病鳥の止まり木20
「ふうん、お仕事、大変なのね」
女の声は、心地良い歯応えを残した果実のようだった。
娼婦らしい熟れた柔らかさはなく、それが盛り場では新鮮に響く。
それもそのはずで、女は娼婦ではなかった。
黒髪を後ろで結んだ姿は凛々しく、男装のパンツとベストに押しこまれた肉感的な肢体は、少し窮屈そうな躍動感を秘めている。
ややツリあがった目元が印象的な顔立ちは、男と伍して働く身である自負が輝いている。
一部の男性達が、生意気さと共に一種の憧れを抱いてしまいそうな女性は、自分を商人だと語った。
娼館の一階、というより、一階は社交場を兼ねた酒場にして、二階に娼婦を連れ込める寝室を用意してある店には、商売の種を探しに遊びに来たのだという。
珍しい話ではない。
この手の、社交場としての役割を期待される店は、お忍びの貴族(ただし大抵は正体も知られている)も含めて、身分の違いをグラスの底に沈めて楽しく語らうことを目的として作られている。
貴族の屋敷や宮廷で開かれる宴席を表の社交界とするなら、影の社交界と言ったところだ。表よりも雑多な交友関係が得られることがある。
こうした店では、娼婦もどちらかというとお酌や会話のアクセントが仕事となり、二階のベッドルームの掃除はそれほど忙しくならない。
そんな店である。新しい顔が若い娘達の注目をさらうこともある。金払いが良いとなれば放っておかれない。
さらに、それが見目の良い女性で、娼婦への態度も優しいとくれば、男性の相手に飽きている娘達は群がった。
「偉いね。君はよく頑張っているよ。家族も、感謝しているだろうね」
優しい微笑みと一緒に頭を撫でられた少女は、完全に恋する女の顔でうっとりと商人を見上げる。
話を聞かせる客は多いが、話を聞いてくれる客は少ないのだ。なのに、この客は身の上話を聞いて、褒めて、励ましてくれる。
それだけで、聖人のように見えてしまう。
周りの客は苦笑いと、その話術に感銘を受けた顔が半々だ。
嫉妬が少ないのは、商人が相手にしているのが本当に若い、まだ見習いレベルの少女が多いためだ。特定の客がついていないので、多少大目に囲ったところで目くじらを立てる者がいない。
最初に、あちこちのテーブルにそれなりの酒を一つずつ贈ってある辺り、こういう遊び方に慣れた人物であることは明らかだった。
店側としても、遊び方を心得ていて、新人のケアになるような客はありがたく、普段はお客を捕まえられないような娘達をまとめてサービスさせている。
まさに、誰も損をしない、楽しい一夜の遊び。
ただまあ、自分達以外が楽しんでいる、ということが気に入らない者も、世の中には存在する。
「随分と楽しそうじゃないか、新顔が」
楽しんでいた者達、客も店の人間も、どちらの表情にも渋味が走った。
この店の客層は良い部類だが、それでも迷惑な客というのは存在する。そいつがいたらその日は外れ、という類の客だ。
絡まれた新顔の商人に、気の毒そうな視線が集まり、一緒にいた娘達が不安そうな顔になる。
そういった空気の変化を察しているだろうに、商人の態度は余裕を失わない。
「ええ、楽しませて貰っていますよ。ここは気持ちの良い店ですね」
「そうだろう。俺もお気に入りの店だ」
男は偉そうに頷いて、しかし、と睨みを利かせる。
「遊び方がわかっていない新顔のせいで、今日は最悪だ!」
跳ね上がるように大きくなった声に、びくりとした人間は多かったが、商人は例外になった。
ポケットに手を入れて、コンパクトミラーを取り出すと、親切心をたっぷりと塗りたくった顔で差し出す。
「どうぞ?」
「は?」
男はしばし、商人の仕草の意味がわからなかったようだが、「鏡を見て言え」という意味だと悟ると、顔を真っ赤にした。
「ふふふ。いや、失礼。ほんの冗談ですよ。お詫びに一杯奢りましょう。お好きな銘柄はなんです、先輩」
商人のやりように、ほとんどの人間が同意を示して笑う。
社交的には、商人の完勝である。
負かせたお詫びに奢るというのも、こういった場に相応しい幕引きだ。それで手打ちだと笑ってみせれば、負けた側もわかった奴だと評価されることもある。
