妖花、咲く29
リーシル子爵領のルイから救援要請があったため、メアリは愛馬に跨って駆けつけた。
今回は農村ではなく、バロミ男爵の邸宅での顔合わせとなった。以前と同じ密談には変わりないが、今回は公然となっても構わない密談であり、秘密のままで終わるには大きすぎる結果が待っている。
さしものルイも緊張しながら馬から降りると、バロミ邸の庭に見慣れぬ騎士達が集まっていた。
初めて見たが、遠目でもわかる。ルイは唾を呑む。
すぐそこで騎馬を世話し、汚れた武具を洗っている女性達こそ、薔薇騎士団だ。今、王国西部でその悪名を鮮血で大書している、恐るべき死の軍勢。
ふと吹いた風に血生臭さを感じた気がして、ルイは急いで男爵邸のドアへと向かう。これから会う相手は、あの騎士達を率いる存在、ともすればそれは、死神と呼ばれる人物なのだ。
バロミ男爵に通された一室は、領主の妻の部屋だ。
そこに、緩いドレスを着たメアリがメイドに髪を整えさせていた。湯上りのようで、黒髪はしっとりしており、白い肌がほのかに紅潮している。
「くつろいだ格好で悪いわね。こちらも着いたばかりだったのよ」
「いえ、お忙しいところ、お時間を頂いてありがとうございます」
ルイは、自分の声が緊張していることを自覚した。
目の前にいるのは、美しい少女だ。ルイの好みからいえば幼すぎるが、薄着に湯上りという普段他人が見られない姿は十分な色気がある。
だが、ルイは少女に好意を抱くことに強烈な制動をかけた。
あれは美しい、確かに美しいが、毒を持つ花の美しさだ。そういう直感が働いたのだ。
「そちらも急ぎでしょう? このまま話をしても良いかしら」
「こちらに問題はございません。メアリ様がよろしければ、ぜひこのまま」
ん、とメアリは頷いて、ソファに座るよう促す。
動きで起こった風に乗って、華やかな薔薇の香りが漂う。メアリが入浴の時に使ったものか、香水か。
良い香り、そのはずだ。
ルイは、ごくりと唾を呑む。薔薇騎士を見た時より、固い唾だった。
心地いい薔薇の香りだが、その奥にはっきりと、死臭を感じた気がしたのだ。
気のせいばかりとは言えまい。今、目の前の少女が来客直前で湯浴みをしていたのは、ここに来る前に行った野盗討伐――あるいは難民虐殺――の汚れを落とすためだったのだから。
「それで、助けて欲しいということだけれど」
「はい、リーシル子爵領はもう滅茶苦茶です。難民があちこちで野盗化して、もうリーシル家では手に負えません」
「近頃よく聞く話だわ」
メアリは目を細めて笑った。悪名高き血染めのメアリの笑い方だった。
本来なら、好んで近づきたい存在ではない。悪名の旗の下に集うなど、周囲から攻撃される材料にしかならない。
だが、今は違う。今の王国西部は、血染めのメアリの旗の下こそが最も安定しているのだ。
「もうあたしだけじゃ手に負えません。メアリ様のお慈悲にすがるしかありません」
リーシル子爵家は、メアリ派の領地との流通を「やむを得ないこと」として断っている。
悪逆非道なメアリ・ウェールズとの関係を断つことは、神のご意思に叶うもので、正義の行いである。民も家臣もわかってくれるだろう。
リーシル子爵はそう口にした通り、実行したのだ。
結果、民も家臣も、全員が飢餓とはどういうものかを思い知った。
飢えた民衆は食料を求めて土地を離れ、望むものが見つかれば襲い掛かって奪った。
家臣は、襲い掛かってくる略奪者から秩序を守ろうと、あるいはより直接的には管理地を守ろうと悪戦苦闘を重ねた。
だが、それももう限界だ。
メアリ派からの援助がある分、各段にマシなルイの代官地と、そのルイと取引をすることで平静を保っている地域に、あふれた難民が集まりだしたのだ。
その数は、ルイやその関係者の保有する自衛戦力で対処できる量を超えている。
「リーシル子爵には、もちろん要請を出しましたよ。援助要請、救援要請、援護要請……この辺りは難民に食料その他を与えて穏当に帰ってもらおうって話ですが、まあ、無理ですね」
神等教に傾倒しているリーシル子爵は、その辺りの保障に熱心だった。
凶作が判明した初期から、すでに備蓄は各地へ配布している。冬に入る頃には、とっくに救援物資の類は払底していた。
難民に与えるパンはもうない。
「それができないなら、鎮圧要請、討伐要請……つまりは、難民を武力で追い払ってくれとなったわけですが」
リーシル子爵はこの要請に激怒した。
それではまるで、神の敵たるメアリ・ウェールズと変わらないではないか。我が領ではそのような極悪非道な真似は絶対に許さん。領主として命令する。難民に武力行使はまかりならん。
「というわけです。リーシル子爵家の庇護下では、あたし達はもう取れる手段がない」
「あとは、次々と辿り着く難民と住人との間で、全員に行き渡るはずのない食料の奪い合いでしょうね」
そして、最後にはここの住人達も飢えた難民の列に連なるのだ。
