病鳥の止まり木14
「ひどい匂い」
ハンカチで口と鼻を押さえながら、セスは率直すぎる言葉を漏らした。
自分と同じ人間、その成れ果てが放つ悪臭は、セスの紳士の態度を剥がすほど強力だった。
セスとて、死臭を全く知らない、と言うわけではない。
王都にだってスラムはあり、路地裏を覗けば冷たくなった誰かが転がっていたり、水路に誰かだったものが浮かんでいる。
公爵家ともなれば参加しなければならない葬儀の数は多いし、罪人の処刑だって立ち合いが必要なことがある。
直近では、メアリのところまで来る道中も、多くの死臭の中を潜らなければならなかった。
しかし、ブルゼ子爵領で感じたものは、セスの知る死臭とは別物だ。
爛れた死者の手が、生者を引きずりこむような濃密さ。
怨念に香りがするとしたら、こんな匂いかもしれない。
ブルゼ子爵領からメアリに転向した都市は、それほど多くの死者が、埋葬も間に合わぬほど積み重なっている。
路地裏どころではない、大通りにまで溢れているのだ。
正視に耐えないと表現すべきものが、何度も視界に入ってしまう。
セスは、自分をこんなところまで連れて来た人物の名前を呼ぶ。
「メアリ様……」
漏らした声の弱さに、自分で驚いてしまう。思った以上に、ブルゼ子爵領の現状は衝撃を与えたようだ。
「ええ、全くひどいわ。そう言いたいのでしょう? これでブルゼ子爵よりマシな弟の方が、今はウェールズ家からの食料を配給しているはずなのよ」
「とてもそうは思えません。まともな葬儀は無理としても、大通りの遺骸をどこかへ運ぶくらいは……」
非難の色が濃いセスの呻きに、メアリは平気な顔で同意して見せる。
「だから、わざわざあなたを連れてここまで来たのよ」
馬上の視線、大通りの先に領主館が見えて来る。
武装したウェールズ家の騎士団が前触れなく現れたのだ、さぞ慌てていることだろう。セスはそう思い、事実慌てて館前に人が集まっているが、様子がおかしい。
てっきり兵を集めて槍を並べ、防御行動を取るかとセスは身構えたのに、中央に立っているのは文官らしき人間だ。
騎士や兵も見えるが、槍を真上に立てて儀礼用の立ち姿に見える。
「ご苦労。アンナから話は通っているようね」
メアリが馬上からかけた言葉に、セスは引っかかった。
ここの代官に前触れは送っていないと聞いている。なのに、話が通っているとはどういうことか。
「お待ちしておりました、メアリ・ウェールズ様。この度、庇護を頂いた者として数々の感謝とご挨拶を申し上げたいところですが……」
中央、代表者らしき文官がメアリの顔色を伺うと、メアリは頷いて了承した。
「では、それは後程として、早速現場へご案内いたします」
代表者の声を受けて、馬に乗った騎士の一人が先に立って歩き出す。
それについて行きながら、セスはメアリの横に馬を並べる。
「メアリ様、ご説明は頂けるのでしょうか?」
「簡単な話よ。ブルゼ子爵はわたしに敵対している。その弟は子爵に従順。ここの代官は子爵の弟で、食糧支援と引き換えに都市ごとわたしに寝返った」
「寝返ったフリをした内通者、ですか」
それは当然考えられる手段だ。だからこそ、派閥を変えた人間というのは信用されるまで苦労をする。
「裏切っているとしたら、送った食料はブルゼ子爵に横流しされると思わない?」
「現場、というのはそのやり取りの最中ですか?」
メアリはよくできましたという顔をしただけだが、案内の騎士の方が大きく頷いた。
どうやら、ブルゼ子爵とその弟を裏切った家臣が、先程メアリを出迎えた者達のようだとセスは判断する。
「偽装した裏切り者を、さらに裏切る者達を味方にした、というわけですね」
「その言い方は彼等に意地悪ね。わたしがこの都市を庇護下にした時点で、彼等の主はわたしよ。彼等は正式な忠義に基づき、裏切り者を報告しただけよ」
なるほど、そういう言い方も可能であるとセスは頷く。
その言い方で、ブルゼ子爵家の中に裏切り者を作ったのだろう。
