妖花、咲く4
ジャンヌは、自身の急激な変化に戸惑っていた。
まず、ひ弱だった体についてだ。
つい数日前まで、呼吸さえ気をつけなければ咳きこんでしまうほどだったと言うのに、今は収穫されたジャガイモ一杯の袋を軽々と担ぎ上げることができる。
なお、袋はジャンヌの体よりも大きい。
カミラの提案で、体の調子を見てみようと庭の畑作業を任された時は、村で見たどんな力持ちより強くなった自分に驚いたものだ。
だが、カミラからしてみれば、第一世代の種に適合したなら当然だ、となるらしい。
その第一世代とは何かと聞いてみたら、寄生した魔法植物の強力さを示すのだそうだ。
原種に近い魔法植物ほど能力が優れる反面、宿主に求める負担も多く、十分な栄養を与えられない場合は宿主を取り殺してしまうという。
並みの人間にとっては過剰なほど栄養を必要とする植物ゆえ、その栄養を賄いきれる宿主には長生きしてもらおうと、並みの人間では到底敵わない利益を返す。
「例えば、心臓を槍でぶっ刺されても蘇生させるとかね」
旧帝国が探求した不老不死の超人の一つがこれであり――などとカミラは酒臭い息を吐いて言っていたが、ジャンヌにはよくわからないことだった。
ただ、わかったことがある。メアリ様がまたジャンヌごと敵を殺そうと思った時、自分はあの時のように心臓を刺されても死なない。
何回でも使ってもらえる!
体が頑丈なことは誠に素晴らしいことだとジャンヌは拳を握った。
そして、変化はジャンヌ周辺の環境にも言える。
昨日まで農村の、貧乏とまでは言わないが、農村相応の生活をしていたジャンヌが今いるのは、貴族の別荘である。
出される食事は、やっぱりここは天国だったと思えるほど美味しいものばかりだし、渡された着替えは一生着ることがないはずの上等なものだった。
サイズがないからこれで我慢してと用意された着替えは、どうやら侍女服であるらしい。これで畑仕事をして、と言われて、汚したら大変だとジャンヌは慌てたが、作業着だから汚してなんぼの服だとカミラに笑われた。
実際、屋敷の庭にある畑をジャンヌと同様にお世話する人達も、ジャンヌと同じ服を着ている人がちらほらと見える。
彼女達と一緒にジャガイモの収穫を続けるジャンヌに、屋敷の外に拡がる森から咆哮が響いてくる。
視線を送ると、森の木々を踏み倒して、高さで三メートルを超える巨大な猪が姿を現した。
魔物だ。
「でかぁい! あれはハンマー・ボアかな? やったね、あれ美味しいんだ!」
猪の巨体にはしゃいだ声をあげているのは、ジャンヌの畑仕事を眺めていたカミラだ。お酒の入ったヒョウタンを片手に、まだ日も高いうちから赤ら顔をしている。
これもジャンヌにとって驚くべきことに、カミラは素面でいることがほとんどない。具体的には、素面の彼女をジャンヌが見たのは、最初の目覚めの時だけである。
忙しい農村ではそこまでたくさんのお酒を飲ませられないので、貴族というのはやっぱりすごいのだとジャンヌは感心した。
それにしても、お家みたいに大きい生き物だ。
ジャンヌは、森と屋敷の庭の境になっている薔薇の垣根越しに、自分を潰してしまいそうな巨体を見上げる。
立派な牙を生やした口を開け、響かせる咆哮は恐ろしいもの――だと思う。
すでに、ジャンヌはその辺りの感覚が麻痺してしまった。この屋敷に来た初めの頃は、森から響いてくる様々な音に、屋敷の中にいても震えていたのだが、屋敷の住人の誰もが「あれは美味しいやつ」「この声は食えないやつ」という反応ばかりだったため、ジャンヌも次の食卓を想像するだけになってしまった。
今回も、家のような大きさの猪が突進してくる轟音を前に、ジャンヌはどんな料理になるのだろうと首を傾げる。
――焼き物かな、煮物かな?
