妖花、咲く26
面倒事は、ダドリー派として反メアリに熱心な地域で同時に、多数発生した。
まず矢面に立ったのは、黒蘭商会の会頭、アンナであった。隊商を率いて王都に向かう途中の領地で、神等教の神官に呼び止められたのだ。
「当商会が運んでいる食料を分けろと」
「その通りだ。今、この近隣では食料が不足している。お前達が食料を運んでいると言うなら、飢えた人々に与えるのだ」
祭壇に立ち、低い位置に立たせたアンナを見下ろす神官には、色ガラス越しの陽光が差している。
大した演出だと、アンナはほっそりした顎に指をあてて見上げる。真新しい神殿は、相当に金をかけたのだろう。権威というものを視覚で主張している。
だが、いくら良い舞台を使っても、役者が貧相では意味がない。
衣服だけが立派な太鼓腹の神官に、アンナは優美に微笑む。
「それは構いませんわ。必ずしも王都で売らねばならないというものでもありませんし、ご要望であればお譲りいたしましょう」
「ほう、存外に素直だな」
神官は頬を緩めた。メアリ配下の商会と聞いて警戒していたが、どうやら大したことのない相手のようだ。
神官はそう思ったのだが、無論、事実とは多分に異なる。
「それで、ご予算はいかほどですの?」
間抜けな顔になった神官に、アンナは子供を諭すような顔で笑う。
「商品をお買い上げになるのですから、当然対価が必要でしょう。ご安心下さいませ、この機に応じて値上げをするなどという下品で悪辣な真似はしておりません」
この地の商会は便乗値上げをしているようですが、とアンナは付け足して神殿の内装を見回す。いくつかの無用の装飾の元手が、どこからの寄付金で賄われたかを知っている仕草だった。
「もちろん、品薄かつ運搬費がかさみますので、お安くとは参りませんが、それでもこの神殿を建てられるほどの財力があれば、十分な量が買えるでしょう」
自分が勝手に勘違いをしていたことに気づき、神官はみるみる顔を怒りに赤くする。
「貴様、困窮する民を救うための行いから金を取る気か!」
「困窮する民を救うための行いに、お金を支払わないおつもりですの?」
当然の無償を求める相手に、アンナは当然の有償を前提とした態度で応じた。
「このままでは、この地の人々は飢えて死ぬような者も出るのだ! それでも金を払えと言うのか!」
「対価も払わずに手前どもの商品を手に入れようとするなんて、まるで盗人ですわ」
「食うに困る者に金があると思うのか! 卑しい商人め! 地獄へ落ちるがいい!」
「あら、このご立派な神殿にもお金がありませんの? だとしたら、あなたの崇める神もとんだ吝嗇家ですわね」
それとも、とアンナは毒を含んだ眼差しを向ける。
「吝嗇なのは神ではなく、あなたかしら、ずいぶんと肥えた神官様」
上等な衣服の中に分厚い脂肪をまとった神官を、アンナは軽蔑を隠さずに指摘する。
アンナの背後、神殿に集められた人々の中には、確かに食うに困ったらしき人も見られるが、十分に食が足りている者の姿も多い。
「当商会といたしましては、食料を売るに不都合はございませんわ。神殿が払わないのであれば、他の篤志家の方でも結構、ご予算に応じてご都合いたしましょう」
祭壇の神官と、背後の聴衆・信者達の中の富裕層に視線を向ける。アンナの調査によると、領主一族の人間や家臣、商会の幹部の顔もある。払う金のあるはずの連中だ。
「手元不如意でしたら、装飾品や美術品、あるいは何らかの権利でも取引いたしましょう。ええ、このような状況ですもの、帝国貨幣のみとは申しませんわ」
商売上はかなりの譲歩だが、それでも返事が出て来ない。
「神官様のそちらの衣服や指輪……その祭壇の、えーと、シンボルかしら? それ、金製品ですわね。そういったものでもお引き取りしますけれど」
アンナの親切な指摘に、神官は一瞬息を詰まらせて頬肉を揺らす。罵声は、わずかな思考の後に飛び出した。
「これは神に捧げて聖別を頂いた神聖なモノ、これを卑しい金銭でやり取りするなど罰当たりめ!」
「困窮する民を救うための取引なのに、そちらの神はお怒りになるんですの?」
やはり吝嗇なのかしら、とアンナは首を振る。
「残念ですわ。こちらとしてはご協力したいところですけれど、商談は不成立ということですわね。またのご縁があることをお祈りいたしますわ」
金を払う気のない相手は客にならない。アンナはさっさと踵を返す。
神殿内に集められた多数の信者の視線が集まるが、アンナは気にしない。
アンナは美しい女である。様々な感情のこもった視線を浴びることはとうに慣れている。今の彼女が気にする視線は、自分より年下の少女のそれ、ただ一つだ。
神官が神に仕えるように、メアリ・ウェールズに仕える女は、少なくとも忠誠心ではこの神殿の人々の中でも最高のものを持っている。