そして、迷惑な客というのは、こういう機微を無視するがゆえに迷惑なのである。
商人にからかわれ、店中から笑われ、男は自分をひどく傷つけられたと感じたらしい。
それに見合う傷を相手に与えるべく、テーブルの上の酒瓶を掴んだ。
ガラスの破砕音と女達の悲鳴、それらの騒がしさにまぎれない、骨肉を打つ音。
「騒ぐな! 俺が誰かわかっているだろう! 下手に騒いだらただじゃ済まんぞ!」
頭を打ち下ろされ、酒に濡れて俯く商人の顔を、男は掴んであげさせる。
「お前も調子に乗りやがって。今夜はこれからたっぷり立場ってものをわからせてやるぜ」
商人の目は、突然の暴力にも動揺はなく、冷え冷えとした怒りが吹雪いていた。
男は、口笛を吹いてそれを楽しむ。
「生意気な目をしてられるのも今のうちだぜ。新顔だから俺が誰か知らないだろうが、俺様はなんと――クリストファー公爵家の次期当主、カイン様の従者なんだぞ!」
どうだすごいだろう、という勝利を確信した笑みに対し、商人は顔を掴んでいる男の手を打ち払って言い返した。
「わたくしはセス・クリストファー様の客分ですわ。この意味、おわかりかしら、ぼくちゃん?」
男の顔が驚き、しかし脅えはしない。
再び、商人のほっそりとした頤を乱暴に掴む。
「へっ、あんな小娘がなんだってんだ! あの腰抜けが、カイン様に逆らえるものか!」
男の言いように、セスは今までどれほど反撃もせずに我慢して来たのかと商人――アンナは、呆れと感心が混じった溜息を漏らした。
その呼吸のまま、自身最大の宝である美貌を掴む、下賤な男の指を掴み、へし折る。
「人の顔に気安く触らないでくださる? わたくし、指先一つであっても、タダで触れるほど安い女ではありませんのよ」
悲鳴を上げて転げる男を無視して、アンナは酒で濡れた前髪をかきあげる。
白い額に赤い血が伝い落ちるが、それに構わず、商人は長い足を組んで男を睥睨する。
その貫禄は、女王と呼ばれそうなものだ。
床で這いつくばり、痛みに脂汗を浮かべる男は、さしずめ奴隷か。
「お、お前、こんな真似してどうなるか! 俺がカイン様に一言いえばお前なんかどうにでもできるんだぞ!」
「あなたこそ、明日も公爵家の門を潜れると思っているのかしら。クリストファー公爵閣下のお名前に、ここまで泥を塗った小物ごとき、公爵家ならそれこそどうにでもできるのに」
アンナは、ほっそりした指を一つ立てる。
「クリストファーの名前で威張り散らし、ゴロツキが如き卑怯野蛮な振る舞いで主家たる公爵家の名前に泥を塗ったこと」
指が、もう一つ立てられる。
「公爵閣下が決めてもいないのに、カイン様を勝手に次期当主と詐称したこと」
美しい指は、もう一本。
「主家であるクリストファー家の令嬢に対し、小娘だの腰抜けだのという暴言を吐いたこと」
合わせて三本の指を立てて、アンナは見下ろす。
「全てセス様を通して、公爵閣下にご報告いたしますわ。ご存じの通り、閣下は紳士の中の紳士として知られるお方、セス様も閣下にならってそうあろうと振る舞われておられる。当然、カイン様もそうでしょう」
カインがそんな評価が見合わない人物であることなど百も承知の上で、アンナは言い切る。
問題なのは実態ではない。違うと言ったら現当主から「公爵家の名に値しない」と烙印を押される事実だ。
「クリストファー公爵家で、あなた方のような行動が許容されるはずがありませんわ」
さらりと複数形で表現して、アンナは種をまいておく。
カインの従者達が野生動物並みの礼儀作法で盛り場でのさばっているのは、蓋をされた事実だ。これまで、その蓋を開けられる人間はいなかったが、今のセスなら開けられる。
それを匂わせておけば、泣き寝入りしていた被害者達が、セスのところに勝手に情報を持って来てくれることだろう。
被害者が口をつぐんでいることを、許されている、と勘違いして好き放題やって来た連中だ。
さて、カインは自分の手下をどれほど守れるかしら。アンナは酒瓶で割られた頭の傷に対する怒りを、笑みだけで表現する。
彼女は、娼婦になったその日から、顔を傷つけた相手を許したことはない。




