妖花、咲く36
メアリは、リーシル子爵領の端っこの方で優雅にお酒を飲んでいた。
メアリ派の領地側の端っこではない。ダドリー派の領地に近い端っこだ。
リーシル子爵が亡くなり、ルイを後釜として押し出したメアリは、暫定代行領主に軽い打診をするだけで子爵領を自由に行き来できるようになった。
「まあ、こんなところまで来たかったわけではないのだけれど」
本当は慣れたバロミ男爵領の方で待ち受けようと思っていたのだ。
ところが、アンナからその予定を崩す知らせが届いた。
「思った以上に敵の行軍が遅れています。このままだとメアリ様のところまで来られないかもしれませんわ」
「え?」
お嬢様も、これにはびっくりして数秒固まった。
どうしてそうなっているのかと詳細を求めたら、道中の荒れ具合がメアリの想定以上であったことと、従軍している家臣団の士気低下が著しいこと、この二点が組み合わさってグダグダなのだそうだ。
「家中の統制くらいはしっかりしなさいよ」
まるで母親のような文句を口にしてしまってから、メアリは不服そうに唇を尖らせる。
「仕方ないわね。こちらから足を運んでやろうかしら」
心底面倒そうに溜息をついて、メアリお嬢様は立ち上がって、てくてくとここまでやって来たのだ。
お弁当がもったいないから供回りも最低限で、お気に入りの侍女と、薔薇騎士団の直卒一番隊五十騎、陣地構築用に金花園芸団二十人だけ。
陣地の構築を行って万全で待ち構えてやろうと早めに着いたのは確かだったが、それにしてもダドリー達は遅かった。
待っているだけではもったいないと、今後の統治のために周囲の視察をし、園芸団に荒れた畑の手伝いをさせても、まだ来ない。
「遅いわね。この忙しい時に、あろうことか暇を持て余して来たわ」
嘆息で吐いた空気を吸う代わりに、くっとお酒をあおる。
空になったグラスに、お気に入りの侍女であるジャンヌはお代わりを注ぎたそうに身じろぎしたが、メアリが止めた。
「動かないの。そのまま、顎をもうちょっと引いて、うん、そう」
言われた通り、ジャンヌは侍女らしい物静かな佇まいを取らされる。
その背後には、草木が絡み合ったアーチが作られている。丁度、貴族の屋敷に作られる庭――の一部のようなものを、メアリの魔法が作っているのだ。
暇を持て余したお嬢様は、天幕の中、お気に入りの侍女を相手にインテリア研究に勤しんでいた。
今も、アーチに新しい草が伸びて来ては花を咲かせる。
「ジャンヌに紫は似合わないわね。青が一番似合うと思うけれど……個人的には赤が好きなのよね。いえ、素材がいいからどれもそれなりに似合いはするのだけれど」
困ったわ、などと呟いて、アーチに咲く花を次々と変えていく。
その表情は実に真剣だが、やっていることは貴族社会から見れば魔法の無駄遣いである。
もっとも、魔法を使える人材の多いメアリのところでは、一般的な貴族から見れば「無駄遣い」があちこちに存在する。
例えば、現在メアリが腰を落ち着けている天幕にしてもそうだ。
支柱は魔法で急成長させた樹木で、その間を蔓が網をかぶせたように繋ぎ、お化けのように大きな葉っぱが重なって内と外を隔てている。
外側に虫よけの香りを出す花を咲かせ、内側にメアリの好きな花を咲かせれば、一切の器具を持ち歩かずに設営可能な緑の天幕の完成である。
メアリ以外は独力では不可能だが、結社特製の栄養剤と、天幕用植物の種セットを持ち歩けば、薔薇騎士団の騎士達もできる。
金花園芸団にいたっては、その手の土木建築のスペシャリストでもある。
メアリの能力をフルに使った彼女達は、共同浴場に共同食堂まで設置し、耕した畑からは園芸団の魔力残量に応じて新鮮採れたて野菜が毎日収穫できるという、野営というより城塞に近い水準の生活を作り上げた。