当然、代官や各集落の長は、そのような結末がわかっている命令に、粛々と従うわけにはいかない。職責からそう思う者もいれば、一個人として真っ平ごめんと思う者も多い。
彼等は、この天災の最中、人災を持って安定を維持している支配者の旗に頼ることを決意したのだ。
「メアリ様。この状況下で、我々はより頼れる守護者を望んでいます」
「ええ、良いでしょう。ただし、そのためには忠誠を誓ってもらわないといけないわ」
「心得ております」
ルイは、懐から上質な紙を取り出した。
それには、ルイとルイに助けを求めた代官や村長の連名で、リーシル子爵の支配下から離脱し、ウェールズ辺境拍家の庇護を求める旨が書かれた誓約書だ。
これがあれば、治外法権の他領とはいえ、「王国民から助けを求められた」という口実を使ってメアリが動ける。
最終的には国王の認可がなければ領地領民の所属が移行することはないが、宮廷へ働きかける第一歩になる。
満足そうに誓約書を受け取ったメアリは、口元の笑みに若干の酸味を混ぜてルイに首を傾げてみせた。
「言っておくけれど、やりたくてこんな急進的な方法を取ったわけではないわよ?」
「それは、あたしもわかっているつもりです。天災が起こった時に、うちの兄が人災を重ねただけ。ええ、それはわかっておりますとも」
ただ、とルイは連日諸々の要求を受け続けて疲れた顔で、大きくため息を漏らす。
「その余波であたしが迷惑をこうむっているのが、なんとも納得しがたいんですよ。ご存じの通り、困窮した民のためなら身を犠牲にしてでも……なんてご立派な志、あたしには欠片たりとも存在しないもんですから」
できるだけ楽に、それでいて面白く人生を送りたいだけなのだと、ルイは力強く訴える。
「これ以上に楽なやり方があるなら、進言して頂戴。わたしも興味があるわ」
「あるならとっくにご相談を申し上げていますよ。ええ、ほんと、メアリ様には感謝しかないんです」
それでも恨めしい視線をやめられないルイに、メアリは肩をすくめる。
「そこまでわかっているなら、良いわ。わたしを恨んで気が済むなら、好きなだけ睨んでおきなさいな」
メアリの言葉は、最近メアリ流に慣れてきたルイにしても意外なところを突いてきた。
「よろしいので?」
「行き場のない怒りでしょう? それは感情だわ。感情を失くせなんて無茶を求めるほど、わたしは横暴ではないわ。他に受け止めるべき相手もいないでしょうし、甘んじて恨まれるのが首魁の役どころね」
それに、とメアリは麗しい黒髪をかきあげる。
「中々目の保養になるでしょう? 睨む先としては、贅沢な相手ではなくって?」
「それはもう、これ以上なく」
全身全霊で頷いたルイは、もう恨めしい顔をしていなかった。
気晴らしに八つ当たりしてもいいよ、と言ってくれる権威者を見れば、八つ当たりしなくても気が晴れる。
メアリは、ルイの表情の変化に軽く微笑んでから、誓約書を侍女に預ける。ふと、ほっそりとした首が傾げられた。
「少し不思議なのだけれど、わたしが上手くやっていることをリーシル家の人間は知らないのかしら?」
「いえ、よく知っていますよ。おそらく、熟知しているうちの一つに入ります」
なにせ、血染めのメアリの悪名が一段大きくなる度に、リーシル子爵は語彙の限りを尽くして罵るからだ。
どのように野盗化した難民を討伐したか、熱心な親メアリ派の人間ほどに詳しいかもしれない。
メアリがしている対処は単純だ。
百の食料しかないところに、二百の食料の要求があった。ならば、百の食料分の人口のみを守り、それ以外の人口は食料を必要としないように処理する。
それが、野盗の討伐、あるいは難民の虐殺という形になる。
法的には問題ない。難民は不法に領土を離れ、かつ侵した犯罪者であり、しかも大半が野盗化した重罪人だ。
その効果のほども、明らかだ。メアリの支配地では、ほぼ例年通りの冬を過ごせているのだ。
「なら、同じことをすればいいのに」
「メアリ様、それがまた、難しいのですよ」
なにせ、野盗達は人間だし、それを討伐する側も人間だ。
人道、あるいは倫理、道徳や感情と呼ばれるものが、虐殺という単語に絶叫をあげるのだ。
「それは個人の感傷の問題でしょう?」
その無数の絶叫を、メアリはそのように表現する。
「一時の感情で、為政者が判断を誤ることは、とても滑稽だと思うけれど」
「それはそうなのですが……やはり、その決断を下すのは、自分だったら勘弁願いたいところですな」
あまりにはっきりと述べるメアリに、ルイはまさしく死神を目の前にしたように苦労して舌を動かす。
その普通の人間の言葉に、美しい死神は冷たい嘆息を短く漏らす。
「わたしは理性で人を殺すけれど、あなた達は感情で悲劇を起こすのね」
感情を失くせとは言わない、と紡いだ唇が、はっきりとした嫌悪をこめる。
「わたしの好みではないわ」




