病鳥の止まり木22
あちこちの店で娘達の涙を拭いながら、アンナは歓楽街を歩く。
男装の歩みは、普段のスカート姿とは違う。やはり、その服、その髪型に似合う歩き方、立ち方というのがある。
ここ数日は、中々新鮮な気持ちで過ごさしている。
男装の令嬢として有名なセスに合わせ、彼女の手の者とわかりやすいように選んだ装いだったが、これはこれで、という気持ちがアンナに芽生え始めた。
あまり着る機会がなかったけれど、これからは男装も服のレパートリーに加えても良いかもしれない。
敬愛すべき主人メアリも、セスの装いに対して高評価のようであったし、ここはファッション担当の忠臣として負けていられない。
メアリ様のことだから、あのお気に入りの侍女の分の男装も見立てるように指示するかも、などと考えていたアンナの歩みが止まる。
肩幅よりやや足を開いて、片手を腰に当てる警告の立ち姿。
内心、自分の立ち姿が美しいことに満足しつつ、アンナが見据えた先には男達。見覚えがある顔が何人かいる。
例えば、先頭でアンナを睨んでいる指に包帯を巻いた男は、確かこの歓楽街で一番初めに指を折った、自称カイン・クリストファーの従者だ。
自称、というのは、後日カインに説明を求めたところ、そんな者は従者どころか知り合いにもいない、という回答があったためである。
その他、アンナがあちこちの店で叩き出した顔が何人も見える。
全く知らない顔もあるが、まあ、他の面々のお友達か、あるいは直接顔を合わせるまでもなく失脚した連中だろう。
アンナにとって、相手がカインの下っ端であるとわかれば、細かいところは気にならない。
「良い夜ね。そちらも楽しんでいて?」
男装を楽しんでいるアンナは、素晴らしい笑顔でそう問いかけた。返って来たのが、手負いの獣じみた男達の眼光だったので、いくらか笑顔の輝度は落ちたが。
どうにも楽しくない連中ね。
娼婦という接客業をして来たアンナは、男達の程度の低さに小さく溜息を漏らした。
ここは歓楽街、空には月、色とりどりの店の照明が洒脱さを競う世界だ。
そこに来て、洒落の一つも解さないとは、野暮の極み。王都の文化も遅れている。
いや、それは流石に言い過ぎか。
実際、アンナの目から見ても、王都の歓楽街は流石と言えるきらびやかさだ。
豪華を押し出した店もあれば、上品さを押し出した店もある。王都の女達は美しいし、着ている物もこだわりが見える。
となれば、カインの下っ端どものセンスが悪いのだ。カインから切り捨てられた男達は、早速困窮したのだろう。
クリストファー公爵家の後ろ盾を失った彼等は、歓楽街でいかに嫌われていたかを思い知ったように薄汚れている。
金をよく落とす馴染みの店でもあれば、数日の宿にするくらいはできただろうに、野宿しかできなかったと見える。
上等な絹地の服は、美しいが少しでも汚れると大変醜い。着替えてしかるべき状況になった男達の服は、元が上等だっただけに悲しい有様だ。
あの生地を作った蚕農家や機織り職人、服に仕立てた職人に対し、ご愁傷様と憐れみを抑えられない。
アンナは、今度は深々と溜息を漏らした。
「こんな良い夜に、楽しい場所で挨拶するには向かない有様ね。恥をかく前に、顔を洗って出直したらいかが?」
「粋がってんじゃねえぞ!」
指をへし折られた男が吠えた。
「護衛もなしに堂々と夜道を歩きやがって、公爵家の小娘に捨て駒にされてんだろうが」
「あら、また鏡が必要かしら? ああ、でも今回はお友達がたくさんいるから、必要ないわね。お互いの顔をご覧になって?」
カインにあっさり捨てられた男達が、がん首そろえて何を言っているのか、アンナは美しい声で嘲笑する。
「その生意気な口を二度と聞けないようにたっぷりと躾けてやるぜ!」
美しさの欠片もない嗜虐心と共に、一斉に武器が抜かれる。
やれやれ、とアンナは嘆息する。
荒事は苦手なのだ。そういうのは薔薇騎士団の仕事である……まあ、ウェールズ家では、園芸団や侍女団も中々の戦闘能力を誇っているのだけれど、ともかく、それぞれの専門家に任せるのが一番だ。
アンナにとって、武器とは美しさと賢さのことである。
黒蘭商会の看板を背負う者は、なるべくなら荒事とは無縁であるべきと願っているのに。
いつだって、自分のささやかな願いは、他人によって翻弄されてしまう。
達観の微笑を浮かべながら、アンナの手は、自身のジャケットに飾られた黒い花を抜き取る。
ボタンホールにつけられていたのは、飾り花ではない。生け花、さらに言うならば、それはアンナの持つ能力による、魔性の花である。