園芸団は、いっそマジモノの城にするべきでは、という大胆すぎる拡張を具申したが、流石にそれができる前にダドリーが来るだろう、とメアリが却下した。
今となっては、一階建て宿舎程度の建物ならいけたかもしれない、とメアリも反省しているところだ。
「ん、もういいわ、ジャンヌ。ご苦労だったわね」
『これくらい全然です、メアリ様がお楽しみになられたのであれば』
忠誠心あふれる侍女を、メアリは手招きして頭を撫でてやる。
「何個かお気に入りの眺めがあったから、屋敷に戻ったら庭に再現しましょう。どこを変えようかしらね」
帰宅後の予定を考えながら、メアリは立ち上がって天幕から出る。
メアリ達が布陣した小高い丘の上には、心地よい風が吹いている。厳しい冬を越え、春から夏へと向かう、温かさを孕んだ風だ。
悪戯に黒髪を撫でて行った風に、困ったものだという態度で、メアリは髪を手で押さえる。
その眼下へと進んでくる三千の軍勢を、まるで無視するかのような仕草だった。
もちろん、無視しているわけではない。メアリの背後には、五十人の薔薇騎士と、二十人の園芸団が声もなく整列し、迎撃準備を整えている。
ただ、メアリは自分達の六十倍に達する敵を直視したくなかったのだ。
『メアリ様、敵がすごくバラバラです』
「言わないで頂戴。あの無様さは、わたしの美的感覚にひどいダメージを与えてくるの」
そう、ダドリー軍の行動はひどく不揃いだった。
リッチモンド伯爵家の騎士団はそれなりに揃っているが、それでもそれなりでしかない。アンナの報告通り、士気の低下が足並みに現れている。
リッチモンド家以外の貴族から派遣された騎士達はもっとひどい。
各地から苦しい内情を推して、最低限の義理として派遣された者達なのだろう。騎士も、その従兵も、だらだらとした足取りでリッチモンドの騎士団の後に続いている。
「美しさの欠片もないわね。うちの侍女達の方がまだ見られる整列をするわ」
ジャンヌで目の保養をしたばかりなのに、とメアリが嘆息を漏らす。
実は、メアリはちょっと楽しみにしていたのだ。
この丘に到着した時から、ダドリー軍がやって来て、自分に向かって整然と行進して来る光景は、さぞ見応えがあるだろう、と。
楽しみは台無しになった。後は、がっかりしながら敵を蹴散らすしかない。
六十倍の数の敵を。
「メアリ・ウェールズ!」
眼下、あまり見たくないものの先頭から名前を呼ばれたので、メアリは恐る恐る、ちらりと視線を向けた。
中々馬体のいい騎馬に乗って、一軍の先頭にいるダドリー・リッチモンドが剣の切っ先を向けて叫んでいる。
「お前の悪行はすでに満天下に知らしめられた! その邪悪な心のうちに、一片なりとも良心が残っているならば、罪を悔いて降伏するがいい!」
よく通る声に対し、メアリは隣の侍女に向けて話しかける。
「わたしはきちんと淑女教育を受けているから、あんな風に大声で人を罵倒するなんて、恥ずかしくてとてもできないわ。例えそれが、満天下に愚行を知らしめた人でも、本人を前にそれを口にするなんて、可哀想でしょう?」
『はい、そう思います』
忠実な侍女は、いつも通り主人を全肯定してこくこく頷く。
「だから、わたしからの返答は、これくらいしかできないわ」
メアリはジャンヌの態度に気分よく微笑み、くるりと身を回す。
軽やかに、優雅に、黒髪をなびかせ、外套の裾をはためかせて、踊るように回転する途中で薔薇槍をその手中に握り――その頃には、微笑みは獰猛さを帯びている。
遠心力をたっぷり乗せて、メアリは薔薇槍を投擲した。
