病鳥の止まり木6
血染めのメアリが、リッチモンド家の本邸に乗りこんだ。
その報せは雨季を迎えた植物の如く、見る間に枝葉を伸ばして周囲に広まった。
結果、連日嘆願を抱える者達が本邸に押しかけていた。
飢えた農民もいれば、在庫を抱えた商人もいる。寄付を求める神等教の聖職者もいれば、慈悲を求める諸侯もいる。
「農村についてはこちらで順番をつけて、人員を派遣しているわ。それ以上の対応は不可能。ただ、あなた達が別な村に移住するなら話は別よ。増える人手の分だけ畑を開墾して用意できる。……今すぐ食料が欲しい? その苦情は訴え先が違うわ。ダドリー・リッチモンドの墓は屋敷の外よ」
「治安が悪すぎて仕入れた商品を売りに行けない? それこそ治安維持でうちの騎士団は手一杯で、護衛は割けないわ。そうね……商人同士で話し合って、一つの隊商を組みなさい。まとめて一つの隊商ならこちらも護衛を出せるでしょう。ところで、家具の類ならわたしが見ても良いわよ?」
この辺は簡単な話だ。
無い袖は振れない、などという貧乏臭い台詞はメアリの趣味ではないが、実際にそれ以上の対応ができないのだから仕方ない。
家具だけは見せて貰うことにして、農村の代表者と商人の代表者をさっさと追い払う。
部屋付きの文官が、必死の形相でメアリの発言を領政の決定として文書化していく。
この文官の努力の成果が別室に手渡されて、別室の文官達のさらなる努力を滋養として、具体的な実りとなってそれぞれの代表者に後日手渡される。
とある農村では村人達が移住して廃村となり、別な農村では移住者を受け入れて一大生産地として盛り返して行くことになる。
とある商人達は、これを機会に商売を統合して大商会を作り、また別な商会は不得意事業を余所に譲り渡して業態の整理を図る。
危難の時に当たっては、平時ではありえないほど急速に物事が流れていく。
その流れに下手に逆らったところは、水底に沈んで二度とは浮かんで来られない。
『メアリ様、お茶をどうぞ』
次の陳情までのわずかな間、ジャンヌがお茶を差し出したので、メアリは軽く頷いて満足を示す。
カップを手に取ると、華やかな花の香りがメアリの顔を撫でる。
「あら、新しいブレンドのハーブティー?」
『はい。カミラさんから、元研究所の方達の研究成果だからメアリ様にお出しして欲しいとお預かりしました』
「香りは良いわね。味の方は……」
口に含んで、広がる風味を楽しみながら、悪くない、と瞼を伏せる。
夢に浸るような表情の中に、親より親しい相手にしか見せない、柔らかな笑みが浮かぶ。
「中々やるわね。カミラの下について早々に出した成果がこれなら、期待できるわ」
ジャンヌは、メアリお嬢様の発言を一言一句心に刻んで頷く。
「ただ、お茶としては鎮静の薬効が強いわ。もしも他に出すなら、その辺りに注意が必要ね」
『はい、カミラさんにお伝えします』
「ええ、任せたわ」
それより、とメアリは手を伸ばして侍女の髪を撫でる。
「良いタイミングでお茶を出したわね」
よしよしと、侍女っぽいムーブに成功したご褒美をあげるのだった。
色白の肌を赤く染める侍女を楽しんでから、メアリはもう一口お茶を味わう。
「さて、面倒事を片付けましょうか。次を通しなさい」
よく通るメアリの声に促され、文官が通したのは頬のこけた神等教の神官だった。
メアリが知る中で、痩せている神等教神官は初めて目にする。そのことを確認しながら、メアリはソファを勧める。
「どうぞ」
「メアリ様、無礼を承知で単刀直入にお願いする。あなたの富を貧しい者に分け与えて頂けませんか」
立ったまま頭を下げられ、メアリはちょっとばかりムッとした。人の台詞を無視してお願いとは、随分と良い度胸ではないか。
とはいえ、世辞や嫌味の一斉射をするような輩よりかはマシか、とメアリは嘆息する。
