妖花、咲く32
早速、アンナは各地へ黒蘭商会の馬車を走らせた。
まず、手をつけるのはダドリー派の領内にいて、メアリ派になびいている者達だ。そこからダドリー派領内へ情報をばらまくのだ。
「というわけで、ルイ殿。メアリ様から楽しい情報を預かって参りましたわ」
「アンナ殿が楽しそうですなぁ」
目の前の美女が楽しい場合、自分が同じように楽しいとは限らないと、ルイの態度は慎重だった。
実際、ルイの仕事量はメアリとの繋がりを得てから激増した。飢饉が起きたので仕方ないが、それでも元が暇な代官業務をしていたルイにとって、目が回るような忙しさだ。
今のルイは、リーシル子爵領内とその近隣領で、飯が食えればあおぐ旗はなんでもいいという連中のまとめ役になってしまっている。
子爵家の血筋だからとお情けのような閑職に回されていた無駄飯食らいが、いまやちょっとした盟主である。
「ルイ殿も、じきに楽しくなりますわ」
「あたしの楽しみは、愛娼の膝の上にあるんですがね」
「あら、毎度様。これを上手く扱えば、そのお時間も取れますわ」
ルイは後から知ったのだが、行きつけの娼館は黒蘭商会の傘下だった。どうやら前々から結社の経営だったらしく、黒蘭商会の統合と共に所有者が変わっていた。
素晴らしいことに、前よりサービスがいい。
「お楽しみの前の一働きというわけですか……。どんな情報です?」
前向きに話に乗ってきたルイに、ダドリーとメアリの間で交わされた文書の写しを差し出す。
宣戦布告の喧嘩売却文書と、それを賊軍の戯言と嘲笑した喧嘩購入文書であった。
「あ、これあたしが知らないやつです」
知らないうちに自領が開戦していたという事実に、ルイは冷静に驚いた。
それは、動転して驚くほどの知らせではなかった。
「ルイ殿はどう見てもメアリ派になってしまいましたから、リーシル子爵も情報遮断しているのは当然ですわ」
「ですな。ていうか、これ、まずあたし達みたいなメアリ派に転向したところから進軍されますよね」
「ですわね」
やっぱり楽しい情報ではなかった。
ルイは肩を落とすが、情報なしのままなら余計に楽しいことにはならなかったので、文句も出て来ない。
ところが、アンナの言う楽しい情報というのは、この後にあった。
「そこで楽しい情報ですわ。この状態で侵略してくる騎士団は、食料を一定以上持っていますわ」
「そりゃあ、持っていなければ進軍できませんからね?」
「それと、手持ちだけでは足りないので、現地徴発もするでしょう」
「ああ、しますね。指揮官が止めたところで、末端は略奪しますよ。この食料難ですから、いつもより盛大に」
ふむ、とルイはうなった。
視線を窓へと移したのは、その向こうに、今日もルイの代官地やその同盟者管轄地へ押し寄せている難民問題、援助を求める各地の食料問題を見つめるためだ。
「その楽しい情報を、難民や各地へ流せ、と言うわけですな?」
この情報を受け取った難民達は、騎士団に詰め寄るだろう。その食料を分けてくれと。あるいは、何故その食料を分けてくれなかったのかと。
各地の農村は、守りを固めて騎士団の通行・滞在を拒否するだろう。苦しい冬をなんとか乗り越えた各地に、他人に分けてやれるような気分はもはやない。
結果、対メアリ軍は道中で大なる妨害を受ける。
高い確率で攻撃さえ受けるだろう。メアリの勢力圏に一切の損害なしで。
「ダドリー派のお歴々、きちんと進軍できますかね?」
「場合によっては、害獣駆除用の毒餌もお付けいたしますわ」
アンナの回答は、まともに進軍させるつもりなどない、というものだった。
「まあ、確かに。メアリ様はご自分のところはきちっと統治しておられますもんね。よその八つ当たりの相手なんて馬鹿らしいことに、上手く治めている自分の支配地を付き合わせたくなんてありませんよねぇ」
そして、それはルイも全くの同感だった。
自分は今回の飢饉を、忙しなく動いて、主家を裏切ってまで乗り切ったのだ。ここまで苦労したのに、なんの意味もない(少なくともルイにとっては一利も一理もない)戦争なんかに管轄地を荒らされたくない。
ならば、どうするか。
情報を流すのだ。
できるだけ遠くへ、できるだけ敵側へ。
混乱を滋養とする悲劇が、その地で芽吹くように。
「ああ、やっぱり楽しい情報じゃなかった」
ルイは嘆息した。またしばらく忙しくなる。愛娼の柔らかい膝で休めるのは、次はいつになることやら。
が、しかし、やらなければならない。
やらなかったら、愛娼の膝枕が遠のくどころか、愛娼自体がいなくなってしまうかもしれない。
つまり、この不愉快な情報を、悪魔のように扱うしかないのだ。
この実際を、メアリとその側近はこう表現するらしいと、ルイも理解し始めている。
「避けられないのならば、精々楽しむしかありませんなぁ」
「ええ、そういうことです。ルイ殿のご手腕なら、この地域は問題ないだろうと、メアリ様も仰せでしたわ」