食料不足の領地の中、せっかく手に入った食料を他に分けられることに不安を覚えないはずがない。
この都市一帯の食料は、大通りを見てわかるように不足しているのだ。自分達だけのものにしたいと思うのは、生き残るための本能だ。
その本能に、人間らしい言い分を注いでやれば、裏切りの花が咲く。
この花を供えられるべき者を、セスは見た。
蔵の中、運び込まれた食料を背に、話す男達。
突然押しかけたウェールズ家の騎士達に、顔面を蒼白した痩せた男が一人と、顔を真っ赤にしている太った男が一人。あとはその護衛や取り巻きだ。
「お、お待ちください、ウェールズ家の方! これは食料の配給について相談しているところで――」
痩せた男は、言い訳を盾のように展開しようとした。
今の状況を、素早く判断できている証拠だ。メアリの顔と名前は把握していないようだが、何とか状況を乗り切ろうと試みた。
しかし、できなかった。
「アントニー殿! これはどういうことです、ウェールズ家の小娘に我々を売ったのですか! ブルゼ子爵家に忠義を果たすチャンスを与えられたというのに何と愚かな!」
せっかく、ウェールズ家からの追及に備えようとした盾を、内側から蹴り倒されたのだ。
痩せた男の顔に、生気の代わりに絶望が流し込まれる。
「ブルゼ子爵を裏切るなど、兄君に対する不徳だけではなく、前子爵の父君への不孝ですぞ! 親子二代に渡る子爵家の温情を忘れるとは!」
今まさに裏切っているのは、大声で喚いているお前なのだが――セスは、思わず痩せた男を気の毒に感じてしまう。
アントニーと呼ばれたということは、ブルゼ子爵の弟は彼だろう。
だとすると、大声で自分がブルゼ子爵の使いであることを暴露している太った男が、食料物資の横流しのためにブルゼ子爵が送った人員だろう。
メアリは、喚く男を無視してアントニーの方に声をかけた。
「アントニー殿、どうしてここにブルゼ子爵の熱狂的な忠臣がいるのかしら」
「それは、ですから、食料配給についての相談でして……」
「わたしの庇護を受けた地域の食料配給に、ブルゼ子爵家との相談が必要だと?」
メアリの言い回しで、アントニーも目の前の少女の名前を察する。
「メ――っ!? そ、それは、もちろんウェールズ家の庇護を受けましたが、その、情勢判断などに必要な情報は、ブルゼ家の方が持っていまして……!」
「ふぅん? ここまで見事に領地を荒廃させたブルゼ家の情報、ねぇ。喉が渇いたからと言って、毒酒を呑むようなものではなくて?」
メアリの煽りに反応したのは、目の前の少女が何者であるかわからなかった太った男だった。
「なんだと小娘! 伝統あるブルゼ子爵家を馬鹿にするか!」
「これほど大規模な餓死者を発生させたのだから、無能と評価して何が悪いのかしら。悔しかったら、この都市圏の情報を何か言ってみなさい? 農村はいくつ? 人口は? 主要街路の状況は?」
メアリの問いかけに、太った男は当然のように言葉を詰まらせた。
「アントニー殿? この男と、何の相談を、していたのだったかしら?」
ここに来ても、メアリの声はゆったりと響く。
優し気というより、熟練の処刑人が死刑執行に臨むような余裕がある。
「で、ですから、食料配給の、相談なのです。彼は、まとめ役でして、詳細については別な文官がしっかりと……」
アントニーの声が、尻すぼみに消えた。目の前の少女の笑みに、とうとう優しい気配が混じったのを見て。
「そう。あくまでブルゼ子爵家に、あなたの兄に肩入れすると言うなら、もう余計な気遣いはしないわ」
それは、処刑人が死刑囚に見せる、最後の慈悲に似ていた。
「そのままのあなたで死になさい」
メアリが告げ、ここまで案内した元ブルゼ子爵家の騎士に目を向ける。
「あなた達から、ここの代官アントニーがウェールズ家に、このわたしへの反逆行為に手を染めていると聞いたわ」
「はっ! 代官アントニーは、旧主ブルゼ子爵と結託し、ウェールズ家から慈悲で与えられた食料を強奪しようと企んでいました!」
