第61話 小領主の娘として
「レオ、ごめんなさい」
アリアは深く頭を下げた。
アリアが謝る理由。
思い当たることはひとつ。
エトーレとかいう屈強な男が僕の胸ぐらをつかんだ件だろう。
たしかに腹が立った。
でも、それほど怒っていない。
それよりも気になることがあったから。
「変に思ったでしょう」
アリアが予想外のセリフを口にした。
エトーレの所業について言及している言葉じゃない。
なにが言いたいんだろう?
わからない。
とりあえず、僕は首を横に振った。
怒ってもいないし、変に思ってもいない。
それを伝えようとした。
「レオにここで会えたら謝ろうと思っていたの」
アリアの口元に笑みが浮かんでいる。
「でも、ずっと不安だったわ」
口元から笑みが消えた。
不安げに視線を左右に動かしている。
「レオが怒って、もうここに来てくれないかと……」
次第に声が小さくなり、最後には消えた。
「だから、もし会えたら謝りたかったの。市場での態度を」
えっ⁉︎
僕は目を見開いた。
アリアが謝ったのは、エトーレのやったことじゃなかった。
僕に取った態度だったなんて。
すとんと肩から力が抜けた。
よかった。
僕の知っているアリアがちゃんとここにいる。
目の前にいるアリアこそが本物だ。
怒ってなんかいない。
それを伝えなければ、いつまでもアリアは罪悪感を持ったままだ。
『これ、見て』
僕はネウマ譜をアリアに差しだした。
「ネウマ譜?」
『うん』
「見てもいいの?」
アリアがネウマ譜を受けとり、すぐさま広げた。
目で記された記号を追いながら、声を出していく。
ハミングだ。
小さいながらも美しい声で歌っている。
すごい。
心の底から驚いた。
というのも、ネウマ譜は五線譜と違って初見——ぱっと見ただけで歌うのは難しい。
五線譜のように記号の位置によって、客観的な音高が示されていないからだ。
ただ、記号に対して基準となる音高を示せば、初見はある程度できると思う。
でも、僕はアリアに基準となる音高を伝えていない。
それなのに初見で歌った。
どうして?
あっ、もしかして……。
以前、僕がプレゼントしたネウマ譜から推察したのかもしれない。
記号の位置と音高を覚えていて、それを今回のネウマ譜に当てはめて歌った。
基準がわかったからといって、練習なしで歌うのは大変だ。
それなのに、アリアは僕の頭のなかだけにあった曲を見事に歌っている。
最後まで歌い終え、アリアはふっと息を吐いた。
「これ、初めて歌う曲だわ」
ネウマ譜を目で追いながらアリアが言った。
『どう?』
感想を求めようとアリアをじっと見つめた。
「すごくいい曲ね。悲しみの感情が伝わってくるわ」
言いながら、アリアが少し首を傾げる。
「ううん、悲しみじゃないわ。……そう、戸惑いね」
『正解』
僕は大きくうなずいた。
それを見たアリアが、驚きの表情を浮かべて僕を見つめる。
「もしかして、レオが作曲したの?」
『うん』
「戸惑い……もしかして、市場で私と出会ったときの思いを表現したの?」
『その通り』
何度もうなずいてみせる。
すると、アリアがとても切ない表情になった。
「本当のごめんなさい。あんな態度をとって」
またアリアが頭を下げた。
「まさか市場で会うとは思わなくて……」
頭を下げた状態のまま、申し訳なさそうにつぶやく。
僕は慌ててアリアの肩に触れた。
『大丈夫だよ、顔をあげて』
ぽんぽんっと優しく肩を叩いた。
「……ありがとう」
アリアがゆっくりと顔をあげはじめた。
「でも、また市場であったら同じ態度を取ると思うわ」
真正面を向いたアリアの目に涙が浮かんでいる。
「ごめんなさい。理解できないと思うけど、これが私なの」
悲しげに微笑むアリア。
とても痛々しい。
『どうしてなの?』
個人的なことに首を突っこむものじゃない。
わかっているけど、知りたかった。
これが私なの——。
その言葉の意味を。
「どうしてかって?」
僕の気持ちをアリアが察してくれた。
『うん』
