第201話 心の奥底に沈めた記憶
俺は目を閉じ、心の奥底に沈めた記憶を手繰りよせた。
五歳くらいまでのことはあまり覚えていない。
だけど、母から聞いた俺の出自については脳裏にこびりついている。
認めたくないけど、認めざるを得ない現実。
「俺の母は、大領主の邸宅で働く貧しい庶民だった」
真っ先に母の存在を口にした。
始まりはここからだから……。
母は庶民のなかでもさらに貧しかった。
理由は俺——。
大領主邸宅の給金は、市場で働くより高い。
だけど、母と俺のふたりが生きていくには足りなかった。
周囲を見れば、両親が頑張って稼いで子供を育てている。
俺の母もそうであったなら、苦労は半減しただろう。
父がいれば——。
俺はいつもそう思った。
でも、母は一切そのこと口にしたりしない。
黙々と働き、俺を養ってくれた。
愚痴ることも、恨むこともせずに……。
それが返って歯痒かった。
父はどこにいる?
どうして一緒にいない?
俺の存在を知ってる?
聞きたいことは山のようにある。
でも、聞けない。
母に問うても、きっと答えてくれないだろう。
なにがあっても、父の存在を話さない。
そんな決意のようなものを母から感じた。
あきらめるしかない。
俺は決意した。
父親のことを忘れ、母と共に生きていく。
その思いを胸に俺は稼ぐ方法を考えた。
荘園内は不景気で、大人だってなかなか仕事にありつけない。
そのなか、五歳の俺に働き口なんてあるはずがなかった。
それなのに……。
*
「おい、小僧。稼ぎたいのか?」
荘園内をぶらついていると、髭面の男が声をかけてきた。
みすぼらしい格好をしている。
どこからどう見ても胡散臭い。
だけど、人懐っこい笑顔に俺は警戒心を解いた。
「うん」
「だったら、一緒に来いよ。稼がせてやる」
髭面男がにまっと笑った。
あやしい。
直感した。
だけど、稼ぎたい。
いや、なにがなんでも稼がなければ……。
脳裏に母さんの疲れきった顔が浮かんだ。
ここ数日、母さんの調子が悪い。
仕事を休むように言っても頑なに拒否。
理由ははっきりしている。
休んでしまったら稼げなくなるから。
それと、別の誰かに仕事を奪われてしまうのを恐れている。
俺を飢えさせないために——。
母さんは死に物狂いで働いている。
それなのに、俺は稼げずに母さんに苦労のかけ通し。
現状を打破する道はひとつ。
稼ぐこと。
そのためには、多少の危険は受けいれる覚悟だ。
「来るか?」
髭面男が答えを急かしてくる。
「……うん」
俺は決意した。
危険でもなんでもいい。
なにもせずにいたら、いずれ母さんは体を壊してしまう。
そうなったら、医者にも診せられずに死ぬ。
俺が命を賭ける。
それで母さんが助かるなら……。
覚悟を決め、髭面男を見た。
にまにまと下卑た笑いを浮かべている。
まともな働き口じゃないな。
わかっている。
だけど、俺には選択の余地はない。
やるだけ。
「よし。じゃあ、仕事を説明しよう」
髭面男は俺を物陰に連れこみ、これからやるべきことを説明した。
指示された内容は単純。
髭面男が物売りに話しかけるあいだに俺が商品を盗む。
「なぁ、簡単だろう?」
髭面男が俺の肩を叩いた。
「うん」
俺は返事をした。
それを見て、髭面男が笑っている。
簡単——。
たしかにやること自体は簡単。
だけど、見つかったら大事だ。
この荘園では、盗みを働いたら罰として手首を切断される。
この悪党め!
俺は心のなかで悪態をついた。
なにもかも承知のうえで、髭面男は俺に盗みをさせようとしているのだろう。
成功すれば、髭面男は上前をはねて儲ける。
失敗すれば、全ての罪を俺に背負わせて逃走。
髭面男の考えが手に取るようにわかる。
だけど、俺は従うしかない。
儲ける方法がほかにないから。
「じゃあ、はじめるぞ。小僧、うまくやれよ」
髭面男は俺の頭を軽く叩き、物売りに近づいた。
笑顔で物売りに話しかける髭面男。
次第に話が弾んでいく。
その隙間を縫い、髭面男が俺に視線を送ってきた。
——いまだ、やれ。
髭面男がそう言っているように感じた。
俺は大きく息を吸い、小走りで髭面男に近づく。
物売りが話に気を取られているのを確認し、ゆっくりと手を伸ばす。
ためらうな。
少しでも罪悪感を持ったら判断が鈍る。
そうなったら捕まる。
一気に盗むんだ。
自分に言い聞かせ、素早く目的の商品をつかんだ。
それをすぐさま懐に忍びこませる。
よし、やった。
一気に緊張から解き放たれる。
次の瞬間——。
ぐっと強い力で腕をつかまれた。
逃れようとしてもびくともしない。
しまった!
俺は逃げようともがいた。
だけど、身動きが取れない。
助けを求めようと髭面男を見た。
「……ぬ、盗みだ」
髭面男が俺を指し、叫んだ。
俺は唖然とした。
はなから髭面男を信用していない。
失敗したら逃げだすことは想定済み。
だけど、率先して俺を盗人に仕立てるとは思わなかった。
「小領主さまに突きだして罰してもらおう!」
周囲の庶民たちを扇動するように髭面男が言い放つ。
すると、庶民たちは目を吊りあげて賛同した。
「そうだ、そうだ。盗みは大罪」
「子供といえども許せない」
庶民たちが口々に俺を罰しろと叫ぶ。
手を切り落とされる——。
体の震えが止まらない。
盗みは大罪。
わかっていた。
だけど……。
母さんを助けたい一心で髭面男の儲け話に乗ってしまった。
捕まったら手首を切断される——。
最悪の結末を頭では理解していたけど、自分ごととして想像できなかった。
全ては俺の考えの甘さが招いた結果。
受けいれるしかない。
でも……。
母さんの顔が思い浮かんだ。
母さんを悲しませてしまう。
それが一番辛い。
時間を戻ったなら……。
そうしたら、絶対に髭面男の話に乗らない。
もし、助かったなら……。
今後、絶対に盗みなんてやらない。
誓うから……。
俺は心底、自分の行動を後悔した。
そのとき——。
「……待ってくれ」
庶民たちが俺の処罰を求めるなか、誰かが待ったをかけた。
*月・水・金曜日更新(時刻未定)
*カクヨム(https://kakuyomu.jp/works/16817330647661360200)で先行掲載しています。




