妖花、咲く2
地獄から天国だった。
ジャンヌは、自分が役立たずだと知っていた。
生まれた頃から体が弱く、息が上がるくらい体を動かすとしょっちゅう倒れた。特に、強い陽射しの中で畑仕事を手伝ったりすると、数日寝込む羽目になる。
農村の娘として、これは致命的な瑕だった。
いつ死んだことになってもおかしくないジャンヌだったが、彼女は生かされ続けた。
別に、何か後ろ暗い目的が家族にあったわけではない。
家族は、労働力にならないとわかっているのに、ジャンヌを愛していたのだ。
ジャンヌは、家族の目から見ても美しい娘だった。
家族と全く髪色や眼の色が違い、肌も白すぎたが、そんなことは気にしなかった。
「こんなに綺麗なんだもの。この娘はきっと神様からの贈り物だわ」
ジャンヌについて話になった時、母親は決まってそう言った。
元々、ジャンヌの家族は善良だったのだろう。おまけに、他の農村に比べると彼等はずっと豊かだった。
「全部領主様のおかげだ。領主様が色々変わった作物をくださって、作り方を教えてくださったからな。ありがたいことだよ」
家族団らんの席、お酒を飲んだ時の父の口癖だ。
ジャンヌは他の農村を知らないが、領主館に程近いこの近隣の農村では、領主エドワードが研究した珍しい農作物の実験育成を命じられている。
作物が失敗しても、最低限の食料の維持は約束されている。成功したら、その分は丸ごと農民の収入になる。
そして、今までのところ、大失敗ということはなかった。
だから、ジャンヌのような労働力にならない娘を、可愛がって育てる余裕がある。
領主様のおかげ。ジャンヌも感謝しようとした。
死ぬのは恐いから、生きていられるのはありがたいことだ。だから、感謝しようとした。
でも、できなかった。
どろりとした感情が、感謝するべきだと考える理性の下で蠢いている。
確かに、死ぬのは恐い。死にたくない。
きっと、自分は殺されそうになったら、泣いてわめいて、弱々しくても必死に抵抗するだろう。
でも、生きているのもつらい。
家族は優しい。畑に出られない、家事をしていても倒れる、ベッドに寝ていることの方が多い娘を、可愛がってくれる。気にしなくて良いと慰めてくれる。
それがつらかった。そんなこと、しないで欲しかった。
だって、ジャンヌ自身が一番良く知っている。
――ジャンヌは役立たず。
それは、ジャンヌにとって死ぬ恐怖と同じくらい重たい感情だった。
死にたいわけではない。でも、生きている理由が自分には見当たらない。
自分を生かしてくれる人はいても、生きている自分を必要としてくれる誰かはいない。自分の価値が、世界のどこにも見当たらない。
それはつらいし、苦しいし、とても恐ろしい。
地獄だった。
生きて味わう地獄だ。
そんな生き地獄に終わりを持って来たのは、この辺りでは珍しい、人さらいの男達だった。
家の外から何か喧騒が聞こえてくることに最初に気づいたのは、ベッドで寝ているジャンヌだった。
たまにある村人同士の喧嘩とは、声の緊張感が違う。気づいたジャンヌは、ベッドから起き上がり、台所の母の下へと報せに行く。
「あら、ジャンヌ。どうしたの、起きて大丈夫?」
「――――」
母の優しい問いかけに、ジャンヌは身振り手振りで外の喧騒を指し示す。
声が出なくなったのは、いつの頃からだったかはわからない。役立たずの自分は、せめてわがままを言わないようにと口をつぐんでいたら、いつの間にか声そのものを失っていた。
自分はさらに役に立たなくなっている。
この時も、ジャンヌは自分がみじめで悲しかった。声が出せれば、素早く母親に危険を報せて、他の家族と一緒に身を隠すこともできたかもしれないのに。
「なに? 外? あら、本当。何かしら」
「――――」
逃げた方が良い。母の服を引っ張る。
ジャンヌの耳は、人さらい、という単語を拾い上げていた。
だが、声のないジャンヌの訴えを母親が理解するには、時間がかかりすぎた。
家のドアが蹴破られる。
入って来たのは短剣を握った男だ。
「おっと、ここにも若いのがいるじゃねえか。やっぱり領主のお膝元は違うねえ。お頭の言った通りだ」
男の台詞は、ジャンヌを見てのものだ。
自分が目的なの?