「そりゃあ流石に買いかぶりじゃないですかね?」
いえいえ、とアンナは微笑む。
「これだけの仕事をして、ルイ殿ほど顔色のよろしい方は他にいらっしゃいませんもの。ウチもメアリ様に同感です」
そうなのか、とルイは自分の顔をつるりと撫でた。
忙しい忙しいとぼやく代官は、この難儀な冬を過ごして、なぜか痩せることも変に肌が荒れることもなかった。
なお、お隣さんであるバロミ男爵は、少し痩せた。
****
リッチモンド伯爵領の小さな農村に、その難民は帰って来た。
「お前、生きてたのか」
迎えた村人は、口々に驚きを表現した。
その日に姿を見せたのは、村が飢えていく中で、最初に口減らしとして村を出て行った若者の一人だった。
その頃はまだ、余裕があった。
都市にでも行けば食い扶持くらいはあるさと、強がって若者が出て行ける程度には、農村には状況が伝わっていなかったのだ。
都市に着いてみれば、これは農村周辺の問題ではなく、伯爵領全体の凶作で、食料はこれからどんどん減っていくとわかった。
実際、都市には農村でやっていけなくなった人々が次々と流れ込んでいた。
ここにいてもダメだと、若者達はその都市からも離れた。
生まれ故郷と連絡を取ったのは、それが最後だった。
行くあてがあったわけではない。ただ、あっちに食料がまだある、という噂を聞いては、その方角へ歩き出す日々。
気がついたら、隣を歩いている者は同じ村の出身者ではなく、同じ噂を聞いた誰かになっていて、周囲は伯爵領ですらなくなっていた。
西部全体が飢饉に見舞われていると知ったのは、三つほど領地を越境した後だ。
神等教の神官が、炊き出しを難民に振る舞いながらしていた説教の中にあった情報だ。
この飢饉は神の罰である。罪深きウェールズ家の所業をお怒りになった神が、罰を下したのだ。
なんてはた迷惑な神罰だと、若者は神とウェールズ家に対して怒りを抱いたが、奇妙なことも知った。食料を豊富に抱えているのは、そのウェールズ家の所領なのだという。
悪魔であるメアリ・ウェールズが、周囲から略奪した食料を抱え込んでいるのだそうだ。
なんだそれは、と若者は思った。神罰が、とうの悪党にはなんの罰にもなっていないじゃないか。
一体なんなんだ、と思いながらも、若者はウェールズ領へと足を向けた。
罪深いだかなんだかわからないが、食料はそこにあるのだ。他の難民達も、彼と同じ考えのようだった。
難民の数はどんどん増えていき、それに比例して治安もどんどん悪くなっていくことを肌で感じた。その地域の騎士団や、同じ難民集団と衝突する数が増えたのだ。
顔見知りになった難民が次々と死んでいったし、若者自身も何度も死にかけた。
自分の運がいいとは、思わなかった。死んだ者を思うと、もうあいつはこれ以上さまよわなくていいんだなと、羨ましい気持ちさえあったのだから。
ウェールズ領まであと一歩というところまで来て、また神等教の炊き出しにありついた。
こいつらはどこでも炊き出しをしているな、と思っていた彼に、神官は言った。
これ以上進んではならない。忌まわしきメアリ・ウェールズは難民を虐殺して回っている。
なんだそれは、と若者は思った。
そんなの皆やっている。前の領でも、その前の領でも、この領でもだ。
騎士団の騎馬に追い回されたこともあれば、クワと鎌を持った農民だか盗賊だかわからない連中に襲われたこともある。逆に、自分がいた難民集団で襲ったことだってある。
違いをあげるとすれば、騎士団の殺しはぬるい。
何人か死人が出ればそれで十分とばかりに引き上げていく。農民や自分達の方がよほど徹底的に殺そうとする。
先にここまで来ていた難民にそうぼやくと、ごもっとも、とそいつも頷いてから、詳しい話を教えてくれた。
ウェールズ領まで行った難民集団は、一人か二人しか生きて帰って来られないらしい。
メアリ・ウェールズは徹底的に殺すんだ、とその難民は囁く。
なぜか楽しそうに笑いながら。
へえ、と若者も笑った。メアリ・ウェールズという悪魔は、自分達に近い感覚を持っているようじゃないか。
そうだよな。数少ない食料を、死にそうな空腹を抱えて奪い合っているんだ。殺すよな。徹底的に殺すよな。
わかるぞ、メアリ・ウェールズ。
難民達がメアリについて語る時に見せる笑みは、同類の犯罪者に対する共感を伴っていた。
炊き出しをする神官達を見る時の、ふてくされた表情とはまるで違う顔だ。
自然な心理である。
難民達の多くは、メアリと同じようなことをして来た。人を殺して来たのだ。
なのに神官どもと来たら、餌を与えながら人殺しは罪だと叱るのだ。楽しいはずがなかった。
神官達に反感を抱きながら、その差し出す食事で命を繋ぎつつ、若者は困った。
行くあてがない。食料がある場所はもう目の前なのに、これ以上は進めない。
