妖花、咲く6
ジャンヌが、正しい侍女の振る舞いについて、勉強を始めてから三日ほど経った頃、屋敷に緊張が走った。
普段、貴族家の侍女というより、農村の親戚みたいなノリの侍女隊が、背筋を伸ばして歩き、小声で会話を交わしている。
「騎士団の伝令から報告です。メアリ様がお戻りになられます」
「ご機嫌は?」
「めっちゃ不機嫌」
「うっわ……」
悪い知らせに、侍女は額に手を当てる。
「……カミラ様にお伝えして。ジャンヌさんと一緒に報告に行く手はずだから」
「ここで新兵器の投入を? 初陣には過酷じゃない?」
「ジャンヌさんの天使力に期待します」
二週間のうちに、ジャンヌは屋敷内で愛らしい新人として定着している。流石、メアリ様が名前も知らないのに気に入るほどの逸材である、というのが総意だ。
無表情で物静か、小動物みたいな少女が、不慣れな環境で右往左往している姿は保護欲をそそりまくった。
特に、侍女隊にとっては、自分達の後輩になりうる期待の第一世代である。
侍女になるにはどうすれば良いですか、と手をぎゅっと握って聞いてくる姿は、控え目に言っても天使だった。
侍女の心得くらいいくらでも教えてあげる。自分達も十分にできているとは言えないのに。
これなら、メアリ・ウェールズとてころっとやられるに違いない。
侍女は期待する。
「それに、メアリ様の機嫌はどうあれ、ジャンヌさんがどうなっているか聞かれたら会わせないといけないでしょう? 心の準備はさせておいた方が良いわ」
「むう、正論。わかりました、カミラ様に伝えてきます」
「お願い」
伝令を頼んだ侍女は、玄関ロビーへと向かう。
彼女の主、メアリお嬢様をお迎えしなければならない。
(あ~……不機嫌なお嬢様かぁ)
溜息が漏れる。
整列した他の侍女達も、皆同じ顔をしていた。
お互いに目配せして、その顔やめろや、と叱り合い、そろえた溜息を吐く。
それくらい、彼女達の主が不機嫌なのは、憂鬱なことだった。
「メアリ様、お戻りになられました!」
ドアの向こう、門衛が叫んでドアを開け放つ。
ロビーに入りこんだ陽射しの中を、鎧姿の少女が切り裂くように歩いてくる。二週間を超える遠征を終えたばかりというのに、その歩き姿にくたびれたところはない。
一斉に頭を下げた侍女達の間を、無言で足音が通り過ぎる。
(あっ、めっちゃ不機嫌だわ)
侍女は小さく震えた。彼女等の主人は、機嫌が良ければ通りがかりの侍女に一言くれる。
「ご苦労様」とか「がんばってるわね」とか、だらけている時でさえ「もうちょっと侍女らしくしない?」とか。こういう時は大体機嫌が良くて、それはもう上品な笑みを侍女に向けてくれる。
無言の時は、一番不機嫌だ。
メアリが通り過ぎた後、侍女はすすっとその背後についていく。ぽいぽいと放り投げられる、革鎧や上衣などを受け取らなければならない。
これも機嫌が悪い証拠だ。いつもなら手渡しでくれるし、特に機嫌が良い時は侍女に脱がさせてくれる。
ここの侍女は大体お世話が下手なので、脱がせるのに手間取ってメアリに笑われる。その笑顔がすごく優しいと評判で、侍女隊は大当たり扱いである。
「お風呂は?」
「用意できています」
ぶっきらぼうな問いかけに応えると、ん、とメアリが頷く。「気が利くわね」とか「ありがとう」が出て来ないので、侍女達は震えあがる。
つまり、まあ、わがままお嬢様メアリの不機嫌とは、その程度なのである。
仮にお風呂が沸いてなくても、「ええ?」と嫌そうな顔をするだけだ。その後、またむっつり黙り込むだけである。
他の貴族家で働いている侍女や召使からすれば、嘘のような本当の話だ。
ただ、侍女や召使が受けるダメージは深刻だ。
何故なら、メアリは強すぎる。あまりに強すぎる。
彼女等にしてみれば、今のメアリは巨大な竜が機嫌悪く唸っているに等しい。むしゃくしゃしたから尻尾を地面に叩きつけた――それだけで大惨事になる。
今までメアリはそんなことをしたことはない。
だが、それができるだけの力がある。
侍女達は、荒ぶる大自然を前にしたかのごとく、主人の機嫌が治りますようにと祈るばかりだ。
メアリの居室につき、そこから繋がる専用の浴室に入ると、メアリはさっさと服を放り捨ててバスタブに身を横たえる。
「ん~っ、はぁ……疲れたわ……」
「大変なお勤め、でした」
侍女の一人が、勇気を振り絞って独り言に応える。
しかし、返事はなかった。
(駄目だ~! メアリ様の機嫌が戻って来ない~!)