下賤な賊を相手に、高貴なるメアリ・ウェールズは語る言葉を持たない。
なにか言いたいことがあるならば、かかって来い。そう言葉を込めた槍は、彼我の関係を穿つように、ダドリーの眼の前に突き立つ。
「愚かな、その少数で一体なにができる。伯父として差し出せる、最後の優しさだったものを……」
ダドリーは顔をしかめながら、全軍に丘の上への突撃を命じた。
ダドリー軍の構成は、旧帝国戦争時代に一般的になった戦術そのものだ。
一人の魔法使いを中心に、およそ十名から二十名の従兵が随伴する。この従兵の数は、中心となる魔法使いが付与できる身体強化魔法の有効数に依存している。
騎士(あるいは貴族)とは、ほとんどがこの他者への身体強化魔法が使える者で占められる。
戦時中、単体として強い魔法使いは、自身が最前線で戦うために次第に消耗して失われていったが、他者を強化する魔法使いは従兵を戦わせてその援護をする形になるので、損耗が少ない。
一個の戦闘だけを見ればわずかな差だが、長い戦争がそのわずかの差を大きな差にしてしまったのだ。
今も、魔法使いである騎士は、自分の従兵を前に立てて後ろから前進の号令を出している。
戦術上、当然の帰結でもある。強化魔法をかけている魔法使いが倒れれば、魔法の効果も消えるのだ。
強化されていない兵と、強化された兵の戦力差は絶対的であり、戦場の真っ只中で魔法が切れれば死ぬしかない。
だから、従兵は一握の納得のいかなさを抱えながらも、魔法使いの騎士を守るために前を走る。
従兵の前には、木の柵が設けられていた。
メアリがここに先に着いてから設営していた障害物だ。
「第一投、用意」
丘の上で、女主人の声に従い、薔薇騎士達は槍を肩に構える。
それを聞いて、ダドリーは鼻で笑った。
無駄なことを。あの程度の木の柵で兵の突撃が止まるものか。
騎士に抱えられた常備兵は無論、臨時で雇い入れた短期訓練兵ですら軽々と飛び越えるか、一瞬で柵を破壊してしまうだろう。
ダドリーの考えは、すぐに現実のものとなった。
従兵が木柵を乗り越え、あるいは斧や槌を叩きつけて砕くと、ほとんど立ち止まることなく突き進む。
「放て」
槍も投じられるが、そのほとんどが従兵によって打ち払われてしまう。
当たった槍もあったが、木の棒の先端を削って尖らせたような代物では、身体強化を受けた人間に怪我以上を与えることはできなかった。
所詮は小娘か。
ダドリーは自身も木柵を騎馬で飛び越えて、口元に嘲りを浮かべる。
結社とやらが恐ろしかったのは、毒や薬に長けていたからだ。それはダドリーも認める。
絡め手はまったく脅威だった。だがしかし、老練な政治家であった先代と違い、メアリはいかにも若い。
わずか五十名の戦力では、丘という地の利を得たところで一体どれほどの抵抗ができようか。
まったく力を使いこなせていない。やはり小娘なのだ。
「第二投、構え」
メアリが再度部下に槍を構えさせるのを見て、ダドリーは勝利を幻視した。
あの投擲を再度弾いてしまえば、第三投の前に乱戦に持ち込める。
柵を乗り越えた馬が着地し、一直線にメアリの下まで駆け上がろうとして、馬から放り出された。
「なんだ!?」
自身も身体強化をかけているダドリーは、空中で体勢を立て直して着地、すぐに振り返って原因を探ろうとする。
柵の裏に穴でもあったのか。ありえる。
悪辣なあの小娘のことだ、どんな小賢しい罠があるかわからない。気をつけるべきだった。
そうした一瞬の思考は、馬の姿を見て全て吹っ飛んだ。
馬の脚は血だらけだった。原因は、小さな鈎針のようなものを生やした蔓草だ。
鋭い鉤が馬の四肢に突き刺さり、蔓がいくつも絡んで身動きを封じようとする。
