病鳥の止まり木10
「お前は出来が良いな、セス」
何気なく、父がそう漏らしたことをセスは覚えている。
彼女にとっての危険な言葉だった。誰と比べて出来が良いのか、セスの比較対象は限定されている。
クリストファー公爵家の当主が、軽々に漏らしていい言葉ではなかった。たとえ、二人きりであったとしても。
「役割が性に合っていただけでしょう。偶然です」
「そうか」
父は重大な考えがあって口にしたわけではない。そう表現するように、軽く頷いた。
しかし、その目は、真っ直ぐにセスを見据えている。人間とは思えない鋭さで。
「私は、クリストファー公爵家が必ず王国宰相を継がねばならない、とは考えていない」
この父の方針は知っている。
たとえ、それが上辺だけの言葉であれ、ノア・クリストファーはそれを公言して、紳士の偽装を堅固なものにしていた。
セスは、その中身が化け物であることを知りつつも、とてもそうは見えない父に感心しつつ会話を流す。
「はい。能ある者が、ということですね」
「そうだ。王国宰相という役職は王国のもの、手に余るのならば王に返せば良い」
「はい、宰相職を失っても、クリストファー家の領地がありますから」
セスの答えに、ノアも頷く。
「そちらは我が家のものだ。多少手に余っても、しがみついてよかろう」
「一族が飢える心配はありませんね」
「そうだ。三代は大丈夫だろう。だから、私は王国宰相を我が家が継ぐことに、殊更の執着があるわけではない」
全くないとは言わないが、とノアは付け加えた。
父親から継いだ役職への想い、一族の威信、理由もない己への自負。そんなものがノアの紳士の表面をなぞって、汚れもつけられぬまま消えていく。
「だが、今の王国で宰相を任せられる人材を見つけられていない。だから、私の後を誰に任せるかには、執着せざるを得ないのだ」
それを自分に話すということは、どういうことなのか。
セスは、コンパクトミラーを開いて、ちらりと覗いた。鏡の中、男装の少女の表情は人間らしく引きつっていた。
兄カインではダメなのか。いや、確かに兄の評判はそこまでよくない。
決して愚物ではないが、父には劣る、平凡だ、という陰口はセスもよく聞く。兄がそれで荒れていることも、自分がそれで注目を集めていることも。
しかし、父がわざわざ第二子のセスと、二人きりの時に切り出したのは何故だ。
そういうことなのか。公爵家の後継について、大きな変換をしようと言うのか。
右腕に震えが走る。服の下で、肌が粟立っているのが、見なくてもわかる。
セスは父親の顔から考えを読み取ろうとするが、品の良い穏やかさをまとった表情からは、その奥が見て取れない。
「……アンゲル侯爵家のご嫡男は、優秀と聞いていますが」
慎重に、言葉を差しこむ。この状況でこの言葉は合っているのか。
全く自信がないせいで、口の中が渇いている。
「サロンで言葉を交わしたことはある。彼で務まるのならば、カインでも務まるだろう」
「兄は……影で言われるほど、能がない方ではありません」
「隣国との戦争がなければ、カインでも務まるだろう」
ノアの言葉は迅速だった。セスは、自分が攻め立てられている心地になりながら、どこかで、流石は王国宰相クリストファー公爵、と感嘆した。
紳士という分厚い偽装は、泰然自若として揺るがない。
自分など、ひょっとしたら自分が後継にされるのではと思っただけで、ひびが入っているのに。
「王国の状況は難しい。東部と西部に負担が分けられているため、中央は安定している。だが、東西どちらかが揺らいだ時、中央がそれを支える力は大きくない」
否定はできない。各地の報告書から見えて来る王国全体のバランスというのは、中央貴族達が想定するよりもずっと不安定なものだろう。
セスはそれを知った時も、肌が粟立った。
なんと恐ろしい足場に自分達は立っているのか。これを支えようとするならば、それこそ神魔のような振る舞いが必要になる。
そして、人間は神になるより、悪魔になる方が容易いことを、セスは知悉していた。
それ以来、その手の書類から全体像の想像を避けるようにしている。
「今の王国宰相は、その時に備え、対応できる人間でなければならない」
セスは、父の言葉に沈黙しか返せなかった。
ハイと答えてどうする。その人間を探すのか。あるいは、その人間になるのか。
冗談ではない。自分は父や兄のような化け物になるつもりはない。それは幼い頃に決めたことだった。
父の視線から逃れるため、コンパクトミラーに視線を落とす。
鏡の中、眉尻を下げた不安げな表情の自分がいる。
「私もまだ引退を考えるような年ではない。十年二十年は大丈夫だ」
父は、温和な笑みを浮かべて、娘に対して優しく頷いた。
「ただ、私が王国宰相にたる人材を求めていることを、お前も覚えておいて欲しい」
その言葉に、セスは断頭台から解放されたような安堵感を覚えた。
それも当然である。自分が選んだ偽装は、クリストファー公爵家の第二子としてまとったもの。その分を超えた場所に立てば、全く力不足だ。
例えば、クリストファー公爵の後継ぎであるとか、王国宰相であるとか、そういった役目を負えば、容易く化け物になってしまうかもしれない。
父が、臆病な娘を心配そうに見つめている。その中に落胆があるような気はしたが、そんなことを気にしてなんか――
「嘘おっしゃい」
背後から伸びた白い手が、セスの頬を撫でる。
美しく、冷たい手だった。
「父に期待されたことで、今まで考えないようにしていたことが脳裏をよぎっているくせに」
なぜ、ここに。王都のクリストファー公爵邸に、彼女がいるのか。
絡みつくような愛撫に、セスの唇から小さく悲鳴が漏れる。
「ノア・クリストファーはあなたに期待した。王国宰相を継がせられる器はあなたしかいないと。けれども残念。あなたは、能力はあっても、心がなかった」
美しい声。
でも、妖しい声。
「醜い化け物になりたくないのでしょう? 人の命を弄ぶような化け物ではなく、身綺麗なまま、人間らしい仮面をかぶって一生を過ごしたい。それはとても贅沢な希望ね」
善女では決して出せない、人を惑わす魔性の音色で、白い手の主が囁く。
「あなただって、わかっているはずよ。あなたが継がなければ、後悔することになる。それを予感しながらも、自分が化け物になるのは嫌だと駄々をこねているのよ」
夢か。唐突にセスは悟った。
これは夢だ。
ああ、だから、自分の内心をこんなにも言い当てられるのだ。
そう思い、安堵して、しかし次の言葉だけは、現実から響いた。
「教えてあげる。あなたがそれを超えられるほどの、恐怖と嫌悪を」




