病鳥の止まり木21
「アンナ様、手前どものお店にも寄って下さいませんか」
お代は結構ですので、と丁重に頭を下げたのは、娼館を経営する老婆だ。
綺麗に整えた髪と、それを飾る櫛が、彼女の若かりし頃の美貌を伺わせる。娼婦上がりの店主とくれば、海千山千の人に揉まれて磨かれた、一級の宝玉である。
そんな老婆が、店先に立って直々の客引きだ。すがっても店に招きたい上客中の上客を狙っているとわかる。
男装姿で盛り場を闊歩するアンナは、そういう客として見られていた。
娘達の扱いの上手い遊び人として、セス・クリストファー令嬢の客分として、乱暴な客への盾として、連日連夜の人気者だった。
彼女を招きたい娼館は引きも切らない。
「少しだけのお遊びでもよろしければ、お邪魔しても?」
「それで十分でございます。どうしても、アンナ様に可愛がって頂きたい娘がいるのです」
「では、その娘を買いましょう」
ポケットからハンカチを取り出して、老婆に差し出す。中身は金貨、娼婦を買う代金である。
当然、お代は結構とまで言った相手は、恐れ多いとやんわりと拒むものの、ここで店側の言葉に甘えるようでは客として三流、決して上客とは呼ばれない。
「わたしは現在、セス・クリストファー様の客分として王都にいます。クリストファー公爵家の名前に、支払いが悪い、などという悪評をつけるわけにはいきませんよ」
そこまで言えば、老婆としても心得たもの。ハンカチを押し頂く。
ケチなことを言わず、値段も聞かずに十分以上だろう金額を用意する。しかも、投げて渡すようなこともせず、刺繍入りの上品なハンカチに包んだ渡し方は、店に対しての礼儀がある。
これこそ、大貴族と呼ばれるに相応しい遊び方である。
老婆は目を細めて、若い客に敬意のこもった営業スマイルで一礼する。
「近頃は、大貴族と呼ばれる方でも、こういった遊び方をなされない方もおられます」
「まあ、よろしくありませんね。遊び方にこそ、その家の格が現れるでしょうに」
アンナの台詞に、老婆も深く頷く。
娼館並ぶこの場所で人生を学んだ者達にとって、それは絶対だ。偏った見方であっても、偏った世界で生きて来たのだ、覆しようがない。
それと同時に、老婆の言葉には含みがあった。
こういった遊び方をしない大貴族とは、一体誰か?
会話も楽しませる高級娼婦の舌先に、無駄な言葉は乗らない。
セス・クリストファーの名前を背負った客に対して言ったということは、その兄カインの遊び方はずいぶんと程度が低いようだ。
「王都とはいえ、客の良し悪しの時代はあるのでしょうね」
「わたくしども一同、これからは良い時代が来ることを願うだけでございます」
この会話の段階で、いくつかの娼館がカイン派からセス派になびいたことになる。
これで四分の一くらいかしら、とアンナは微笑む。連日連夜の夜遊びの結果、あっという間に歓楽街の勢力図は塗り替えられつつある。
全体の四分の一が、これほど短期間で裏返ったということは、勢いが完全にできている。
残り四分の三が向こうとはいえ、足が一本欠けた机がどうなるかを考えれば、実質的に勝利が見えたと言って良いだろう。
頭の中で勢力図を書き換え、今後の計画を確認しながら、アンナは案内された部屋に入った。
中で待っていた娼婦は、まだ若く、初々しさが見て取れる。
「こんばんは、お嬢さん。わたしとお話をしてくれませんか」
妹を相手にするような、柔らかな声かけだった。
青く見えるほどに緊張していた娘の顔から、訴えを引き出せるほどの優しさに満ちている。
「あの、あの、わたし……っ」
「ええ、何か言いたいことがあるのでしょう? わたしでよければ、聞かせて頂戴」
勢い込んだ訴えに、聞く姿勢を見せると、娘の顔から緊張が抜けて、涙が溢れだす。
アンナを呼び止めて誘う店は、いずれもカインの名前で迷惑をかけられている。
娼婦個人であったり、店全体であったり、大小も様々だが、よくもこれほど、と呆れるくらいの量だ。
クリストファー公爵家の力が大きい、というのもあるだろうが、カインが交渉のため、頻繁にゴロツキに脅しの依頼をするせいで、「次期公爵の関係者」が広がり過ぎているのだ。
そのことについて、カインは大貴族の御曹司らしく、頓着していない。
切り捨てやすい手駒が増えて結構ではないか、くらいにしか考えていないのだろう。ゴロツキが問題を起こす範囲が、歓楽街の外まで出て来れば、また違った反応になったかもしれない。
つまり、カイン・クリストファーにとって、歓楽街とは何を捨てても良いゴミ箱のような感覚なのだろう。
そこに住むしかない人々がいることを、まるでわかっていない。
人は、踏みつけられれば血が流れるし、食事がなければ飢えて死ぬのだ。
「つらかったね、もう大丈夫」
そこに住む娘の涙を、アンナの細い指先が拭う。
「君が受けた傷をなかったことにはできないけれど、傷つけた連中に報いを受けさせよう」
薄っすらとした美女の笑みには、計画がまた一つ上手く運ぶ喜びと、妹を傷つけられた姉の怒りが根を張っている。
「だから、あなたはその傷を強さに育てなさい。悲劇好きな客に見せる花にしても良いし、触れさせないための棘にしても良い。その傷に負けないで、その傷を滋養にするの。それが、あなたにできる、一番の復讐になるから」
どんな大輪の花も、どんな大木も、始めは小さく足元に芽吹く。
闊歩する獣に踏みにじられる小ささを飛ばして、大きく咲くことはできないのだ。
避けえないその時に、不運に遭遇してしまったら、それはもう仕方ない。その花の運命だ。
枯れぬように立ち直るしかない。たとえ、その幹が曲がったとしても。
「あなたは美しい。後は、強くなるだけよ」
それが可能であること、それが難しいこと。
そのどちらも、アンナという女は知り尽くしていた。