己は正しい道を歩んでいると信じる足取りのアンナの前に、痩せた少女が立ちはだかった。
アンナを睨みつける少女の目は怒りをみなぎらせていたが、アンナが気にしたのは、少女の顔立ちの整い方だった。
これは栄養を取らせて磨けば、中々の美少女になるわね。アンナは前職の癖で、そう観察した。
「恥ずかしく、ないんですか?」
少女の口から煮え立つような感情が噴き出したが、アンナの顔色一つ変えられなかった。その程度、娼館で生きた女ならばダースで浴びるものだ。
「恥ずかしい?」
アンナは、自分の体を見下ろす。
衣服にほつれはなく、乱れもない。生地は上質で、仕立ても良い。娼婦時代とは異なり、露出は極力少なく、派手な色も抑えている。スタイルについては言うまでもない。完璧な節制と完璧な手入れを心掛け、大幹部となった今は結社の研究成果である美容品の中から最高のものを選べるのだ。
「どこかおかしいところがあるかしら?」
「そうじゃない! 人が飢えて苦しんでいる時に、自分だけ贅沢をして恥ずかしくないのかって聞いてるのよ!」
「ああ、そういう考え方なのね」
自分の勘違いに、アンナは少し恥ずかしそうなふりをしてみせる。
内心は、違う。理性的な思考の奥、痛みを伴って感情がうずいている。
「そうよ! 人は神様の下に平等なのに、苦しんでいる人をどうして助けないの!」
なんて純粋な少女だろう。与えられた餌に食いついて、それを貪ることに夢中になってしまっている。
自分の能力に関係なく、神という万能の棍棒で他人を殴ることはさぞ楽しいだろう。
「じゃあ、あなたがウチの立場なら、皆を助けてあげるのね」
実に、腹立たしい。
「当たり前じゃない! あなたみたいな罰当たりの卑怯者とは違うの!」
「だったら、あなたに皆を助けさせてあげる」
アンナは、純粋な少女に、微笑んで毒牙を剥き出しにした。
「ウチの立場になりたいんでしょう? じゃあ、ウチが奴隷娼婦として買ってあげる。あなた可愛いから、すぐに人気者になれるわ。ええ、使い物にならなくなる前に、お金は回収できるでしょう」
「なに言って……なんでそんな馬鹿なこと!」
「ウチはそうやって体を売って、今の立場を手に入れたからよ。貧乏な家に生まれて、奴隷として売られて、娼婦として暮らして」
多くの運に恵まれ、それより多くの努力を費やして、時に同じ立場の女を蹴落として、ようやくここまで辿り着いたのだ。
守りたかった妹を、守れなかった傷まで抱えて、血まみれになってここまで登ってきた。
そんな女と、平等に扱われたいだと?
良いだろう。同じ地獄に引きずり込んでやる。
「人は平等なんでしょう? ウチが犠牲を払って手にしてきたものを分けて欲しいなら、ウチと同じ犠牲を払わないと、平等とは言えないわ」
それとも、と少女の頬に手を伸ばす。
アンナの手は美しい。苦労などまるで知らぬように、艶やかでほっそりしている。
だが、それは幻だ。人を惑わすため、悪魔の力でまとった偽装である。
爪は鋭く、皮膚は岩のように硬く、数多の血で汚れている。そうならなければ、生きていられなかったからだ。
少女は、その恐ろしい手から逃げようとした。しかし、体が動かない。怯える少女の頬を、アンナの手が優しく、憎悪をこめて撫でる。
「それとも――平等なんて建前で、神の名を騙って、ウチのものを奪おうとしただけ?」
きっと、少女は自分が世界で一番不幸だと思っていたのだろう。肉親は死んだのか、それとも捨てられたのか。
凶作に見舞われた農村で、食うに困って都市までやって来て、そこでも食べる物はなかった。唯一、この神殿だけが寄る辺となったのだろう。
なるほど。不幸だ。
だが、世界一ではない。
何故なら同じような悲劇はどこにでもある。そんなこともわからず、安易に世界一の不幸者と驕った、傲慢の罪を贖うが良い。
「そういうわけで、この子一人を奴隷として売るなら、その分の食料を置いていきますわ。どなたか、この取引に反対の方はいるかしら?」
自分の物を何一つ手放さなかった聴衆達は、誰のモノでもない少女を売ることに反対しなかった。何故なら、自分の損はなにもないから。
神官を含め、その場の人々がしたことといえば、己の良心から気まずそうに視線をそらすことだけだった。
その反応に、アンナは懐かしさを感じて、口元を歪めた。
彼女は、奴隷になったその日、故郷の村で同じ反応を目にしていた。
目の前の、信じていた全てに裏切られたような少女の表情にも覚えがある。
これは平等ね。アンナは笑いに肩を震わせた。
ただし、これはアンナが味わった苦痛のうち、ほんの始まりにすぎないし、最大のものでもない。
赤の他人に不幸を分かち合えと言うならば、お前も他人の不幸を食らえ。




