病鳥の止まり木18
「セス、大任ご苦労だった。無事に戻って来たこと、嬉しく思う」
応接室にて、父は開口一番に娘をそう労った。
「それと、レディ」
得体の知れぬ女であるアンナを、ノアはそう呼んだ。
「娘の務めを手伝って下さったと聞いた。まず父親として感謝する」
「それは、とても光栄でございますわ」
公爵としての感謝ならば、メアリの指示だからと遠慮するところだが、父としての感謝ならば固辞するわけにもいかない。
なるほど、社交界で紳士と呼ばれるわけだ。挨拶の時点で、アンナは目の前の人物を評価した。
「さて、それでは公爵家として、お前の話を聞こう。セス、ずいぶんと動いたな」
「はい。恐らくは、これまでの人生で一番」
「それほどの人物であった、ということか」
誰のことを指しての言葉か、ノアはわざわざ口にしなかった。ただ、視線をわずかにアンナに送っただけだ。
それだけで、美女の主人のことであると伝わる。
「それほどの人物であった、というより、それほどの状況であった、と評すべきかと」
セスは、侍女が用意したお茶に口をつける。
上等な茶葉を、熟練の技術で淹れただろうに、ひどい酸味と苦味を感じた気がしたが、表情は変えなかった。
「先に文書で報告した通りです。西部で安定しているところは、メアリ・ウェールズの支配が及んでいるところだけと思えるほどです。それほど状況はひどく、それほどメアリ様の手腕は際立っています」
「うむ。報告を見る限りでは、そうなのだろう」
その報告をどれほど信じているかについて、公爵は言わなかった。
「セスとしては、その実績をもって西部統括官はメアリ・ウェールズ殿が相応しい、と」
その通りです、とセスは頷いてから、付け足した。
「しかし、意味が違います。ここでそうしなければ、西部は独走を始めます」
今回の危難に当たって、西部は――西部の三分の二にまで手を広げたメアリ・ウェールズは、宮廷の支援を一切受けていない。権威的なものすら与えられていないのだ。
この状況で、西部統括官を別な人物、フィッツロイやそれ以外の誰かにしたところで、彼女とそれに従う者達が納得する訳がない。
そうなれば、国王の権威で命じた西部統括官と、実質的に西部を握ったメアリ・ウェールズの対立が出来上がる。
「そうなったら、西部は独立状態になるでしょう。少なくとも、ウェールズ本家のある最西部はそうです。そして、現在の西部で最も栄えているのはその最西部です」
「ふむ……争うことになったら、王国の安定が揺らぐか」
「大きく、揺らぎます」
父の言葉を、セスは強く言い直した。メアリ・ウェールズという怪物を知るからこその言葉だった。
「私の認識では、王国が今の王国のままでいるためには、メアリ・ウェールズ以外に西部統括官になれる人物は、もはや存在しないのです、父上」
「西部の安定のみを計ると、そうなるのだろうな」
父の言葉の意味を、セスはすぐに察した。
王国中央、この王都を中心とした安定の話だ。さらに言えば、クリストファー公爵家の継承権争い、兄カインとセスの対立が絡む。
セスの進言通りにすれば、事実上セスが公爵家の後継者と目される。
それを黙って見ているような兄ではない。フィッツロイを巻き込んで、王都で反メアリの活動を行うだろう。
いや、セスが西部に出ていない間も、ずっと行って来たはずだ。その芽が出る、というべきか。
メアリが西部統括官になる、と事態が動いた場合、西部諸侯はメアリがしっかりと握るだろうが、中央諸侯が西部に混乱を持ちこむのだ。
まずもって、セスの兄とメアリの親戚が。自分達は西部の苦境を見て見ぬフリをしていたというのに。
全く面倒なことだ。世の中、あちらを立てればこちらが立たず、ということが多すぎる。
だからこそ、どいつもこいつも自分の利益になる方にくっついて、平和や安寧と名の付く天秤を悪戯に揺らすのだろう。
そして、泡を食うのは、その天秤に触れもしない弱い人間か、天秤が壊れぬよう必死に奔走する人間だ。
つまり、自分のことか――セスは、込みあげて来る感情のまま、新月直前の月のように薄く笑った。
