病鳥の止まり木13
二日ほど、セスは黙ってメアリのそばで仕事を見ていたが、突然それは終わりを告げられた。
「わたしの仕事も見慣れたようね」
「見慣れるようなものではありませんが……」
何やら不穏なものを感じたセスはそう否定したが、メアリは構わなかった。
「そろそろ生活費を入れて貰わないといけないわ」
「では、後程公爵家から経費のお支払いを」
「セス、セス? こういったものは時価に左右されるの。今の西部では、安全な住まいと十分な食事というのはとても高価よ」
では、どうしろと。
セスが眉根を寄せて困って見せると、メアリは捕食花の笑みを浮かべた。
「体で支払って貰うわ」
セスは咄嗟に自分の体を抱くような防御姿勢を取ってしまう。
自分の見目について、正確とは限らないが、それなりに把握している。男装していても夜会で「後」を誘われることはあるのだ。異性からも、同性からも。
さてはメアリもそういう趣味が、と警戒したセスをよそに、メアリの執務室のドアが開いた。
体格の良い男達がぞろぞろと入って来て、もう一つ執務机が運びこまれ、一人分の作業スペースを増やしていく。
「セス、そちらを使って。机だけだから不満はあるけど、あなたに似合う机を選んだつもりよ」
セスが座るより早く、白い侍女がセスのお茶を机にセットした。
後は、着席するだけで事務労働が可能だ。
「初めからこのつもりでしたね……?」
「忙しいところに、名高い宰相の仕事を手伝っていたという人物が来たのだもの。立っているなら使わない手はないでしょう」
「いえ、しかし、私はあくまでメアリ様の評価のために派遣された公爵家の人間で――」
「あら、断るの? あなたの力があれば、餓死者が減ることを知りながら、見捨てるの?」
決断を促されてしまえば、セスの対応は決まっている。
自分に責任が発生しない選択をする――それを利用されている、とわかりながら、拒否できない。
「わかりました……。整理程度ならば手伝いましょう。これも評価に影響しますからね。人使いが荒い、と言ったところですか」
「人材の有効活用ができるという評価がつくのでしょう? デメリットがなくて素敵ね」
自分より年下の少女の面の皮の分厚さに、セスは理不尽なものを感じて肩を落とした。
****
その日、メアリの執務室に入って来たのは、黒髪の美しい女性だった。
公爵家の令嬢という立場柄、人の顔を覚える能力の高いセスは、屋敷内の人間はすっかり顔と名前が一致する。
その彼女にとって、これまで見たことのない人物となると、自然と注目してしまう。
向こうもそう思ったようで、美女の細い眉が珍しいものを見つけた角度になる。
ただ、お互いに職務中という意識のためか、それ以上の反応はない。
美女――アンナは、入室した目的を果たそうとメアリに美しい微笑みを向ける。
「メアリ様、ブルゼ子爵領の都市の件でご報告にあがりました」
「聞かせて貰おうかしら。ひどい有様?」
それはもう、と答えた美女は、肩をすくめて見せた。
「都市周辺の農村は壊滅状態ですわ。畑を捨てた農民が都市に集まって、残り少ない食料を奪い合うこと餓狼の如く。騎士や兵もそれを止めるような余力はありません。むしろ、その争奪戦に乗り出していて、騎士も農民も野盗も、獣と区別がつきませんわね」
報告の前に湯浴みが必要だった、と付け加えられた言葉に、セスは言葉以上の不吉さを感じた。
こびりつくほどの死臭の中を往復して来たのだろう。
「わたしのところへ転向を望んでいるのは都市だ、と聞いていたのだけれど……それ、都市として数えて良いの?」
墓地か何かではないか、とメアリは言いたげだった。
アンナは、全く同意である表情をして報告書を差し出す。
「実態としてはとても数えられませんわね。無法地帯、一種の魔境のようなものですわ」
「そういうのは実家だけで間に合っているのだけれどね。なるほど、ブルゼ子爵はそういう嫌がらせで来るのねぇ」
報告書をパラパラとめくったメアリは、そのままセスに手渡す。
「メアリ様、何度も申し上げた通り、私はあくまで部外者ですので、あまりこうした情報は」
「私に敵対的な西部諸侯の情報よ、情勢判断に必要でしょう」
「……ご協力ありがとうございます」
悪意をひしひしと感じるが、感謝をもって受け入れざるを得ない。
セスは自分の立場の弱さに愛想笑いが引きつらないよう心掛けなければならなかった。
その微妙な力関係を感じさせるやり取りに、アンナが微笑みながら入りこむ。
「メアリ様、そちらの方は?」
「アンナには説明する機会がなかったわね。彼女はわたしが次期西部統括官に相応しいか、王都からはるばる調査に来たらしいわ」
「まあ、そうでしたの。大変なお役目ですわね。うちはアンナと申します」
美女の綺麗な微笑みに、自分以上の卓越した偽装を感じながら、セスも一礼する。
「セス・クリトファーです。この度はお忙しいところに失礼しています」
クリストファーの名前に、アンナは呼吸一つ分だけ沈黙した。
情報を咀嚼し、記憶と参照し、対応を検討する。それに要した時間が呼吸一つ。
「では、そちらの報告書はぜひお読み頂きたいですわ。メアリ様の庇護下にない領地がどれほど恐ろしいことになっているか。その後のメアリ様の対応も含めて、良い見本になるかと」