浴室につめた侍女三人が、涙目でアイコンタクトを送り合う。なんとかしたい。なんともできない。どうしよう。
そこに、天の助けがやって来た。
「メアリ~、お帰り~」
今日もお酒を片手にご機嫌なカミラである。
彼女は、メアリと対等に話せる例外的な人材だ。
「ただいま、カミラ。あなた、私がいない間くらいは素面で待機してたんでしょうね」
「お、本当に機嫌悪いでやんの。なんだよ、出て行く時は超ご機嫌だったじゃん?」
主人の注意を無視した会話に、侍女達はひやりとしたが、メアリとしてはそれを聞いて欲しかったらしい。
文句が早口で飛び出す。
「そんなご機嫌、五日目くらいで枯れ果てたわ。毎日毎日同じことの繰り返しだもの、飽きるに決まってるでしょう。ご飯は不味いし、お風呂は入れないし、寝床は硬いし」
「うわ、じゃあ十日くらいずっとそんな状態? ついていった騎士が可哀想だこと」
「失礼ね、別に当たり散らしたりはしてないわよ」
「不機嫌なメアリが一緒ってだけで、十分可哀想だけど?」
そんなわけないでしょ、とメアリは唇を尖らせる。が、侍女達はカミラの言い分に頷いた。もちろん、内心だけの頷きだ。
「メアリの立場じゃ、四六時中笑ってなくちゃ良い上司とは言えないって、前にも教えただろ?」
「うるさいわね。上司のご機嫌取りも、部下の仕事でしょ」
ほら、ちやほやしなさい。メアリはすねた顔で命令する。
「わがままお嬢様め。はいはい、じゃあご機嫌取りしたげましょ」
しょうがないな、という顔で、カミラは自分の背後に隠れていた少女を前に押し出す。
ぺこりと頭を下げた銀髪の少女に、それまでバスタブにもたれてそっぽを向いていたメアリが、表情を変える。
「あら、あなた。そういえば拾ったの忘れていたわ」
バスタブの縁に腕をかけ、その上に顎をおいて少女を眺める。ジャンヌは、相変わらず無表情だったが、メアリの視線にさらされて徐々に頬を紅潮させていく。
メアリは、村で見た時よりも肌艶も良くなった少女に、満足げに頷く。
「うん、やっぱり可愛いわね。カミラ、この子に異常は?」
「特にないね。あ、そうだ、声が出せないらしい。話をする時は手でも握ってやって」
「そうなの?」
ジャンヌは緊張した。声を出せないことで、柔らかくなったメアリの表情がひそめられるのではないかと。
ちなみに、三人の侍女達も緊張した。
「なら、こっちへおいでなさい」
しかし、メアリは全く気にしなかった。こいこい、と手招きをして、手を差し出す。
ジャンヌは、それに恐る恐る手を重ねた。
『こんにちは、メアリ様』
「ええ、こんにちは。会いたかったわ」
微笑むメアリに、カミラが「忘れてたってさっき言った」と突っ込む。
「カミラ、うるさい。忙しかったから考えてなかっただけよ。ちゃんと覚えてるわ。最初の村で喉……じゃないわね、あれは三つ目だったから……心臓を刺した子でしょ?」
覚えていてくれた。ジャンヌはこくこくと頷く。
「名前だって憶えているわ。えーと、たしか……んん?」
「メアリ、その子の名前は聞いてないだろ」
「そう、だった、かしら? あれ?」
メアリの視線が泳ぐ。
事実ジャンヌが名乗ることはできなかったが、何やらメアリが困っているらしいので、ジャンヌの中では名乗っていたことになった。こっそりと教える。
『内緒ですが、ジャンヌ、です』