死ぬ目には何度も遭ったし、死んだ奴を羨むほど苦しんではいるが、処刑台にわざわざ並ぶほど死に焦がれてはいない。
生きるためだけに、生まれ故郷から遠く離れたここまで苦しんで来たのだ。今さら自殺を選ぶような潔さは摩耗していた。
神等教の炊き出しも無限ではない。毎日のようにいると、そのうち騎士団が出て来て街から追い出される。
これも難民達にとって面白くなかった。
神官達は神の名の下に皆を救うと言いながら、その救いには人数制限があるのだ。嘘つきどもめ、と罵りながら、若者はあちらこちらの神殿をさまよう。
ウェールズ領を目前にした領地だけあり、難民はどんどんやって来る。
が、どんどん減っても行った。難民が一定以上に増えると、押し出されるようにウェールズ領に移動する集団が出て来るのだ。
それは、断崖に身投げに行く自殺者の行進だった。
若者自身も、何度かその行列に並びかけたことがある。
食料の奪い合いに敗れて、本当に死にかけた時、寒さのせいで病にかかり、意識がもうろうとした時、もう良いじゃないかと死神が囁く。
もう楽になっていい頃合いだ。お前はよくがんばったよ。そろそろ楽になろうじゃないか。
その度に、同じくらいに弱った相手から奪って乗り切った。
ますます神官の説教が嫌いになっていった。
そんなある日、いつになく神官どもの説教が白熱していることに気づいた。
あまりに熱心だったので、久しぶりにその内容をじっくり聞いてやろうという気分になった。
「ここの代官は悪魔に魂を売ったのだ! 確かにメアリは食料を持っている! だがしかし、あの悪魔は難民を決して許さない! じきにメアリ・ウェールズの手下どもがここへ来て、諸君を虐殺するだろう!」
どうやらここの代官は、メアリに頭を下げて食料を得ることを決めたらしい。
なんて羨ましい。頭を下げれば飯が食えるのだ。自分でもそれができるなら、地面に頭を擦りつけたっていい。
彼は心の底からそう思って、移動する準備を始めた。神官達の言う通り、メアリ・ウェールズは難民を殺すだろう。
自分だったらそうする。
食料を分ける時、人数は少ない方が分け前は増えるからな。若者は確信していた。
自分でもそうする、という納得とは裏腹に、もちろん怒りと憎しみはあった。
これから食料を得る代官や住人達、自分達を虫のように追い払うメアリ・ウェールズ。機会があったら殺してやる。
それが顔つきにも表れていたのか、若者に声をかけるものがあった。
「あなた、いい表情をしていますね」
女性の声だった。
それも、ここ最近聞いていなかった、余裕のある女の声だ。
若者が振り向けば、黒い蘭の花を髪に飾った身形のいい女が立っている。まだ若く、栄養もいいのだろう、健康的な美しさを身にまとっている。
簡単に野盗に転職する難民の集団の中にいて、無事でいるはずのない存在だった。
実際、男女を問わない難民達から、女は多数の視線を向けられている。
「ふんふん、この状況で中々肉つきがいい。優秀なようですね」
女は、若者を上から下まで眺めて、そう評価する。
確かに、若者はがりがりに痩せてはいない。そうなる前に、奪える相手から奪ってきたからだ。
それを優秀と評するのは、悪魔の手先と呼ばれる者達ぐらいだろうが。
不愉快そうに、またそれ以上に不気味そうに、若者は顔をしかめる。
「誰だ、お前」
「ご挨拶ですね。あなたが食べてきただろう炊き出しの一部は、私が運んで来ていたもののはずですよ? 今日の炊き出しなんか、ばっちり私のですし」
若者の反応に、女もむっとした表情で応えた。
「少しは感謝して欲しいものです。毎回毎回、襲ってくる連中をやっつけるのが面倒なんですから」
そこまでぼやいた女は、別にいいですけど、とすぐにどうでもよさそうな表情に戻る。
表情を戻せなかったのは若者を含め難民達だ。
若い女がいて、食料を持っているらしい。商人か何かだろうか。いずれにせよ、難民達にとっては、野盗に衣替えするには丁度いい相手だ。
「あぁ、やめてくださいよ。私、人殺しは面倒なんです」
若者の目に過ぎった感情を見て、女は目を細めて宣告した。それは、警告や威嚇ではなく、手間をかけさせるな、というお願いだった。
人殺しは嫌だとか、襲われるのが恐いとか、そういった意思は欠片もない。
ただ、人を殺すのが面倒だという、自分の都合を優先したお願い。
若者は、女のだるそうな目つきを見て、すぐに野盗になりかけた意識をひっこめた。
そうだ。そういえばさっき、この女は言っていた。「襲ってくる連中をやっつけるのが面倒」だと。
「誰なんだ、お前は」
先程答えを得られなかった問いを、より強い不気味さを味わいながら尋ねる。
答えは笑顔で与えられた。
「黒蘭商会所属の働き者の一人、ベイリーって言います」
商人というより、村娘のような軽さで、悪魔のように唇を開く。
「食料、欲しくありません?」




