妖花、咲く3
目が覚めたら、天国だった。
雲のようにふかふかのベッドに、花の香りがほのかに漂う。
肌に擦れる服の感触も、さらさらと滑らかで少しも気に障らない。
――ジャンヌも天国に来られるんだ。
善いことができた記憶はないけれど、悪いこともしていない。最後にあの少女の役に立ったみたいだから、そのおかげかも。
まだ半分ほど眠りの水に浸かるジャンヌの考えを確信に導くのは、胸の軽さだった。
生まれてからずっと苦しかった胸が、ぽっかりなくなったように呼吸の風を通している。まどろみの心地良さを漏らす吐息が軽い、それだけで贅沢なのだと初めて知った。
天国はすごい。
まどろみの中で、ジャンヌは感動した。
「あ、起きた?」
「――――」
びっくりした。
ジャンヌは二度寝に落ちかけた意識を急速浮上させ、眼を開く。
「ありゃ、起こしちゃった、の方だったみたいだね」
『い、いえ』
思わず首を横に振ったのは、ただの反射だった。
寝ている自分の手首を取って声をかけてきたのは、妙齢の女性だ。
流石は天国、とジャンヌは思った。ものすごい美人だったのだ。
金の髪をざっくりと束ねた美女は、オーバーサイズの白いワンピースのだぶつきで隠せないくらいスタイルが良い。
綺麗な人だとジャンヌの第一印象は固まっていたが、よく見るとちょっと残念なところがある。
金髪はなんだかぼさぼさしている、服ももうちょっとサイズが合っていた方が見栄えが良さそうだ。
ただ、陽に焼けた小麦色の肌と、子供っぽい笑顔を浮かべる彼女には、何とも似合って見える。全体的にゆるい空気を放っていて、見ていると落ち着く。
少なくとも、警戒するような相手には見えない。
『えっと……あなたは……』
「あたしはカミラ。メアリから君のことを頼まれてね、様子を見てたんだ」
そう言って、カミラは握ったままのジャンヌの手首を掲げる。
「脈は安定してる。君の心臓は元気一杯さ」
あはは、とカミラは笑う。やはり子供っぽい笑顔だ。
思わず、ジャンヌも笑ってしまう。
「お、可愛い。君、顔立ちが整ってるとは思ったけど、笑うとすごく可愛くなるね」
『そんなこと……』
美人に言われると照れてしまう。
「いや、ほんと、自慢できるレベルだよ、それ。メアリが気に入るわけだと思ったよ」
初めて聞く人名だが、ジャンヌはひょっとしたらと首を傾げる。
『それって、あの綺麗な騎士の女の子かな?』
「ああ、多分それで合っているよ。黒髪で眼が緑の女の子。メアリって意外と面食いなんだよ、知ってる? って、知ってるわけないよね、あはは」
ますます照れる。
あんなに感動させてくれた人に気に入られたなんて、とても嬉しい。
「ところで、君の名前は? あたしに預けて行った騎士も名前を知らないところを見ると、メアリも君の名前を知らないんでしょ? それってどうかと思うよね。でも、メアリってそういう子だよねぇ」
『えっと、ジャンヌ、だけど』
どうやって、それを伝えよう。声を失った少女は、困って首を傾げる。
どうやらカミラという女性は、とても察しが良いらしく、ジャンヌの言いたいことを完璧に受け止めてくれていたが、流石に名前までは伝わらないだろう。
文字で伝えようにも、ジャンヌは文字なんて書けない。
おろおろと目を泳がせるジャンヌに、カミラは笑顔のまま頷く。
「へえ、ジャンヌって言うんだ? よろしくー」
『え?』
「ところでさ、ジャンヌ」
思考が止まったジャンヌに、カミラは上手な芸を見たような笑顔でたずねる。
「さっきから声を出さないで言葉を伝えてくるのすごいね? 初めてなのに、やるじゃん」
『え?』
「ん?」
何かが盛大に食い違っている。
ジャンヌはようやくそれに気づいたし、カミラも何がしか察したようだ。
「えーと? ひょっとして、それ無意識でやってる?」
『ひょっとして、あの、これ、聞こえているんですか……?』
「あー、はいはい。うん、聞こえてるよー。いや、すごいな、君。無意識で植物通信できるとか、よほど適合率が高いんだな」
『しょくぶつつうしん……』
「うん、あたしらはそう呼んでる」
そう言って、カミラは自分も口を閉じて話しかけて来た。
『こういうのね。こっちのも通じる?』
『あ、はい、わかります……。本当だ、声を出してないのに』
