妖花、咲く37
足元の草も、薔薇の壁も焼き尽くす炎の渦の中にいるのは、ダドリー・リッチモンドだ。
現在の貴族・騎士のほとんどが、従兵を戦わせる他者強化に秀でている中、リッチモンド家は例外に当たる。
個人の戦闘能力を誇っているのだ。
「後続に伝令! 左右の兵は迂回して包囲攻撃! 正面の兵は我が炎の後に続け!」
大声の命令を押し通すためだろう、ダドリーは正面の地面に炎を走らせ、メアリまでの道を作る。
赤と緑の防壁に圧倒されていた後続に、それは士気を盛り上げる視覚効果を発揮した。
悲鳴に満たされていた軍勢から雄叫びがあがる。止まっていた進軍が再開する。
「流石にこうなると人数差が大きいわ。後退しながら応戦」
「逃がさんぞ、メアリ!」
指示を出したメアリめがけて、ダドリーの炎の砲弾が襲い掛かる。
高温の殺意に対し、メアリは踵を返しながら侍女に呼びかける。
「ジャンヌ」
声を持たない侍女は、主人にのみ了承を返して、炎の前に立ちはだかる。
捨て駒か。哀れな。
ダドリーはそう考えた。ジャンヌがそれを知れば、捨て駒は素敵な役目だとむっとしたことだろう。
そして、リッチモンド家当主という武威を前にした場合、ジャンヌは捨て駒というよりも、敵と呼びうる存在であった。
炎の炸裂が、蒼い壁に阻まれる。
それは、内にある繁殖器官を守るための花被に似ていた。ただし、巨大。
ジャンヌをすっぽり包む大盾のようなサイズである。
美しく透ける蒼い盾は、色白の使い手であるジャンヌの容姿も相まって儚い印象すら受ける。
しかし、自身を燃やそうとまとわりつく魔法の炎に対し、自身が守護する内側への危害は許さぬとばかりにこゆるぎもしない。
ジャンヌが蒼い盾を一振りすれば、不埒者を追い払うように炎を散らしてしまう。
ダドリーは、その事実をにわかには受け入れられず、思考ごと硬直した。
歴戦の騎士が相手ならばともかく、見るからに非戦闘員の、年端も行かぬ女子に完全に防がれるなど、なんたる恥辱。
先祖伝来の誇り、周囲をまとめあげるための名声、その根幹が揺らぐ。
「あらまあ、リッチモンドご自慢の炎も、家事が得意な侍女にかかればなにほどのものでもないわねぇ」
『家事は、まだまだ修行中です』
正直なジャンヌの申告に、ダドリーを挑発するために悪意満面にしていたメアリの笑みがちょっと崩れてしまう。
『そこは敵に教える必要はないわ。でも、次の冬は暖炉の扱いが上手になっているといいわね』
『がんばります』
健気な従者と鷹揚な女主人の会話が交わされる間に、ダドリーも硬直からは立ち直った。
しかし、動揺は拭い難く、メアリに向けてというより、ジャンヌに向けて炎を次々と放つ。
高温に肌がちりつくのを感じながら、ジャンヌは一つ一つ、丁寧に対処していく。
蒼い盾で受け、ステップを踏んで避け、周囲ごと焼き尽くすような炎は全身を蒼い盾でぐるりと囲んでやり過ごす。
戦闘の余波で、メアリの天幕が焼け、騎士団や園芸団の天幕にも火がついて行く。
丘の上はすっかり火の海だ。そこに、左右を迂回してきたダドリー軍が合流してくる。
メアリ達は、その圧力に押し出されるように、丘の上から追い落とされる。
――ように、見えた。
全体の詳細を俯瞰できる者がいれば、メアリ側の人員に損耗がないこと、あまりに後退の動きがスムーズであることに、作意を看破しただろう。
「派手に燃やすことが得意なのは知っているわ。でも、消火するだけの能はあるかしら」
計画通りに丘下に後退し、陣形を整えたメアリが合流したのは、金花園芸団の二十名。
この丘に陣取ってから三週間、好き放題にこの土地の植生をいじり倒した二十名だ。
彼女達は地に手をつき、ゆっくりと起こしていた最後の地形罠の制御権を、自分達の主人に謙譲する。