「証拠は?」
「こちらが、強奪した食糧を輸送するため、馬車の用意を命じた代官名義の文書となります。また、ウェールズ家へ庇護を求める前からこれを計画し、ブルゼ子爵と通じていたことを証言できる者も多数おります」
「よろしい」
流れの決まったやり取りの後、メアリは視線だけでアントニーの捕縛を麾下に命じた。
「メアリ様、わたしは……」
「お前への刑罰は晒し刑とする」
メアリは、アントニーの言葉を聞く必要を認めなかった。
そのための時間は、さっき十分に取ったのだ。そこで選んだアントニーの言葉が全てであり、メアリの判断にそれ以上は必要ない。
ブルゼ子爵家の家庭事情、兄弟の関係や、親子の関係など、道端で倒れていた餓死者達に何の関係があったというのか。
「広場で衆目にその罪を知られるが良い。お前が子爵家のため、兄のために食料を横流ししようとした兄想いの人格者だったと、罪状も正確に布告しましょう」
安心しなさい、とメアリは続ける。
「死刑ではないし、見張りもつけない。刑の開始時点で、罰は受けたものと認める。だから、お前を助ける者がいれば、一日も経たずに自由の身となるでしょう」
餓死者が出るこの状況で、飢えた人々から食料を奪おうとした罪人だ。
しかも、飢饉の恨みを一身に背負う子爵家の人間。一日も持たないのは、誰でもわかる。
「満足でしょう? お前が、私情がために領民よりも兄とやらを優先した結果に、その身を委ねられるのだから。だから、わたしに感謝して、お前の孝行に付き合わされた民の飢えを思い知るが良い」
アントニーは、従容と刑罰を受け入れた――ように見えた。
この時、彼は確かに心から受け入れただろう。晒し者になるのは仕方ない。怒れる民に殺されることも。
単に、現実に民の怒りにさらされた時、彼がそのままの気持ちでいられなかっただけだ。
「さて、セス」
死せる予定の者を無視して、メアリはクリストファー公爵令嬢に声をかけた。
「ブルゼ子爵が我がウェールズ領の物資を掠め取ろうとしたこと、確認できたかしら?」
それが狙いだったことを、セスは即座に理解した。
自分がここまで連れて来られたのも、第三者、それも王国宰相であるクリストファー公爵家の娘という立場として必要とされたのだ。
大義名分の保証者として、極上である。
「状況を見るに、その可能性がとても高いことは認められます」
突然振られた話題にも、セスの返答はいつも通りだった。
ブルゼ子爵の手管、まず間違いない。そう思いながら、責任を取られぬよう断定をしない。
「可能性?」
それ以上の答えを期待して、メアリが確認する。
「私の立場では、これ以上のことは」
「そう、なら仕方ないわ。ブルゼ子爵の関与が可能性に過ぎないとセスが言うなら、宣戦布告を受けたとして討伐するわけにもいかない。ブルゼ子爵領を併呑できるチャンスだったのだけれど」
メアリの悪意が花開く。
毒を含んだ棘の上で咲く、悪辣な妖花の笑み。
「セス・クリストファーが、ブルゼ子爵領の領民を見捨てるという判断を下したのなら、仕方がないわ」
「私は何も――」
「そう、何もしていないわね。出来るはずのことを、何もしないだけ。その結果、不幸になる者が大勢出ようとも、幼い子供のように我が身可愛さに知らん顔。それが安全だと、本当に思っていて?」
メアリは、連行されていくアントニーを目で示す。
「周囲から、領主の座を奪うよう誘われるほどの能力がありながら、感情でそれを全て無視してきた」
「アントニー殿は、父親との間に約束があったと聞きます。兄との間にも深い事情が――」
「なるほど、話を聞けば理解する人はいるでしょうね。でも、そのおかげで餓えて苦しんだ人間にとって、それはどれほど意味があると思う?」
メアリの手が、セスの肩に触れる。
それは、すれ違いざまの一刺しだった。
「明日、もう一度尋ねるわ。周囲の期待を裏切り続けた者が、どのような結末を迎えるか。よく見て考えることね」




