのか。事実は全くない噂だが、それを放置していてはクリストファー家を疑う者も出て来るぞ」
「むしろ逆でしょう。ここで大袈裟に騒げば、世間ではこう言い出す者も現れますよ。〝公爵家ともあろうものが、噂如きにあんなに必死になるなんて、これはもしや〟と」
「西部への対処が重要な今、たかが噂といえど疎かにできないとわからないのか!」
「西部への対処が重要な今、このような噂が立つ己の不徳さをどうお考えですか?」
徐々に、議論という形式が脱ぎ捨てられていく。上等な礼服がなければ、ただの言語的な殴り合いである。
正しさや真理の追求などという高尚な目的などなく、互いの喉笛を食いちぎるための争いだ。
唯一高められ、深められる結論は、お互いが敵であり、両者ともに一歩も譲る気はないということのみ。
「妹の分際で、クリストファー公爵家の名誉をなんだと思っている!」
日頃、敵対者がすぐに退くために議論の経験の薄いカインが、不利を覆そうと声を張り上げ、テーブルに拳を振り下ろす。
暴力的な音色に対し、セスの応えは穏やかだった。
「カイン殿、もう年も年なのですから、いい加減、ご自分の名前で敵と戦ってはいかがです?」
卓に肘を突き、ゆるりと頤に手を添えたセスの口元には、冷ややかな笑みがある。
「身内の会議で意見を述べるにも、公爵家の旗の影から怒鳴り散らすなどみっともない。そんな小物ぶりだから、悪名ですら三流未満にしかならないのですよ。ええと、公爵家のならず者、でしたっけ?」
嘲笑する言葉に、もっともだと、複数の失笑が追従した。
悪名というのも大袈裟な、ただの悪口にさえ、公爵家という旗がなければ目を引くところがない。対して、不吉な鳥の名を戴いた少女は、彼女自身として噂されている。
この差は明らかだ。
「そのような吹けば飛ぶようなあだ名が流れていること自体、俺が関わっていない証拠ではないか! 公爵家の人間が悪事に関しているなら、そのような小事で済むと思うか!」
「まあ、私も信じられない思いはありましたが……」
半ば本気の表情で、セスは肩をすくめる。
「もうすぐ、真偽のほどはわかるでしょう。実際に私の下に、カイン殿の非道を訴える者達が大勢助けを求めて来ていますので、情報の確認の最中です」
この場合、確認というのは真実の確認というより、この情報をどう使って蹴落とすのが一番良いのかを確認している、という意味合いが強い。
意外と大変だと、セスは確認作業の苦労を述べる。
「本当にこんなことをカイン殿がしていたとすれば、公爵家も非難を免れないような情報までありますので、訴える者をなんとかなだめて調整しているところです」
「でたらめだ! これは兄である俺を蹴落とすためにそいつが仕組んだ策だ! 兄に対してなんという妹だ! 父上、騙されてはなりません!」
追い詰められたら、父に泣きついたか。
セスは苦笑するが、席上、同じような表情で失笑を上げた者は多い。
セスとカイン、どちらを支持するか、彼等は笑い声で表明したのだ。
元よりノア・クリストファーに似ていると言われ続けていたのはセスである。どれほど本人がそれを固辞しようとしても、当代当主が兄の方を後継と発表することはなかった。
今回の会議で、とうとうセス・クリストファーが、牙を剥いた。――いや、西部に赴いて得たあだ名からすれば、嘴と言うべきか。
その嘴が、期待以上の鋭さを持っていることを、列席者は見間違えようがないほどに確認できた。旗幟を鮮明にする者、仰ぐ旗を急いで変えようとする者が出るのは当然のことだった。
場の空気は、いよいよ決する。
そこで、上座の人間がようやく口を開いた。
「カイン、お前の噂については公爵家の名前で対処するべきというのが、お前の意見だったな。それであれば私が動くが、良いな?」
「もちろんです、父上!」
カインの返事は喜びに満ちていた。
解決したも同然だという信頼が、息子にはあった。
そればかりか、ノアが対処するということは、セスの下に集まった情報もひとまとめにして、父の手元に収められる。
そちらも上手くやってくれるに違いない。
やはり自分は公爵家の長男で、次期公爵である。
だからこそ、父も自分に対して手厚く援助してくれるのだ。
「次に、セス。事はついてだ、お前の方の噂も、私が対処しても良いが、どうする?」
向けられた選択に、ありがとうございます、と厚意への礼を示してから、セスはきっぱりと断った。
「その必要はないかと。先程も申しましたが、それは私が背負うべきものでありましょう。それに、西部の状況を知らせれば、病鳥の名も聞こえ方が変わるものと思います」
「どのように変わると思う?」
「そうですね。例えば、無能者や敵対者に災厄を届ける存在、のようなものでしょうか?」
それは、西部でメアリに追われた貴族の名前の数だけ、鋭さを帯びた脅しであった。
部屋の静けさが一段階深くなったようだが、そうか、と頷いたノアの声に変化はない。
「では、そちらはセスに任せるとしよう」
公爵家当主直々に噂を鎮火させようという提案を蹴ったセスに、カインは愚か者を見る目で笑った。
挑発されたセスは、より上品に、嘆かわしいと首を振る。
セスの反応の理由は、ノアからの台詞で告げられた。
「カインは、私の対処が終わるまで自室で待機していなさい」
「な、何故です!?」
「何故も何も、お前は自分の不名誉な噂を、自分の力では払いのけることもできないと言ったのだ。鎮静するまで大人しくしていることが、そんなに不自然なことか」
「ですが、それはそこの妹の卑劣な策に違いないのですよ!」
「それがどうかしたのかね」
息子の大声に、父の言葉は冷たいものを含んでいた。
紳士の仮面の奥、策にはめられた方が悪い、と囁いた怪物が、すぐに身を潜める。
「そも、お前は昔からすぐに大きな声を上げて、身振りも大きい。公爵家の人間がそのような振る舞いをすれば、周囲が委縮してしまうと、何度も注意していたはずだな」
それが一向に直らなかったことは、ここまでの議論でも明らかだ。
「だから、このような噂がもっともらしく蔓延るのだ。しばらくの間、頭を冷やして反省しなさい」
実にやんわりとした言い回しだが、明確な叱責である。
会議の席上でそれが言われたというのは、中々に大きい。
席上の誰もが思った。
恐らく、カインの自室待機――謹慎処分は、かなり長くなるだろう。
事実上、西部統括官を決める議論から外された形となり、クリストファー公爵家が誰を西部統括官に推すか、実質的に決定したと言える。
カインが負け、セスが勝った。
まあ、順当な勝利である。
気づかない者もいたようだが、セスはこう言っていたのだ。
カイン・クリストファーの醜聞を使えば、公爵家の名誉を傷つけることも可能だ。自分にはその用意と覚悟がある。
それが嫌ならば、大人しく言うことを聞け。
不吉な鳥は、敵には容赦しない。
席上の者は、テーブルの上にそっと乗せられた脅迫を確かに受け取っていた。