「西部と中央、その天秤を上手くまとめるのが、王国宰相にして中央諸侯の重鎮を務める、クリストファー公爵家だと認識しております」
兄の蒔いた種を、私が刈り取れば良いのでしょう。セスは笑みの形で表現する。
フィッツロイの蒔いた種は、メアリ――その腹心の一人であるアンナが刈り取る。そのために、セスとアンナは王都に戻って来たのだ。
肉親殺しという大罪を犯す覚悟を背負って。
「つきましては、父上、早速なのですが、兄上の従者の程度が低いようです」
まずは手足を軽くもいでおく。
そのために、玄関で質問に答えられなかった従者の非を訴える。
「わかった。それだけか?」
「今は、それだけです。ただ、今後も兄上の従者は問題が目立つことになるかと思います」
兄が悪事を働く時、それは従者に罪を擦り付ける形で行われる。幼い頃から、何度も自分の従者を傷つけられたセスは、そのことを誰より知り尽くしている。
それを追求し、兄の力を削ぎ落とす。
その宣言にも、父はわかったと一言だけだった。
「では、私はこれから自分の派閥のとりまとめに入りますので」
自分がいない間、さぞ兄上は好き放題にちょっかいをかけただろう。
元より、セスは熱心に自分の派閥を形成していたわけではない。引き抜かれた人材は果たしてどれほどか。
まあ、この程度で引き抜かれるような人材ならばいない方がマシか。
セスは楽観的だった。
自分の隣の美女を見れば、王都の微妙な派閥など一から作り直した方が良いとさえ思える。自分には、王国西部に太い繋がりがあるのだ。
あの怪物の巣窟たる王国西部に。
――私の派閥の者達は、真面目で気が弱いから、本当に一から作り直した方が良いかもしれない……。
「では、アンナ、王都の紹介をしましょう」
「はい、セス様。閣下、お会いできて光栄でございました」
アンナが綺麗に一礼すると、ノアもゆったりと頷く。
「こちらこそ、お美しいレディ。娘をどうかよろしく頼む」
「あら、まあ」
公爵の、親としての言い様は、春をひさぐ身であった美女にも魅力的に響いた。
「流石は、紳士の中の紳士と呼ばれるお方。そのように仰られては、うちも気合いが入りますわ」
公人ではなく、私人としての依頼に、アンナも黒蘭商会のトップではない、妖しさの香る艶やかな笑みで答えた。
「ようございます、素敵な旦那様。クリストファー家の可憐な一輪の精華、このアンナが美しく咲かせてご覧にいれましょう。我が主、メアリ・ウェールズの名に懸けて」
公爵の前から辞してしばらく、廊下でアンナがぽつりと呟いた。
「安請け合いをしてしまいましたわ……。メアリ様のお名前まで出すなんて、不覚ですわ」
「……呆れて良いですか?」
セスのじっとりとした眼差しに、妖艶な美女は唇を尖らせた。
「仕方ないではありませんの。うち、昔からああいう優しい旦那様には弱いんですの」
そういう問題だろうか。
セスはちょっと疑問に感じながらも、なんとなくどうでもよくなった。美女の拗ねた表情は新鮮で、それくらい魅力的だ。
「なるほど?」
つまり、アンナが勢い余って強い言葉を使ってしまったのも、今のアンナの顔を見てどうでもよくなった自分と同じようなものか。
「美人なら許される、ということですか……。今まで、あまりこういう気分になったことはないのですが」
「あらまあ、それはそれは……王都にはよほど美人がいないようですわねぇ」
王都のレベルも知れるものだと、美女は妖しく笑う。
「さて、お仕事のお時間ですわ。まずは、セス様の元従者を探しませんと」
「ええ、彼女達には申し訳ないことをしました。私がもっと早くに、こうすることを決めていれば、きちんと守ってあげられたでしょうに」
「ご自覚があるようで何よりですわ。恨み言を受ける覚悟はなさいませ」
はい、とセスは行儀よく頷いた。
「その分、兄上を手ひどく殴ることにします」
柔らかく微笑むその顔は、なるほど紳士の中の紳士と評される公爵の娘であると、見る者に納得させるものであった。