夜の闇よりなお黒い花を持つ蘭は、宿主の支配を受けて、敵を絡めとるべく蠢く。
花は動かない。茎も動かない。棘が生えるわけでも、熱を発するわけでもない。
ただ、根だけが、ずるりずるりと伸びていき、絡み合って一本の鞭となる。
軽く腕を振るう。
花で出来た鞭は、主人に忠実な猟犬のように、その足元に身を伏せて獲物と対峙した。
「躾けが必要なのはそちらよ。いらっしゃい。誰に従うべきか教えてあげる」
餌を我慢していた獣のように動いたのは男達だ。
棍棒や剣を持った男達が突進し、それを追い越して投擲ナイフが迫る。
腐っても公爵家の長男の従者が混じっているということか、それとも、ゴロツキにはゴロツキなりに戦術があるということか。
鞭で一人二人が打ち据えられても、その間に肉薄する構えだ。相手は女、組み敷くなり、羽交い絞めすればそれで終わりだという男達の考えが透けて見える。
これまでの彼等の所業が伺える動きだ。
対するアンナは、楽団の指揮者のように腕を振るった。
およそ戦闘に際した動きとは思えない優雅さで、腕を一振り。それで目の前の暴力が止むとは思えない軽やかなものであったが、黒い花の鞭は主人の意を受けて咆えた。
風を砕き散らす破裂音が、複数。
投げナイフが四本、空中で撃ち落とされた。
ただの腕の一振りではありえない鞭の躍動だ。
想像より危険だと悟ったのだろう。
男達の顔色が変わったが、彼等がそれを正確に判断するより、アンナの腕がもう一度振るわれる方が早かった。
再度響く破裂音が、先頭にいた三人の肩、足、腹を次々と打ち据える。次の瞬間に夜を揺らした甲高い悲鳴が、男達の行動を全て停止させた。
鞭で打たれた男達が、服の汚れも地面の状態も関係ないと、倒れ伏してのたうち回る。
尋常な様子ではない。が、それも当然のこと、服が破けるどころか、皮膚が引き裂かれ、肉まで弾けている。
仲間の様子に青ざめた男達が見た先、ほっそりとした手を頤に当てた美女は艶やかに笑っている。
「あら、少し強すぎたかしら? ひょっとして、魔法で体を強化していないの?」
それならば仕方ないと、アンナは頤から手を放す。
再び、黒い鞭が女主人の足元で身を伏せた。
「少しだけ、優しくしてあげますわ」
アンナが腕を振り上げれば、鞭も空に舞い上がる。
鎌首をもたげた蛇が、獲物にかじりつくごとく、男達に振り落とされる。
言葉通り、アンナの鞭は手加減されるようになった。ただし、男達の悲痛な叫びが長引く以上の効果はない。
アンナの振るう鞭は、蛇絡蘭の変異種をベースにした魔物だ。
甘い香りで惑わせて捕食範囲内に入った小動物を、表土の下に隠れた根が絡め取り、そのまま滋養にする。これに血薔薇のような捕食行為を得意とする別種の花を掛け合わせ、得物として飼い馴らしている。
アンナが振るうことで鞭が襲いかかっているように見えるが、実のところ、アンナが襲えと意思を示すだけで勝手に攻撃をする。
なんなら、主人に危険が迫ればそれだけで反応することだってある。
戦闘の専門家ではないとはいえ、女王メアリの直系第一世代。
身を守る術と、気に入らない相手を殺戮する手札を探すより、気に入った服を探す方が苦労する。
カイン一派の恨みを進んで引き取るアンナに、セス・クリストファーが護衛をつけなかったのではない。アンナが護衛に気を配る面倒を嫌がったのだ。
なにせ、もし間違ってこの黒鞭が、セスの配下に当たってしまえば、少し困る。
「そろそろ、誰に従うべきかわかって来たかしら?」
男達の目は、すでに虚ろだ。
加え続けられた暴行によって、気力が奪われた。それもある。
しかし、黒鞭の真価は痛みではない。その蘭の根に含まれる毒である。
蛇絡蘭は、甘い香りで獲物を誘き寄せるが、その根を絡めた後はことさら強く締めあげたりはしない。
根に含まれる毒が、獲物がそこから離れようとする意志を持たせないのだ。自ら身を捧げるごとく、毒に侵された獲物は死に至るまで動かない。
結社の研究によると、その毒がもたらす多幸感から、空腹も痛みも感じられなくなり、獲物は逃れられないのだとか。
そんな毒を使って叩かれた男達は、途中から痛みと幸せの区別がなくなっていたはずだ。
涎を垂らし、薄笑みを浮かべている。そこに、理性の類が残っているようには見えない。
「もし、使える情報……例えば、他に誰がどんな悪事をしていたのかを話せるなら、ご褒美にもっと叩いてあげてもいいわよ」
アンナは、犬を見下ろすように言った。