受け取ったメアリは、自分が最も信頼する側近の教育が確かであることに、満足の笑みを浮かべる。
「土壌養分は十分。根の範囲も十分。丘の火災も十分。さあ、あなた好みの環境よ」
笑みはそのまま邪悪さを増し、混沌を統べる女王として花開く。
それは比喩であり、直喩。メアリ・ウェールズは、自身に植え込まれ、血肉をもって生育させた女王の花に、開花を許した。
メアリ・ウェールズの髪の花飾りが、ずるずると伸びる。
薔薇に似た髪飾りから棘が垂れ、黒髪とドレスを這ううちに、蔓の部分が現れ、木の部分が現れ、少女の全身へと絡みついていく。
それは薔薇であり、桜である。
根であり、果実である。
植物であり、女王の盛装である。
美しい魔王の姿のようであり、邪悪な女神の姿のようであった。
少女に芽吹いた女王が、配下の植物に命じる。
「起きなさい、花火炭樹【ナナツヒエンマ】。実りの時間よ」
植えられていた植物が、地面を盛り上げる。
それは丘を一周する規模で同時に、天の運行を無視する速度で一斉に。
地面を突き破った芽は、細い緑から太い茶へ。
踏み潰せそうな矮小さから、見上げるほどの壮大へ。
本来の生育過程を無視する不遜なる強権の発動だ。
支配者から被支配者への神域の絶対命令。
逆らう者は一族郎党尽く根切りにする傲慢なる魔性。
だが、この傲慢なる支配者は、同時に有能でもある。
あり得ない事象を強要しつつも、拝命者が忠実であれば、不可能な命令はしない。万能の神秘である魔力を湯水のごとく注ぎ込み、自然真理を捻じ曲げるだけの力を配下に振る舞う。
討伐を命じた騎士に槍を与えるように、丘を包囲することを命じた樹木に膨大な魔力を与える。
「っ、流石に、持っていかれるわね……」
メアリの顔色が青ざめる。
体内の混沌花が、不足した対価を贖おうと宿主の血を吸っているのだ。
「血よりも先に、剪定しなさい」
宿主を食い尽くそうとする寄生植物に、メアリは自分こそが女王だと命じる。
幾人もの女王候補ができなかった命令を、メアリだけはできる。
混沌花は、日頃から宿主の養分を使って咲かせていた花や果実を干乾びさせ、そこに蓄えておいた養分を魔法の行使に当てる。
女王の絶対命令は、丘を一つ完全に覆いきる樹木の檻として完遂された。
メアリを追って丘の上を駆け上がり、駆け下りようとしていたダドリー派は、その七割が樹木の檻に囚われた。
ダドリー・リッチモンドもその一人だ。
「無駄だ、メアリ! 植物など、リッチモンドの炎で全て焼き払ってくれる!」
「あら、止めておいた方がよくってよ」
メアリの忠告が、遮る樹木の向こう、ダドリーまで届いたかどうか。
いずれにせよ、メアリの正面の木が数本、まとめて炎に包まれる。
「ああ、やってしまったわね」
それを見たメアリの表情は、食虫植物に囚われた虫を見るそれだった。
花火炭樹と呼ばれる樹木は、森の放火魔である。
彼等は、土中と大気中から可燃物をたっぷりと吸収し、体内で合成し、蓄積する。
溜まったものは葉や樹皮、そして果実として身にまとい、周囲にばら撒き、一帯を燃えやすい環境に変えてしまう。
なぜ、そんなことをするのかと言えば、繁殖がしやすいからだ。
通常の森は、多種多様な植物が生えて、日光や土中の養分の奪い合いが絶えない。
それぞれがそれぞれの特性を使って、毎日毎時略奪戦を続けている。
そんな中で、落雷か魔物の闘争か、なんらかの事情で山火事が起きて、全てが灰燼に帰す。
それまで隆盛を極めていた大樹が燃え落ち、灰に含まれた栄養が土に流れ込み、日光が地面まで届く。
さあ、全ての生存戦争が一からやり直しだ。
花火炭樹。