「座りなさい。それから名乗りなさい。あなたが無礼を承知したところで、わたしが無礼を容れるかどうかは別問題よ」
「……はい、申し訳ございません」
渋々と言った顔で、神官はソファに腰かける。
「私は伯爵領内で神殿を一つ預かるヨハンです」
「メアリ・ウェールズよ。今回は、領内の神等教を代表しての面会と聞いているけれど?」
「はい。ただ、神等教の中でも、私と考えを同じにする一派の代表となりますが」
「でしょうね。別口で面会に来た神官がいるわ」
肥えた神官だったとメアリが補足すると、ヨハンの痩せた顔に嫌悪が浮かぶ。
「メアリ様、もしその者達に寄付をするのならば、その分も我々にお願いします。あの連中は、貧しい者に分けるより多く自分達で貪るような者どもなのです!」
「そう。あなた達は、それを把握しているのね」
ヨハンの腹の底から絞り出すような訴えを、羽虫のように手を振って払う。そんなに力をこめて言われなくとも、当に知っている。
その程度のことも知らぬと思われているなら、血染めのメアリの名も随分と甘く見られたものだ。
血ではなく苺ジャムでも撒き散らしているとでも思われているのだろうか。メアリは首を傾げる。
「神等教は、飢饉の前からわたしのことを悪魔だ神の敵だと騒ぎ立てていたわ。今回の賊の乱に際しては、賊側に与していた。わたしが敵について何も知らないとでも?」
メアリがジャンヌに手を出すと、すかさず紙束が手渡される。
それを、ヨハンの前のテーブルに放り投げる。
「わたしが各地の声に答えて送り出した支援と、各地の神等教がそれを神の名の下に徴収したことについての報告よ。支援物資の流れを追えた分だけだけれど、それでも呆れるほど多くが、あなた達の神の膝元で消えたようね」
メアリに救援を求めた者達の中には、神等教に物資を奪われたことをしっかり記録している者達がいたのだ。
恨みに裏打ちされた熱心さで、炊き出しの様子も厳重に調べ、神殿に増えた装飾や、神官が隠れて遊びに行った娼館まで追跡の手が及んでいる。
それと知らずに乱費に黒蘭商会を使ったところなど、丸ごと記録が残っている。
結果、メアリの手元に集まった悪意ある神等教への評価は、どこかの代官が受け取る賄賂など子供の悪戯に思えるほどの巨悪になる。
「あなたの神は、よほど強欲と見えるわ、ヨハン。わたしは槍を振るって人を殺したけれど、神等教の神は他人の糧を奪って殺すのが得意のようね?」
「違う! 違うのです、メアリ様! 我々は決して!」
立ち上がって叫ぶ痩せた神官に、メアリはあっさりと頷く。
「そうね。あなたは常に可能な限りの物資を貧者に与えた。炊き出しも自分の食べる分を増やしたりはしなかった」
だからこそ痩せた神官に、しかしメアリは冷たい顔を向ける。
「でも、他の神官が強欲に奪うことを止めなかった」
ヨハンの立場では止められなかった。それはそうかもしれない。
自分のところで手一杯だったかもしれないし、宗派内での発言力も低かったかもしれない。神等教は、急速に拡大したせいか、王国西部において統率というものが取れていないように見える。
故に、誰にも止めようがなかった。確かにそうなのだろう。
そういった神等教側の事情、ヨハン側の事情は、メアリも認める。
認めたら利用するだけだ。
「わたしの神等教に対する評価とは、わたしに敵対して今回の戦火を煽り、飢饉で私欲を満たして民を苦しめた。為政者として、神等教を許せると思う?」
「それだけは、それだけはお許しを! メアリ様のお怒りはごもっともです! ですが、何卒……! 私の神殿に食うに困った人々が集まっているのは事実なのです! 何卒!」
ヨハンの痩せた顔は、ただでさえ悪かった顔色が死体のように青黒くなる。
それを見つめるメアリの表情については、はたで見守るジャンヌが、お嬢様が楽しそうで良かったと頷くようなものだと言えばわかるだろう。
「ねえ、ヨハン。神殿で保護している飢えた民に、食料が必要?」