「あ、そう! ジャンヌ、ジャンヌよね、うん。ちゃんとこの子から聞いていたわ」
ふふん、と笑うメアリだが、声を出せなかった少女からどのように聞いていたのかと、カミラはにやける。
『あの時は、ありがとうございました』
「あら、良いのよ。別にあなたを助けたわけではないもの。あなたがたまたま助かっただけよ」
メアリは平然と事実を述べる。
対して、ジャンヌも小さく笑みを浮かべて、事実を返す。
『はい。あの時、助けようとしてくれなくて、嬉しかったです。殺してくれて、ありがとうございました』
「まあ! あなた、面白いわね! カミラ、この子とっても変わってるわ!」
そこで喜ぶメアリも変わり者であるが、カミラにとってはとっくにわかっていることだったので、肩をすくめられて終わる。
『あの、それで、メアリ様に、お願いがありまして』
「うん? ええ、何かしら。言って御覧なさい」
すっかりご機嫌になったメアリは、大抵のことは叶えてあげようという笑顔で促す。
『ジャンヌの、今後なのですが……』
「あら、逃がさないわよ」
途端に、メアリの声が堅くなる。
「あなたはもう私のものよ。私が生き返らせたんだもの」
メアリの指が、侍女服の上からジャンヌの胸元、その奥の種を撫でる。
「これから死ぬまで、あなたは私に仕えるの」
目を細めた残忍な笑みでの命令に、ジャンヌは目を見開いた。
『はい! よろしくお願いします!』
「わあ、良いお返事」
中々珍しい反応に、メアリの表情から笑顔が抜けてしまう。
メアリの真顔というのも実に珍しいものだった。
『それで、あの、配属? とか、そういうのなんですが』
「うん? 侍女服を着てるんだから、侍女なんじゃないの?」
メアリが、ジャンヌの衣装を見た後にカミラに視線を送る。
他に合うサイズの服がなかったから、などという事実をカミラは言わなかった。
「似合うよね?」
「似合うわね」
「侍女で良いよね?」
「侍女で良いわね!」
こうして、ジャンヌ念願の――あと侍女隊待望の――侍女配属は成った。
「じゃあ、早速だけど、ジャンヌ、私の髪を洗ってくれる?」
『はい! でも、ジャンヌ初めてです。やり方も良くわからないですけど』
「良いからやって。二週間も遠征続きで最悪なのよ。失敗してもこれ以上悪くならないから、練習には丁度良いわ」
『わかりました。がんばります!』
バスタブの外に黒髪を垂らして、メアリは上品な笑みを浮かべる。
ご機嫌なメアリ様が帰って来たと、侍女達は拳を握る。しかも、体に触れる世話を任せるなんて、特に機嫌が良い時のメアリお嬢様である。
侍女のうち一人は、機嫌超回復を触れ回るために浴室から飛び出す始末だ。
「んっ、ふふ、本当に下手ねぇ。ジャンヌ、あなた、自分の髪の手入れもちゃんとできてる?」
『ここに来るまでしたことなかったです』
「あら、じゃあその綺麗な銀髪、村では手入れされてなかったの?」
『はい、ここでお風呂に入るようになって、皆さんに注意されました』
侍女の一人が、私やりました、と無言で手を挙げると、メアリは横目で微笑む。
「良い仕事をしたわね、褒めてあげる」
「あざっす!」
「……もうちょっと侍女っぽくしてくれない?」
メアリの微笑みが、見る間に苦笑に変わるが、それでも機嫌の良さは変わらない。
侍女は照れ臭そうに笑う。
彼女達は、確かに不機嫌なメアリお嬢様を恐れているが、メアリお嬢様自体は大好きだった。