この木は、この一からやり直しというルールに、ある一面の特性で優位に立とうと進化してきた種になる。
すなわち、耐火・耐熱性能。
他の植物が、偶然に生き残った種、あるいは外部から新たに運ばれてきた種でやり直すのをよそに、純粋に火事を生き延びる種、あわよくば樹木自体も生き残ろうと進化したのだ。
その他の多くがルール外の一撃と定義している火災を、ルール内へと取り込んでしまったのだ。あまつさえ、火事が起きやすい環境を作り出し、攻撃手段にまで。
今も、油分をたっぷり含んだ樹皮が、高温にあぶられて破裂する。
葉も、果実も、身を焼く炎を喜ぶように破裂し、蓄えた油分を雨のように撒き散らす。
炎熱の豪雨だ。
上がる動物の悲鳴は、すなわち繁栄の吉兆。
もっと燃えろ、まだまだ燃えろと森の放火魔は生育過程で持ちえた全燃料を放出する。
元来た道を戻ろうとする者達ももう遅い。
あちこちの天幕が燃えている以上、放火魔にとって炎上は容易い。すでに、丘は花火炭樹が子孫繁栄を願うためにしつらえた生贄の祭壇と変わらない。
その地獄の祭壇の有様を、花火炭樹の感覚と同調したメアリは、注意深く探る。
流石に、この状況下では植物から入手できる情報も制限される。感覚を繋いだ先から、炎によって断絶されてしまう。
それでも、メアリは捉えた。
この状況下でも生き残りかねない、強い個体の存在。
『敵将を仕留める。総員、体を明け渡しなさい』
メアリは、配下の薔薇騎士五十人と同調する。
この瞬間、メアリの部下五十人に自由は存在しない。
彼女等は、主人であるメアリに五感の全てを支配され、薔薇槍を構える動き、呼吸の一つまでその命令に従っている。
『ジャンヌ、あなたも使うわ』
『はい。いつでも、ご自由に』
しかし、その誰にも不安はない。
同調したメアリの意識は、あまりに大きく、あまりに鋭い。
焼ける草の苦しみ、燃える木の喜び、そのただ中でのたうち回る動物、動物の混乱を抑えようとする群れの長、なす術もなく倒れる動物、全てを諦めた動物――そして、ただ一心に敵を殺すことを思い定めた狂った動物。
目の前の花火炭樹が、進化の末に得た能力でも耐えきれない量の炎を浴びて倒れる。
倒したのは、炎を一点に注いで放ち続けたダドリーだ。
自身が炎を操るだけあり、なにもかもが焼け焦げる中でも火傷らしい火傷を負った様子はない。油を浴び、煤で汚れてはいるが、戦闘力は依然高い。
単純な、外側に布陣した薔薇騎士達の視覚情報だけならば、それは驚愕すべき事態、ダドリーがすかさず放った火炎弾は、不意打ちになっただろう。
だが、メアリはダドリーの動きを事前に察知し、予測していた。
火炎弾が放たれると同時に、ジャンヌの能力である蒼い盾が展開されている。
さらに同時に、薔薇槍が十本、一斉に投じられている。
それが第一射。続いてさらに十本が第二射。そして第三射――四射目は、構えられたまま、放たれることはなかった。
ダドリー・リッチモンドは、無数の槍を生やした状態のまま、炎の中に呑まれていった。
『主目標の排除を完了。檻の中はすでに脅威無し。檻の外の敵も逃散を確認』
接続した意識で、メアリは配下に告げる。
『諸君、ご苦労だったわね。当然だけれど、わたしの勝利よ』
メアリの支配が途切れた後、薔薇騎士五十名、金花園芸団二十名は、大歓声をもって自分の主人の偉大さを讃える。
讃えられた当人は、賞賛を当然のものとして受け止めながら、消耗した体を支えるために杖代わりのものを抱き寄せる。
「はぁ、流石に疲れたわ。貧血なんて先代女王と戦った時以来じゃないかしら。丁度いい支えがあってよかったわ」
大歓声の例外となった侍女一名は、その偉大な主人にぎゅっと抱きしめられて、直立不動で杖の代わりを務めた。




