病鳥の止まり木19
セスの案内の下、アンナが足を向けたのは娼館通りだった。
贅沢に灯された火が、色ガラスや色紙を通して赤みがかった光で、ここが何のために作られたかを主張している。
まるで故郷に帰って来たかのような足取りのアンナとは対照的に、セスの歩みは覚束ない。
先を行くアンナが、ちらりと振り向く。
「こういったところは初めてみたいですわね」
「ええ、まあ……」
曖昧に頷くセスは、親とはぐれた迷子のような顔をしていた。年下にこういう顔をされると、アンナは弱い。
歩みを緩めて、守るように男装の麗人に寄り添う。
「こういったところに通うより、呼びつけるようなお家ですものね」
「そう、ですね。そういうこともあるのでしょうが……あまり興味がなかったことと、この姿をしていても令嬢ですから、利用する機会がありませんでした。なにかあると継承権の問題が非常に厄介になりますから」
男装のセスには、娼館の窓から何やら熱い視線が注がれている。
通りすがりの客と思しき者達も、セスの凛々しさと愛らしさを混交した顔立ちに妙に粘ついた視線を送る。
もちろん、アンナに向けられる視線も相当なものだ。
慣れていない者には、無数の目が殺到する空間は居心地が悪い。
しかし、社交場に出るセスは、視線を集めることにも耐性はできている。場所柄、セスが慣れた視線よりも粘ついてはいるが。
「ここは兄の領分という意識があるものですから、特に近寄らないようにはしていました」
どういう手を回されるかわからないから、と言外に伝わる言い方だ。
確かに、娼館が集まるところにはゴロツキも多い。ここでの彼等には、用心棒とか女衒といった名前がついている。
カインの従者が手配するゴロツキ達は、ここの手の者が多いのだろう。
実際、アンナとセスに集まる視線の中には、暗がりから狙いを定めるような気配も混じっている。
細い指を頬に当て、アンナは物憂げに溜息を吐く。
「家柄が立派でも、ご家族には苦労されていますわねぇ」
生まれが貧乏だったアンナも、家族から娼婦として売られる扱いを受けた。しかし、そんな必要のない裕福な貴族にも、メアリやセスを見れば異なる苦労があるらしい。
飢えの恐怖で肉親から売られることと、権力への執着から肉親に恨まれること。
果たしてどちらがマシだろうかと、アンナは細い首を傾げて少しだけ思考を弄んだ。
それも、目当ての娼館の灯りが見えて来るまでだ。
「ああ、あそこですわね」
主に日暮れから営業する娼館は、その目印として照明を使う。色ガラスや色紙で変わる光の具合であったり、その照明に店のシンボルマークを描いていたり。
アンナが指さした娼館は、セスの従者を辞めざるを得なかった召使いの、新しい職場である。
従者の中でも高い教育水準が求められる侍女や執事と違い、単純な労働力として期待される平民の、しかも女性が稼げる場所というのは少ない。
しかも、セスの従者には、カインが仕向けたゴロツキがおまけにくっついていたのである。こうした連中は、一度味を覚えた獲物を簡単には逃がさない。他の選択肢はなかっただろう。
娼館に入ると、中は意外な清潔さに満ちていた。
セスの視線の動きで察して、アンナが顔を寄せて囁く。
「照明が色ガラスだったでしょう? 高価なガラス照明を使っているということは、高級な部類の娼館ですわ。場末の安いお店とは質が違うんですの」
なるほど、とセスは素直に頷く。
「公爵家の令嬢に仕えた召使い。その肩書きで高く売っているということですわ」
続いたその言葉には、流石に頷きはしなかった。
娼館のドアを潜ると、女主人が笑顔で一礼する。美女と男装の麗人という組み合わせは、娼館では滅多に見ない客だろうに、その困惑は目尻のシワ一つにも表れていない。
しかしながら、ただの客でないことはわかっている。
「いらっしゃいませ。本日はどのようなご用向きでしょう」
娼婦と遊びに来たのではないだろう、という問いかけに、アンナも端的に答えた。
「こちら、セス・クリストファー様でいらっしゃいます」
その名前に、女主人は納得の声を漏らした。