『音なんて伝達手段の一要素だよ。色の違いを使った視覚でも、特定の香りを使った嗅覚でもできる。ちなみに、この植物通信の大部分は、直接接触した部分から信号を送っているね。離れた場合は香りだけになるから、これはちょっと速度と情報量が落ちる』
試しに、と言ってカミラがジャンヌの手首を放すと、確かに一気に伝わって来るものが減少した。
『質問。不便、便利』
『不便。困惑』
『同意、同意』
カミラは笑って、また手首を取る。
『こんな感じだね、わかった?』
『な、なんとか……』
ジャンヌはこくこくと頷き、それからどうにも自分が根本的に勘違いしているようなことについて、恐る恐るたずねる。
『あの、もしかして、ですけど、ここ天国では……ない?』
「は? 何それ?」
『あ、ご、ごめんなさい。その、ジャンヌはてっきり死んだと思っていて、お布団は柔らかいし、いい匂いだし、体は軽いし、あと、あの、カミラさんは綺麗だし……天国だと、ばかり……』
「ぶふっ」
美女が吹いた。
「て、天国! じゃああれか、あたしは君をお迎えに来た女神様か!」
本気でそう思っていたので、ジャンヌはこっくりと頷いて見せる。
「あははははっ、ないない、ありえないね! どっちかっていうと、あたしは悪魔だし、ここは悪魔で一杯の地獄だよ!」
『あ、地獄なんだ』
そっかーとジャンヌは受け入れる。
ここが地獄なら、話に聞いていた地獄よりずいぶんと居心地が良さそうである。
生前よりずっと良い、とジャンヌが頷いているのを、カミラが肩を震わせながら止める。
「ふふっ、はは! ま、待って、君、なんか勘違いを、あははっ」
お腹苦しい、と健康的な美女はお腹を抱えてとても楽しそうだ。
『地獄の悪魔って、話で聞くよりすごく明るいんですね』
「あはははははははっ!?」
思ったことをそのまま口にしたら、カミラはさらに激しく笑い出す。
苦しいからやめてーと言われたので、ジャンヌはとりあえず口を押えて頷く。
「ひぃ、はぁ……あぁ、笑った。流石、メアリが気に入って連れて来た子だよ。逸材すぎる、ほんともう、君、最高」
褒められた、とジャンヌは照れる。
逸材とか最高とか、言われたことがないので嬉しい。
「ええっと、それで、ああ……そう、君ね、すごい勘違いしているよ。ここは天国でも地獄でもないからね、表現するなら地獄寄りだとは思うけど」
『そう、なの? でも、ジャンヌは胸を槍で突かれて……』
「ああ、うん、メアリが槍で心臓を貫いたって聞いてるよ。うん、まあ、死んだか死んでないかで言えば、一度死んでるかな?」
でも、とカミラはジャンヌの心臓を指さす。
「君の心臓は、メアリが壊した。そのメアリが君を気に入って、生き返らせた。だから、まあ、今のジャンヌは生きているよ」
心臓を指さしたカミラの手がジャンヌの寝間着に触れると、シャツのボタンが外れて胸元が盛大にはだけた。
『ひゃっ……?』
ジャンヌは最初、カミラの突然の所業に頬を染めた。
しかし、すぐに違和感に気づいてそれどころではなくなる。
平均より慎ましい胸、その中央部分に、青い宝石のような石が埋まっている。
その宝石を指さして、カミラは言う。
「それは青晶花という魔法植物の種だ。まあ、正確にはその変異種でメアリのあれなんだけど……説明がすごいことになるからまた今度ね。とりあえず、ざっくり言うと、それが君の体に寄生して、怪我を治した。以上!」
多分、今ものすごく説明を省かれた。
世慣れしているとはいえないジャンヌでも、流石に察するほどのざっくりさ、だった。
『ジャンヌ、生きてる?』
「ああ、生きてるね。体はどう? 君に寄生したのは第一世代だ。メアリが適合すると判断したなら、快調すぎることはあっても、不調があるとは思えないけど」
確かに、ジャンヌの体は生まれてこの方感じたことがないほど軽い。
羽が生えているような心地ですらある。
『ジャンヌは、生まれた時から体が弱くて……お日様に当たったり、ちょっと体を動かすと、すぐに倒れていました』
「へえ? あ、その髪や目の色に、ものすごい色白な肌……ひょっとして、色素欠乏とかなんとか? ははぁん、なるほど、なるほど。人で見るのは初めてだけど、研究資料で読んだことあるよ」
『それは、なんかよくわからないです、けど……。でも、今すごく、楽です』