セスの方も、それだけで、アンナの能力を推測する。
公爵家の人間だとわかる立場の人間で、それに驚きを見せない胆力を持っている。
「では、ありがたく」
報告書に視線を落としながら、セスはアンナの正体について考える。
その名を聞いたことはある。黒蘭商会という西部で急速に枝葉を広げる商会のトップが、その名を持つ美女だという。
詳しい容貌までセスは知らないが――ちらりと見ると、清楚に、しかしどこか艶めかしく笑んでいる――絶世の美女、との評には見事に一致する。
ウェールズ辺境伯家と昵懇だとは聞いていたが、今のやり取りはまるでメアリの忠臣のようだ。
しかし、ウェールズ辺境伯家での役職も口にしていない。とすると、ウェールズ家の表ではなく、その裏に従う者……噂に聞く秘密結社の人材か。
セスはそう判断して、顔を上げた。美女に対する態度は決まった。
そして、報告書の中身も把握した。幸いなことに、無難な話題には事欠かない。
「これは、ひどいですね。これが隣のブルゼ子爵領の状況ですか?」
野犬やネズミですら食べ物と見られる都市で、路上に転がる死体に、食べられた跡がある――というのは、最悪の状況を連想させる。
「メアリ様に押しつけようとするくらいですから、子爵領でも最もひどい地域だとは思われますけど、うちとしては控え目に書いたつもりですわ」
これで控え目なのか、とセスは疑ってしまう。
アンナが嘘をついている、という意味ではなく、この世にそんな状況が実在しうるのか、という意味で。
「ウェールズ家側から、ブルゼ子爵家への食糧支援など行ってはいないのでしょうか」
メアリに視線を向けて問うと、手元のハーブティーに砂糖を足すべきだと言われたような表情で首を傾げられる。
「それをする理由がどこかにあって?」
「人道的な理由があるかと」
「つまりはない、ということね。セスもよくわかっているようで安心したわ」
怪物に人道を説くのは無理があった。そればかりか、仲間扱いされてしまった。
セスは、手元の鏡にそっと目を落とす。頭痛を堪えるような自分の顔を確かめてから、仕方がないと気を持ち直す。
何らかの利益がなければ、怪物が人助けなどするはずがないのだ。名声なども十分な利益だとは思うのだが、血染めのメアリが悪名を気にすることはないだろう。
その点で言えば、紳士と言う評弁で利益を得ている父ならば――いや、父でも無理か。
実際、今回の西部の飢饉に対して、大いに同情を寄せつつ、理由をつけて遠巻きに眺めている。
領地が手に入るなら、明らかに危ない都市の転向も受け入れるだけ、父よりメアリの方がまだ人助けをしていることになる。
「さて、お喋りは楽しいけれど時間は足りないわ。アンナ、向こうの代表はどんな人物だった?」
「それはもう小物ですわ」
それは知っている、とメアリは困った風に笑う。
部下の軽口に、時間は足りないと言ったでしょう、と甘く叱るような顔。
「これは失礼いたしました。メアリ様と比べたら小物が多いものですから」
呼吸のように世辞を挟みながら、アンナは滑らかに説明を始める。
「ブルゼ子爵家の当主一族の一人ですわ。現当主の妾腹の弟、つまり異母弟らしく、ブルゼ子爵周辺からは嫌われている。ただし、有能さはこちらが上で――と言っても、現子爵との比較にすぎませんけれど――運営のわかる家臣や領民からは人気がありますわ」
「人気はどのように得たものかしら?」
「物資の管理と配給ですわ。子爵領全体が破綻していないのはこの弟の奮闘によるもので、ひどいところはブルゼ子爵が手を出したところ、その対比が鮮やかなので弟に人気が集まり――」
「兄である子爵が憤慨して、自分が悪化させた土地を押しつけた上で、わたしのところへ送ってしまえ、と?」
どこかで聞いたような話ね、とメアリの笑みがセスを撫でる。
「では、その弟は話がわかるのね?」
「はい。話は合わないとは思いますけれど」
「どういうことかしら。嫌な予感がするわ」
「ブルゼ子爵に問題が多いのだから、乗っ取ったら良いという声がそれなりにあるようですわ。うちがメアリ様の使いと知って、ウェールズ家の後ろ盾があれば乗っ取りも簡単だと進言する人もいましたけれど」
だというのに、その弟はブルゼ子爵の言うことを律儀に守っているという。
「ああ、それは……話が合いそうにないわね」
「そこまで出来の良い花でもありませんので、ブルゼ子爵領という鉢に飾るにはもったいないかと」
「わかったわ。その方向で話を進めて頂戴。どれくらいでわたしの出番が来ると思う?」
「すでに仕込みは始めておりますので、五日ほどお待ち頂ければ」
日時を聞いて、メアリがセスの顔を眺める。
何やら物騒なことを話し合っているのは間違いないのに、美しく見える妖しい顔だとセスは思った。
「セスは、王都にはいつぐらいに帰りたい?」
可能なら今すぐ、とセスは内心で思いながら、ご随意に、と正反対の言葉を口にした。
自家の兵を全て兄に連れ帰られてしまったので、メアリが護衛を出してくれなければセスには帰る手段がないのだ。
「なら、もうしばらくわたしと同じベッドで我慢してもらうわ。その代わり、面白いものを見せてあげる」
「……お手柔らかにお願いします」
セスの願いが空しいものであることを、メアリの鈴が鳴るような笑いが教えていた。