当然だ。公爵家の名前で稼げる娼婦がいるのだから。
問題は、何をしに来たかだ。
女衒から、店の娼婦の事情は聞いている。公爵家の元召使いについては、公爵家の兄の方が、妹の従者である彼女にちょっかいを出したせいでここに流されて来たという。
貴族の足の引っ張り合いに巻き込まれる平民、というのは多い。
あの連中は盤上遊戯の駒のような感覚で平民を扱うのだ。自分達を傷つけあう前に、その駒をぶつけて様子を見る。
そこで傷を負った平民は、こうした娼館や、娼館を取り巻く裏街にしか居場所がなくなることも、また多い。
裏街は汚れた聖域なのである。
汚れているから、そこまで落ちた駒を、貴族様はわざわざ拾いに来ない。普通は。
たまに、ある。下水に落ちたコインをわざわざ拾うような貴族の話が。
物好きな貴族であれば美談だが、落ちたコインの希少価値に後から気づいたという話もある。
目の前の男装の麗人は、果たしてどういった話か。
いずれにせよ、女主人の決断は早かった。元より、選択肢は二つしかなかったのだ。その中で、自分に問題が降りかかりそうにない方を選ぶ。
「サーシャはプラムの部屋です。案内の娘について二階へどうぞ」
下手に隠さず、鍵を手渡す。
「ええ、遊ばせてもらいますわ」
鍵を受け取ったアンナが、代わりに包みを手渡す。
擦れる金属音と重みに、包みの中身が貨幣であることがわかる。
銀貨であれば、ただの迷惑料に違いない。これが金貨だとしたら、身請け料だ。
感覚と勘が、女主人にこれは金貨だと言っている。
「面倒事になる前に言っておくけれどね」
女主人は、客相手の態度を崩して溜息を漏らす。
「ここにはここの掟がある。公爵家の身内争いに加担する気はちっともないけど、通さなきゃいけない筋ってものもあるんだよ。娼婦の上がりは、連れて来た女衒に流れるもんだからね」
わかるだろう、という目を、女主人はアンナに向けた。立ち居振る舞いから見て、元同業であることは一目でわかる。
アンナも当然のこととして、その確認に頷く。わざわざそれを教えたことが、女主人なりの娼館を守るための交渉であることも含めての首肯だ。
「どこの裏街も同じようなものですわね。安心なさいな。うちも流儀は弁えていますわ。出方を間違えなければ、無闇に火を広げる真似はいたしません」
「なら良いんだけどねぇ」
公爵家のうち、兄の方はかなり強引な手も使う。女主人は本人と親しいわけではないが、その手下の振る舞いは、すなわち主人の気質なのだ。
娼館の女主人の態度が悪ければ、大抵娼婦の質も悪いことと一緒だ。
妹の方が穏便に済ませようとも、兄があれではどうなるか。
階段を上がっていく二人組に、女主人は恨めし気な視線を送る。
一方、その二人のうち、初心な方が小声で尋ねる。
「ここの掟、というのはつまり、私達がここに来たことが兄上に伝わるということですね?」
「結果的にはそうなりますわね。娼館としては、娼婦を連れて来た女衒に連絡をするだけですけれど。この手の裏街の女衒というのは、それなりの組織の人間で、つまりまあ娼婦の儲けの一部は犯罪組織の資金源になっていますの」
それが何の連絡もなく途絶えるとなれば、犯罪組織の連中が黙ってはいない。
店に当たり散らされては困るから、娼婦を身請けしようとすれば、組織が納得するだけの金銭を積むか、組織を黙らせるかだ。
金を積むだけで済むなら、アンナもセスもすぐに終わらせられる。だが、今回は公爵家の問題が絡んでいるため、金では相手も引かないだろう。
「その辺りはうちにお任せ下さいな。お嬢様は夜の花の咲き方まで覚えなくともよろしいでしょう」
「確かに。覚えても使い道に困りますので、あなたにお任せします」
軽く頷いて仕事を任せてしまう仕草は、公爵家の人間として人を使うことに慣れた上位者のそれだ。
やや硬そうな果実を思わせるこの令嬢、夜の花の咲き方を覚えたらさぞ人気が出るだろう。
そうアンナが考えていることを知ったら、セスはどんな顔をしただろうか。
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小間使いの娘の案内でついた部屋には、セスより少し年上の女性がいた。