「それはね」
僕は質問しておきながら、アリアはおそらく答えないだろうと思った。
あまりに個人的な話だから。
でも、アリアは少しも迷いなく語りだす。
「私が小領主の娘だから」
簡潔にアリアは答えてくれた。
「小領主の娘として、それに相応しい威厳と立ち振る舞い」
いったん言葉を切り、ため息をつく。
「それがレオが市場で見た私よ」
苦悶に満ちた表情を浮かべている。
本当はあんな振る舞いをしたくない。
そんな思いがひしひしと伝わってくる。
「あんな姿、私じゃない」
激しく首を振った。
「でも、小領主の娘になったのだからとお父様に言われて」
仕方なく父親が望む小領主の娘を演じている。
全部説明しなくても、なんとなく僕は察した。
いま、ここにいるアリアが本当のアリア。
僕は確信した。
だから、もう市場でアリアにどんな態度を取られようが平気。
本当のアリアを知っているから。
「小領主の娘になんてなりたくなかった」
吐き捨てるようにアリアが言った。
『えっ? 生まれてからずっと小領主の娘じゃなかったの?』
気になって、僕は身振り手振りで必死に伝えた。
「いつから小領主の娘になったのかって?」
少し違うけど、聞きたい答えは得られそうだ。
僕は大きくうなずいた。
「お父様は前の小領主の義弟なの。だから、私は根からの小領主の娘じゃない」
義弟……ということは、アリアの母親が前小領主の妹ということになる。
僕はこの世界の継承システムを知らない。
でも、前小領主の子供が継ぐのが普通だろうと思う。
前小領主に息子がいなかったのだろうか?
「十五年前、前小領主が突然病死したの。それで、お父様が小領主を継ぐことになって」
前小領主だった叔父が亡くなったのを思いだしたのか、アリアが涙ぐんだ。
「全く予期していなかったわ」
手巾と取りだし、アリアが涙を拭いた。
「これまで普通の少女だったのが、いきなり小領主の娘になるだなんて」
『大変だった?』
「大変? ええ、そうね。野山を駆けまわっていたおてんば娘が、いきなり令嬢になるなんて」
アリアがおてんば娘?
想像できない。
嘘みたいだ。
「いろいろ勉強させられたわ。話し方、振る舞い方、マナーとかね。
苦痛だったわ。でも、ひとつだけ令嬢になってよかったことがあるの」
アリアの顔に少しだけ笑顔が戻ってきた。
「聖歌」
『聖歌?』
「ええ。教会に通って祈りを捧げるよう言われて……最初は苦痛だった。
でも、聖歌と出会ったの」
アリアがとても穏やかに微笑んでいる。
見ているだけで幸福感に包まれる笑顔。
それに僕は見惚れた。
「それと、レオに出会えたわ」
アリアが僕に微笑みかけてきた。
包みこまれる。
そんな感覚に襲われた。
嬉しさのあまり、頬が緩んでくる。
僕も会えてよかったと伝えたい。
急いでゼスチャーをしようとした矢先——。
「あっ、もう帰らないと」
アリアがはっとしたような表情をした。
「急いで戻らないとエトーレが騒ぎだすわ。じゃあ、レオ、また会いましょう」
『うん』
アリアは挨拶もそこそこに、走って出ていった。
僕はほっとした。
当初の目的だったネウマ譜を渡せた。
それだけじゃない。
市場での振る舞いの謎も解けた。
すっきり爽快。
足取りも軽く教会を出た。
小屋に戻って仕事をしよう。
やる気が溢れてくる。
もうすぐ小屋に到着するというところで、僕は足を止めた。
小屋の前に大勢のひとがいる。
格好や雰囲気からして商売人だ。
どうしたんだろう?
ゆっくりと小屋に近づくと、商売人たちの会話が聞こえてきた。
「ジェロ、出てこい!」
「粗悪なネウマ譜を売りやがって……信用ガタ落ちだ!」
「ジェロがいないなら、採譜師を出せ。小領主さまに突きだしてやる!」
誰もが怒りに満ち溢れている。
採譜師……。
それって僕のことだよね?
粗悪なネウマ譜ってなに?
僕は呆然とした。
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