「はは、そうだろうね」
『これは、その、これのおかげですか?』
これ、とジャンヌは恐る恐る胸元の青い結晶――どう見ても植物の種には見えないものを指さす。
「うん、それのおかげと言うか、それのせいと言うかは個人の自由だね。ちなみに触っても平気だよ。どうせもう取れないし、そんな脆いものでもないから」
カミラは、おもむろに自分のワンピースの胸元を引っ張ると、その中身を見せて来る。
『ひゃあ……』
ジャンヌには存在しない立派な峡谷に、ジャンヌはまた赤くなる。
もちろん、見せたかったのは、その峡谷の間にあるものだとわかってはいるが、それにしてもすごい迫力だった。
「ジャンヌとはまた違う種だけどね、見える?」
『は、はい。金色だけど、ジャンヌのよりちゃんと種っぽいです』
「君のは見た目がまた特殊なやつだからねぇ。ああ、体に馴染むと、目立たなくなるから安心して良いよ。ほら、見てて」
カミラの言葉に従ってジャンヌが雄大なものを見ていると、皮膚の表面に浮かび上がっていた金色の塊と、その根のようなものが薄くなっていく。
「体の中に潜らせたんだ。ていうか、さっきのが表面に浮き上がらせた状態だよ。あたしのはもう完全に一体化してるしね。馴染めば、こんな風に言うことを聞かせられるようになるよ」
がんばれ、とカミラは笑う。
『が、がんばる?』
「そりゃあそうさ。これからの人生、長い付き合いになるんだからね」
『人生……ジャンヌ、本当に、まだ生きてる?』
頬でもつねる? とカミラに笑われたので、頬をつねったら、痛かった。
『生きて、る?』
本当に生きているらしい。
これからも、生きていくことになるらしい。
――どうしよう。
また、役立たずになってしまうかもしれない。そう思うと、恐怖が心臓を締め付ける。
そんなジャンヌを見て、カミラが背中を叩いて緩い印象の笑顔を見せる。
「なあに、第一世代のその種に適合したんだ。これからの人生で悩むことは九割メアリについてだけさ!」
なんだか物騒な言い方だったが、ジャンヌには効果てきめんだった。
特に、今後の人生で九割悩むことになるらしいメアリという人物の名前が。
『メアリ、様』
自分を、初めて役に立ててくれた人だ。ジャンヌの心臓は強く脈打った。
あの時の心地良さ、あの時の幸福。ジャンヌの人生で最も素晴らしい感情をくれた人。
もう一度、あれを味わいたい。そのためなら、また死んだって良い。
これは、贅沢すぎる願いだろうか。
ジャンヌは、恐る恐るカミラに尋ねる。
『メアリ様は、その、ジャンヌのことを、また使ってくれるでしょうか?』
「そりゃあそうだよ」
返事は、あっさりと、期待を汲んでくれた。
「メアリはわがままなお嬢様で、君はそんなメアリに気に入られたんだ。どういうつもりで連れて来たのかはよくわからないけど、そう簡単に手放してもらえないのは間違いないね」
本当だろうか。
あの人は、自分にそんな評価をしてくれるのだろうか。そうだったら、嬉しい。
生きていこうと思えるくらいに嬉しい。
だって、生きていれば、メアリ様にまた使ってもらえるかもしれない。
そう思うだけで、熱いものが腹の奥から湧いてくる。
生きよう。
その熱に、決意する。
メアリ様のために、生きるのだ。
「ま、なんかあったらあたしに相談しなね。同じ第一世代だから、姉……いや、従姉妹の方が近いのかな? まあ、とにかく、家族みたいなものだからね」
『ありがとうございます』
「まあ、お酒飲んでる時はあてにしないで! あははは!」
ひとしきり、ジャンヌがどんな状況かを説明したカミラは、意思疎通用に掴んだままだったジャンヌの手を放して立ち上がる。
「それじゃ、ご飯にしよっか、ジャンヌ!」
そう宣言するカミラは、先程までより十倍は輝く眼で拳を握る。
「なんたってメアリからよろしく言われているからね! ジャンヌは可愛いけど痩せすぎだって。あたしも見てそう思ったよ。君には美味しいご飯をもりもり食べる義務がある!」
『義務?』
「そう、義務だとも。君はご飯を食べて、健康的美少女になり、わがままメアリに可愛がられてご機嫌にするという重大な義務がある!」
なんという贅沢な義務なのだろうか。
やっぱりここは天国なのではなかろうか。ジャンヌは、もう一度自分の頬を引っ張った。
痛かった。