そう思うと、ジャンヌの内心に新鮮な感情が波打つ。
ただし、男の持つ鋭そうな短剣によって起こる恐怖心が、鉄砲水のようにその感情を呑みこんでしまう。
それは母親も同じようで、蒼ざめて震えている。それでも、咄嗟に娘を守るように抱きしめたことを、ジャンヌは頼もしく思い、それから申し訳なさに落ち込む。
「おう、立派な母親だ。だがな、その娘を寄越しな。そしたら、手荒なことはしねえ。俺達は人さらいが目的であって、人殺しじゃないからな」
「ど、どっちも同じよ!」
「まあ、襲われる側からしたらそうかもな。でも、本当なんだぜ? 死んだらどんなに若くて綺麗な女でも売り物にならないから、人さらいは大人しくしてる相手は傷つけないんだぞ」
意外なことに、人さらいは脅える母親をなだめて、交渉でジャンヌを手に入れようとしている。
それがこの後何秒続くかはわからない。だが、何分も続くことはないだろう。
ジャンヌは、痛いくらい強い母親の腕の中から逃れようともがく。
「ジャンヌ、動いちゃダメ!」
「――――」
お母さんこそ、抵抗しちゃダメ。
ジャンヌはそう思う。
このままでは、母親があの短剣に刺された後で、ジャンヌが連れて行かれるだけだ。
それくらいなら、母親が無事のままで連れて行かれた方がよっぽど良い。もちろん、ジャンヌを手に入れた途端、男が暴力を振るわないと決まったわけではないが……いずれにしろ、ここで母親が揉めても男の印象が悪くなるばかりだ。
心苦しいが、ジャンヌは母親を突き飛ばすように腕から逃れる。
再び捕まえようとした母親の手を、一歩男側に引いてかわす。
人さらいにさらわれるのは初めてなので、どうすれば良いかわからなかったが、ジャンヌはとりあえず、男に手を差し出した。
その手は震えてはいたが、だからこそ、自分を連れて行けという主張が伝わる。
自分が犠牲になるから、母親に手を出すな、と。
「よし、頭の良いお嬢ちゃんだ。こりゃますます高値がつくぞ」
人さらいが表情を、邪悪な方面にほころばせてジャンヌの手を取る。
これからどうなるのか。ジャンヌは再び強い恐怖に襲われたが、その奥では、役立たずの自分に価値を見出されたことに、見当はずれな感動を覚えもしていた。
****
ジャンヌは、人さらいに連れられて他の商品同様、広場に集められた。
お頭と呼ばれた男は、ジャンヌを見てあからさまに喜んだ。
自分はとても価値がある商品になるらしい。しかし、それは見た目だけの話だ。
この後で、声が出せない、病弱だとわかった時、自分の価値はどうなるのか。
ジャンヌは恐怖を感じて縮こまっていたが、事態は彼女の予想を超えて、さらに一転する。
その音にジャンヌはいち早く気づいていたが、馴染のない音であったため、なんであるかはわからなかった。
一定のリズムをそろえて、大地を叩き鳴らすけたたましくも勇壮な音色。
それが騎兵の馬蹄音だと知ったのは、人さらい達の悲鳴混じりの報告を聞いたからだ。
馬とはこんなにも獰猛な音を立てて走るのかと、ジャンヌは驚いた。
彼女が見知った農耕馬は、ずんぐりして大きくはあったが、これほど迫力のある疾駆を見せたことはなかった。
そして、その騎馬にまたがった者達を見て、騎士とはこんなにも綺麗なのかと口を開けて見入った。
青空に翻る赤薔薇の旗、大きくしなやかな体躯を躍動させる騎馬に、赤い鎧をつけた女達――そう、少なくとも、兜で顔を隠していない騎士達はいずれも女性だった。
彼女達は、茨を束ねたような槍を手に、人さらい達を蹴散らしている。
あんなにも恐ろしく見えた人さらい達が逃げまどい、麗しい騎士に蹴散らされる姿は、村のお祭りの時に見る流しの劇団の演目よりも、よっぽど作り物めいて見えた。
特に、先頭を走る女性――いや、少女なんて、ジャンヌが話で聞いて想像していたお姫様のように綺麗なのに、物語の勇者よりも強かった。
――あれは、ジャンヌと同じ生き物なの?