「あれだけ大きかったら猪フルコースだ、エールが美味いぞ、やっほい!」
カミラの叫びに、ジャンヌはなるほど、と思った。確かにあの巨体なら、焼き物でも煮物でも、どちらも好きなだけ作れる。
その巨体が、大抵の人間が絶望的な気持ちで見上げる巨体が、薔薇の垣根を容易く踏み越える――ことが、できなかった。
人の腰ほどの高さしかない薔薇達は、猪の巨体が殺傷範囲に入った瞬間、一斉にその牙を剥いたのだ。
茨を伸ばし、棘を長大にし、巨体へと殺到する。それは、騎兵を殺す槍衾の光景に似ていた。
到底止められるとは思えない質量兵器が、串刺しにされて押し留められる。一度止まってしまえば、絡みつく茨が二度とは前進させない。
次に猪があげたのは、断末魔の悲鳴だった。
すごいなぁ、とジャンヌはその光景を見つめる。
若干、慣れの混じった眼差しだった。
それもそのはずで、こうした襲撃は、毎日のようにあるのだ。先日、ゴブリンの群れが襲撃をかけて来た時は、しばらく悲鳴が鳴りやまなかった。
あんなに強力で、独りでに魔物を仕留めるような花は、農村にはないものだ。
これほど安全な場所は、ジャンヌにとってはやはり天国のように思える。
カミラが教えてくれたが、自分をこの天国のような状況に連れて来てくれたのは、メアリ・ウェールズ様だという。
騎士様だからお嬢様なんだと思っていたが、よもや領主様のご息女だとは思わなかった。
貴族はすごい人達のことを指すとは知っていたジャンヌだが、こんなにすごいとは知らなかった。
魔物の巣窟のような森のど真ん中にお屋敷があるなんて、すごすぎる。
生まれ故郷の外を知らないジャンヌは知らないことではあるが、もちろんこんな貴族は普通ではいない。
確かに、貴族とは戦う者、魔物が出れば討伐することを生業として成立している。そのため、魔物がやって来る方角に城塞を置いて蓋をすることはある。
だが、魔物の群生地に別荘を構え、二十四時間の防衛・狩猟体制を取っている貴族など類を見ない。
「おーい、ジャンヌー! あの猪の解体を手伝ってー!」
カミラの依頼に、ジャンヌはこっくりと頷いて侍女服の袖をまくり上げる。
少し前までの自分なら、あの巨体を前にして途方に暮れるしかなかっただろうけれど、今はもう違う。
他の侍女達が持ち出した大剣のような解体包丁を、自分も振り回せることを知っている。
ジャンヌが近づくと、侍女の一人が声をかけて来る。助かった、という気持ちにあふれた良い笑顔だ。
持っていた身の丈を超えるほど大きな鉄の塊を、自分より背の低いジャンヌに見せる。
「ジャンヌさ~ん。これお願いしてもよろしいですか? 私だと重くて、ちょっと」
『試してみる』
侍女から受け取ると、意外と軽かった。自分の身長より大きいので扱いづらいが、何とかなる。
『大丈夫』
「流石です。第一世代の方はやっぱり違いますね。では、刃先は私が誘導しますので、やっちゃいましょう」
侍女が刃先を持って、猪の喉元にぶすりと刺す。
「ここから、お尻の方へ、こうお腹を一気に、ばっさりでお願いします」
『わかった』
「あんまり深く包丁が刺さらないように気をつけてください。腸や胃が破れると大変なことになりますから」
『わかった』
ジャンヌは、二度大きく頷く。
本当に気をつけよう、そう思った。
「では、皆さ~ん、ジャンヌさんが一気にお腹を開きますよ~。離れてー、離れてー」
大木が倒れるかのような呼びかけだが、対象の大きさが大きさだけに間違っていない。臓物があふれ出して来たら、人が潰されかねない。
侍女が親指を立ててゴーサインを送って来たので、ジャンヌは、えいやと気合を入れて走り出す。
途端に、巨体を支えて来た強靭な筋繊維と分厚い脂肪が、食われてたまるかとばかりに抵抗を刃先にかける。
「あ、これ身体強化が抜けきってない感じですね。ジャンヌさん、無理しないでー」
魔法を帯びた生物、それゆえに魔物と称する。
大体の魔物は、身体強化の魔法で運動能力をあげている。巨体の魔物となれば、平時の生命活動すら魔法抜きにはこなせない生態になっている。
例にもれず、この猪も巨体の維持に魔法を使っていたようだ。死んだばかりで、魔法の効果がまだ継続している。
流石に切りづらかろうと侍女は心配したが、ジャンヌの小柄な体は、地面を強く踏み込んで抉りながら、止まらない。
「っ!」
巨体を頭から尻まで走り抜けたジャンヌは、最後に思い切り包丁を振り抜く。
包丁についた脂と血が、綺麗な弧を描いて庭に飛び散った。
拍手と歓声が、その場の侍女達から一斉にあがる。
「おおおぉ、一刀両断」
「ジャンヌさんがいると大物の解体が楽で助かるわ」
「臓物まみれにならなくて済むものね」
ありがたい、と感謝と称賛の言葉に包まれて、ジャンヌはぺこっと頭を下げる。
慣れない言葉にさらされて恥ずかしかった。感情を表現することに慣れていない顔が、ほんのりと赤くなる。
それがまた、侍女の方々にはたまらない。
「うわぁ、可愛い」
「わかる、お人形さんみたい」
「は~い、ジャンヌさんを愛でてないで、次は内臓を引っ張り出して、堆肥用に肉喰樹のところへ運んでくださ~い」
ぺちぺちと手を叩いて指示をだす侍女が、ジャンヌを後ろから抱きしめる。
「そしたら、次は首と足も落としてもらっても良いですか?」
『は、はい。ジャンヌにできることなら』
「ありがとーございますー! ジャンヌさん天使~!」
今、自分はとても役に立っている。そう実感して、ジャンヌは包丁を握る手にぐっと力をこめる。
後日、食卓に上ったイノシシ肉のワイン煮込みは、大変美味しかった。
カミラなんか、ワインも美味いと叫んでいた。