痛みに驚き足踏みする度、蔓は千切れるが、さらに多くの蔓が絡みついて傷は増えている。
そして、それは唖然と眺めたダドリーも例外ではない。
馬を助けようと着地姿勢から立ち上がろうとして、手に引っ掻いたような痛みが走る。手を見れば、強化魔法によって皮膚まで破られてはいないが、自分の体にも蔓草は絡みついている。
「まさか、一面にこれが?」
そうなのだった。
木柵を越えた者達は皆、足を取られて転び、この蔓草の罠に絡みつかれている。
この性の悪い草は、スガリ草と呼ばれている。
鈎針のような部分は種であり、動物の手足に種を突き刺し、自分だけでは辿り着けない場所まで種を運ばせようとする。
これを、金花園芸団が魔法で強化して、強化魔法を受けた人間すら絡めとるほど強靭にしている。
真っ先に飛び込んだ従兵は、突然に足を引っ張られて転倒している。
その背後で指揮を振るっていた騎士の守りは、この一時、薄氷よりも脆いものとなり下がった。
この状況を作り出したメアリは、隙を逃さない。
わざわざ敵に聞かせた号令とは異なり、本命の号令をメアリは音にしない。足元の植物を通じて、植物通信で命令する。
『狙いは魔法使い。手加減は不要。放て』
五十の投げ槍は、完全に統制されていた。
その投擲の鋭さと強さは、あえて手加減した第一投とは比較にならない。
空気をつんざいて飛翔する死の一棘。
それも、殺傷力の低い木槍などではない。薔薇騎士達が自分の血肉を与えて育てた魔物・薔薇槍だ。
騎士の一人は、回避も防御もできずに腹を貫かれた。
ある者は身をひねってかわし、腕を貫かれた。
咄嗟に剣で打ち払って弾いた者もいる。
その全員が死んだ。
腹を貫いた薔薇槍は、被害者の血肉を吸って体内に根を張っていく。
腕を貫いた薔薇槍も同じく、致命傷には程遠かった手傷を拡げ、侵略し、致命傷まで根を伸ばしていく。
そして、犠牲者から栄養を搾取した薔薇槍は、その余剰栄養源を使って成長のための魔法を発動、周囲の血肉を求めて棘の生えた枝を四方に射出する。
剣で槍を弾いた猛者も、味方の体内から湧き出た凶器に驚愕したまま貫かれる。
転倒した従兵などかわす術もない。
犠牲者が次の犠牲者を攻撃するための資源として消費され、木柵周辺はあっという間に狂暴な薔薇の群生地へと変貌する。
『以後、別途指示があるまで投槍を続行。魔法使いを優先して、薔薇槍で仕留めなさい。強化魔法を失った雑兵には木槍で対応すること』
どこに優先すべき魔法使いがいるかは、メアリが周囲の植物から情報を読み取って即座に指示を出す。
メアリの従属種である薔薇が群生した今、その情報精度は上空から俯瞰している状態に似る。
人体混じりに防壁のようになった薔薇の中を、縫うような正確さで次々と槍は投じられていく。その度に上がる悲鳴は複数で、即死できなかった者が上げる凄惨な絶叫は、後続の進軍を止める威力で鳴り響く。
一番士気の高かった先頭、ダドリー直卒のリッチモンドの騎士達が倒れてしまえば、元より士気の低い後続は中々前に進めない。
命を懸ける気などさらさらない臆病者など、いるだけ邪魔というもの。
三千の兵?
その実質のところは、果たして何分の一、何十分の一かしら?
さて、とメアリは腕を組んで丘の下を睥睨する。
初手はこちらが取った。一方的だ。このまま相手が逃げ散るならそれでいいが――
「ここで退屈しながら待った挙句、これで終わりだと物足りないわ」
メアリが口にした期待は、次の瞬間に叶えられた。
緑と赤に包まれた足止め陣地を、朱色の炎が切り開く。
その様子に、メアリは知らず知らずに口角を吊り上げる。
「あら、流石。武名を謳うだけのことはあるわね」