視線の先、茨の槍を振るう少女は、神秘的ですらある。ジャンヌが自由の身なら、膝をついて仰いでいたかもしれない。
だが、残念なことに、ジャンヌは騎士が見えたところで、人さらいのまとめ役の男に羽交い絞めにされていた。
始め、何が起きたかわかっていなかったジャンヌは、どうしてそんなことをされたかわからなかった。
しかし、騎士が見えて、人さらいが蹴散らされる様子を見て、先頭の少女騎士がすごいと脇道に思考がそれた後、悟った。
自分は盾として使われるのだ。あの騎士達、多分、自分達を助けに来てくれた人達の邪魔をするための道具として使われるのだ。
そう気づいて、恐くなった。
殺されるかもしれない。それも恐い。
また役立たずになる。その方が恐い。
案の定、その恐怖は実現した。
自分を羽交い絞めにする男と、少女騎士がいくつか話をした後――どうやら少女はお姫様ではなくとも、お嬢様ではあるようだった――ジャンヌの首に男の腕が食い込む。
「騎士を下がらせろ」
ああ、やっぱり。
息がつまる苦しさに顔を歪めながら、ジャンヌは泣きそうになる。
――ジャンヌは役立たず。役立たずのジャンヌ。こんな時まで自分は邪魔者だ。
「あら、どうして?」
「村を救いに来たんだろうが、こいつがどうなっても良いのか!」
どうなってもいい。ジャンヌはそう言いたかった。
でも、自分は声が出ない。羽交い絞めにされた体はひ弱で、男を揺るがすこともできない。
――自分はどうなってもいいの。その方が楽なの。お願いだから、ジャンヌに構わないで。
そう伝えたい一心で見つめる先、騎士の少女は、ちらりとジャンヌと視線を合わせた後、小首を傾げた。
「別にいいわね」
「――――」
それは、感動的な台詞だった。
ジャンヌにとっては、どんな物語の台詞よりも、物語的だった。
少女騎士は、当たり前のように理由を告げる。
少女騎士にとってジャンヌが小さな存在だからと言われた時は、少し感動が薄れそうになったが、役立たずなのはその通りだ。
事実、この農村どころか領地一つと比べたら、ジャンヌはとてもとてもちっぽけだ。
さらに、トドメに、少女騎士はこう告げた。
「だとすれば、その子一人を生かすために四苦八苦するより、その子ごとあなたを殺した方がよっぽどウェールズ辺境伯領のため、何より私のためになるわね」
天地がひっくり返る。
どうやら、ジャンヌは役に立てるらしい。
間違いなく、ジャンヌの中の地獄が、天国にひっくり返る。
ひっくり返って現れた天国には、喜びがあり、幸せがあった。
そこでは自分が、正確には自分の死が、必要とされている。
もう、後はどうでもよかった。胸中にわずかに恐怖が湧いたような気がしたが、それもどうでもいい。
ジャンヌと天国の距離は、あと三歩だ。
「その子、すごく可愛かったから」
一歩。天国からの使者が近づく。
「あなた程度のために使うのは、もったいないけれど」
二歩。ジャンヌに語りかける使者の顔は、見惚れるほど華やかで美しかった。
「私のために、死んで?」
三歩。使者からのお願いに、ジャンヌは喜んで快諾した。
『はい』
声が出ないことを情けなく思ったことは数多くあったが、惜しいと思ったのは初めてだったような気がする。
少女騎士はその言葉通り、ジャンヌの願い通り、狙い過たず、わずかの遅れもなく、ジャンヌの心臓を砕いてくれた。
なんて正確な宣告の履行、なんて迅速な依願の成就。
だからこそ、ジャンヌは惜しいと思う。
この感謝の気持ちを、彼女にしっかりと伝えられないなんて、あまりに惜しい。
『ありがとう』
――伝わっているといいな。ジャンヌの気持ち。
恍惚とした意識が闇に包まれる。それは、とても心地いい、天国の光だった。
ジャンヌはこの日、地獄から天国へと堕ちたのだ。