体に張り付くような薄い服を着た女性は、ドアを開けて入って来たアンナを見てわずかに瞼が開く。自分より綺麗な女性が、客の身分で訪れるのは初めてのことだった。
そして、アンナの後に続いた男装の麗人を見て、大きく目を見開いた。
数年、会っていない人物だった。半年も続かなかった関係の人物だった。一時共に過ごしたと言えるほど、距離が近かったとも言えない人物だった。
しかし、それでも、娼婦サーシャは、男装の麗人が誰なのか、すぐにわかった。
「おじょう、さま……」
その時、サーシャの胸中に渦巻いた感情は、一種類や二種類ではなかった。
怒っているのか、悲しんでいるのか、自分でもわからない。
公爵家の令嬢の召使いに雇われた時の興奮。令嬢が穏やかな人物であったことの喜び。継承争いに巻き込まれて襲われた恐怖。公爵家を辞した後も嫌がらせを受けた屈辱。ゴロツキの目論見通りに娼婦になるしかなかった恨み。
体中から溢れそうな感情の洪水は、その激しさとは裏腹に、ひどく小さい音として唇から漏れた。
「どうして……今さら……」
しっかりと化粧を施された顔を、サーシャは己の手で抑えた。言葉になれなかった感情は、冷たい涙としてあふれ出して、止まらない。
セスも、言葉が出なかった。思いは、サーシャ同様に複雑だ。
ただ、恐怖が一番強かったように感じた。
自分の従者になったために、意にそぐわぬ道を歩む羽目になった女性。どれほど恨みを募らせていたことか。
それがぶつけられる先に自分はいる。鍋の隣に置かれた生首が思い出され、セスの背筋が震える。
これが、自分がずっと避けて来た結果か。セスは生唾を呑む。
彼女を助けられる立場に自分はいた。兄と争う覚悟さえあれば、ゴロツキを使った嫌がらせなど溜息一つで吹き飛ばせただろう。
でも、助けなかった。我が身が綺麗であることにこだわったせいで。
泣きじゃくるサーシャに、セスは手を伸ばす。
初めて赤子を抱くように、ぎこちなく、恐る恐る、娼婦の体を抱き寄せた。
「サーシャ。詫びたところで、君の何かが戻るわけではないから、許しは請わない」
甘ったるい香水の匂いに身を浸しながら、告げる。
「ただ、サーシャをこんな目に遭わせた兄に、報いを受けさせる。それだけは、約束する」
その内容に、サーシャの体が弾かれたように動いた。抱かれた腕から逃れるように身をよじり、かつての主人に平手打ちをしたのだ。
ジンと痺れる頬の感触に、セスは微笑む。
「これくらいで良いの?」
この部屋で積み上げ続けた恨み辛みが、この一打だけで良いのかとセスは笑う。
もちろん、それだけで済ませられるものではない。サーシャの恨みも、公爵家の令嬢への暴行も。
だが、公爵家の令嬢は許して、笑った。
アンナから見たそれは、人を魅了する花の笑い方だった。
流石は、あのノア・クリストファーの娘。
感心するアンナの目の前で、サーシャは先程以上の勢いで泣き始めた。
セスの胸に縋り付きながら。
堕としたのだ。
たった一発の平手打ちと引き換えに、「ただの平民だからと切り捨てない」という態度をセスは示した。
サーシャにとって、この汚泥の底から這い上がる唯一の手掛かりになった。
この天から垂れた助けを手放せるほど強気な人間は、滅多にいない。
多くの娼婦が、優しさを見せた金持ちに身請けをされ、喜んで出て行ったものだ。
その結果は、千差万別であったが……まあ、セスならば大丈夫だろう。アンナは造り物ではない笑みを浮かべる。
クリストファー公爵家は、平民なら数人を囲っても問題ないだけの力を持っているし、家格に見合うだけ世間体も気にする。
セスが守ると公言すれば、サーシャもこれ以上は不幸な目に遭わないだろう。
アンナは、自分達の計画がまずは順調に動き出したことを確認し、おもむろに着替えを始めた。
サーシャは汚泥からすくいあげられた。
代わりに、その穴に沈める相手がいれば、無関係の誰かがその不幸をかぶる必要もなくなる。
すくいあげるのがセスの仕事ならば、その穴に代わりの誰か突き落とすのはアンナの仕事だ。