「もちろんです。私と志を同じくする神官達のところには、いずれも多くの人々を抱えて、毎日ギリギリのところで生きながらえております」
だからこそ、血染めのメアリと悪名高い少女のところまでやって来たのだ。
これまでの神等教と彼女の関係を考えれば、虫の良いお願いだと重々承知の上で、それでも他にすがるべき藁もないのが、今のリッチモンド伯爵領だ。
血染めのメアリに伸ばした手が、まともな藁を掴めるとも思わなかったが。
案の定、というべきか。ヨハンが必死に掴もうとしたものは、人助けに相応しいとは言えない代物だ。
「ならば、条件をつけましょう。あなた達がそれを守る限り、メアリ・ウェールズの名において、あなた達の神等教を庇護しても良い」
「お伺いしましょう……」
ヨハンは、悪魔に契約を持ちかけられた面持ちで唾を呑む。
対して、メアリはお茶の注文をしたような顔で返した。
「自分達の手で、私服を肥やす神官どもを始末なさい」
「それは……」
神を罵る言葉を吐くように、ヨハンは恐ろしげに呟く。
「それは、私達に手を汚せと?」
「今さらその手が綺麗だとでも?」
今回の騒動において、神等教のおかげで広がった傷口もあるのだ。
死者の返り血など、とうにヨハンの手にもこびりついている。
「粛清でも異端狩りでも神罰でも、何でも良いから、神等教とやらの姿を身綺麗に整えなさい。嫌なら結構、飢えた信者を抱えて神に祈っていなさい。あなたに渡さなくても、昨今は食料の支援先に全く困らないの。驚くべきことだと思わない?」
ひどい話だ。ヨハンはそう思った。藁をも掴む心地で、この少女の眼前に立った。
だが、自分が手を伸ばしたのは、肉を刺し貫く棘だったのだ。こちらから手を放そうにも、すでに棘は掌に食い込み、絡みつきながら這いあがっている。
「わかりました……」
神殿で帰りを待つ人々のため、また志を同じくする仲間達のため、ヨハンはメアリ・ウェールズの悪魔のような契約を呑むしかない。
「迅速な動きを期待するわ」
悪魔の方は、思ったより簡単な契約だったと話を畳む。
「それと、何らかの技能を持つ者がいないか調べて報告しなさい。畑を増やすから単に働く意欲があるだけでも良いけれど……ともあれ、全員にタダ飯を食べさせるだけの余裕はないわ。こっちでも置く場所を探すから、そちらも拾い上げる準備をしておいて」
こちらの方がむしろ面倒だという表情――もちろん、手間暇を考えれば面倒に間違いない――で、メアリは額を押さえる。
「そのようなことまでお願いできるのですか?」
「そうでもしないと、食料がいくらあっても足りないでしょう。ウェールズ家とて無限に備蓄があるわけじゃないわ」
それはヨハンも承知している。
全体を把握しているわけではないが、すでに神の奇跡か悪魔の所業かと訝しむほど、ウェールズ辺境伯領からは物資が掻き出されているのだ。
「いえ、そこまでして頂けるとは思わず……こちらとしては、多少でも食料を回して貰えればと」
「あら、ひょっとして、このメアリ・ウェールズを安く見ていたのかしら?」
舐められたものねと、メアリは笑ったが、その目にははっきりと怒りが見て取れる。
「あなたがわたしの出した条件を守るのであれば、あなたの神等教はメアリ・ウェールズの庇護下に入る。このメアリ・ウェールズが、庇護下にある者を悪戯に飢えさせるような無能者だと言いたいの?」
怒れるメアリ・ウェールズに慌てて低頭しながら、ヨハンは自分が掴んだものが、痛みを伴うものの、藁とは比較にならぬほど頑丈な代物であるように思えた。
それからふと、酒場で語られるような冗談話を思い出す。
そうだ、悪魔は契約を悪用するが、それは契約文の解釈を利用したもので、契約自体は律儀なほどに忠実に守る。
やはり、メアリ・ウェールズは悪魔に違いない。ヨハンは、身震いと共に確信した。




