謙虚な置き土産
「逃げられたぁ! くっそ! あー逃げられたぁ! 私の負けかこれぇ!?」
空気中の一酸化炭素の濃度を高めまくった事により、急性の中毒症状を引き起こした。
一酸化炭素の比重の関係で、見下ろしていたヘレシィが先に意識を失い、這い蹲って見上げていたマーシャは耐えきった。そこで勝敗は逆転し、ヘレシィを追い詰めたと確信した。
だが、その瞬間、彼女が抱いていた子犬が急成長して牙をむいた。
魔法は使えず、あちこちの骨が折れていたマーシャは魔犬に抵抗する手段を持たない。
炎で焼き払うよりも早く、犬の牙はマーシャの命を刈り取るだろう。そう思って覚悟したら、犬はヘレシィを背中に乗せると逃げ去って行った。そして暫くしてから、ヘレシィから称賛の言葉とヒントらしき情報が送られてきたのだ。
私達がずっと追い求めていたヨルン製作者の正体を教えられ、そして「精々頑張りなさい」という言葉が添えられた内容。
煽られている。完全に馬鹿にされている。
そうしてマーシャは敵からの塩を受け取って、やるせない気持ちで吼えたのだった。
「な、お前、マーシャ! その左腕どうしたんだ!? どこに置いてきた!?」
ようやく落ち着いてきた痛みに耐えながら回復魔法を使っていたら、後ろから声が掛けられた。ハルトだ。
「はぁ。今更登場って、アンタ遅いのよ、ハル……はぁあ?」
ハルトだと思っていた。だが、マーシャが文句を言いつつ振り返ると、そこに居たのは少女だった。
腰まで伸びた、癖の無いなめらかな空色の髪。傷一つ見えない白い肌。絶世の美少女といえる美貌は、この世の男達の庇護欲を掻き立てる。前髪なんてパッツンと一直線に切り揃えられて、何処かのお姫様といわれても納得してしまいそうだった。
「あ、あ……あんた、なによソレ! なんで女になってるのよ!?」
感じる気配はハルト。感じる魔力もハルト。その言動も、間違いなくマーシャの彼氏であるハルトだった。なのに見た目だけが別人、どこからみても女性だった。
マーシャはこれまで見てきた中で、最高峰といえる美少女を前に絶叫した。
だが、肝心のハルトもそれどころではない。
大切な恋人であるマーシャの左手が肩から先で無くなっているのだ。彼(彼女?)は慌てて駆け寄ると、心配そうな顔で聞いた。
「おい、どうしたんだその体! こんな短時間で、お前の身に一体なにが有ったんだよ!?」
「それは! 私が聞きたい事だつーの!! あんた、そこ……そこ……ああ、無いじゃないの!? 胸は本物か、これ!?」
「やん、触んないでよ変態! えっち!」
「いいから理由を吐きなさいよ! ハルト、アンタ、なんでそうなってんの!?」
「……『可愛い』っていいよな。なんでか、願いが叶っちゃった」
恥ずかし気に目線を逸らせたハルトを見て、確信する。
「……女体化してんじゃないわよ! この変態野郎!」
『等価交換の悪魔』に性転換を願う馬鹿がいるものか。
マーシャは恋人の暴挙に頭を抱えて叫んだ。そこに馬鹿が追い打ちを掛ける。
「な、なあ。折角だし、前に使ってくれなかった薬あるだろ。今度さ、じゃあ俺で試していいかな?」
「……薬?」
「ほら、あれだよ。俺が知り合いから買ってきた薬、覚えてないか?」
「…………感度3000倍」
「そうそれ」
それじゃねぇよ!
お前はどこを目指してんだよ!?
なにが嬉しくて、女体化した恋人と変な薬を使った倒錯的な性行為をしなければいけないのか。
急激に変態性を発揮してきた恋人の頭を心配する気持ちと、それをはるかに凌駕する怒り。マーシャは思わずハルトを蹴飛ばした。
「痛っ! おい、女の子の頭を蹴るなよなぁ」
「落ち着きなさい、アンタは男でしょ! 女になるなら前世からやり直せ!」
「……むぅー」
「気持ち悪い顔と声してんじゃないわよ! 可愛い子ぶるな! あーもう、鳥肌立ったわ!」
見なさい、ほら見なさいよと右手を差し出すマーシャ。
しかしハルトはそれよりも左手が無いことが気になる様子だ。
「ああもう、俺の事は良いんだよ。それより、なんで左腕無くなってんだって!」
理由をしつこく尋ねてくるハルトに、マーシャは数度、口籠ると言い訳を口にした。
「……別に。ただ教団員とやり合っただけよ」
「教団員!? まさか、ここに黒燐教団が居たのか!? ……くそ、それでか!」
「それでって何が?」
「いや、ここに来るまでに、ヘレシィ枢機卿の遺体を見つけてな。隣でミイラみたいに魔犬も干乾びて死んでたんだけど……そうか戦ってたのか。すまん、戻ってくるのが遅れた」
「死体……死体ですって!? いつ! 何処で見たの!?」
「うわっ!?」
マーシャはハルトの胸ぐらを掴むと一気に引き寄せた。
信じたくないという想いが半分、ヘレシィに対する怒りが半分湧きあがる。
やり直せたはずなのだ。
あんな捻くれた性悪ババアでも、ディアナと腹を割って話し合えば、きっといい方向に話は進んだに違いない。それなのに逃げやがった。最後の最後までアイツは臆病な負け犬で、自分の幸せから逃げきった。
マーシャは怒りに任せてハルトの胸を叩き付ける。弱弱しい衝撃がハルトを貫いた。
「ふざ、けんな……」
こんな結末は望んじゃいなかった。
だけど、もう取り返しの付かない事だった。
「……ヘレシィの奴、どんな死に顔だったわけ?」
「穏やかな顔だったよ。放っておくわけにはいかないから、犬と一緒に埋葬してきたが……スマン」
「なんでアンタが謝るのよ。はぁ……いいわ。私達は黒燐教団に襲撃され、ヘレシィ枢機卿は戦死した。そういうことよ」
真実はまるで違う。
だけど、言えるわけがない。
ディアナに「貴方の母親は教団幹部でした、でも、本当は家族が欲しかっただけの寂しがりでした」とでも伝える気か?
ディアナとヘレシィが本当の母娘に成れていたなら、きっと未来は変わっていた。幸せになれたはずだった。
逃げていたヘレシィが全面的に悪いのだけれど、恐らく真実を知ればディアナは気に病んでしまう。だから、こんな事、親友に言えるはずがないのだ。
真実を呑み込んで、マーシャは墓場まで持っていくことを決意する。
ヘレシィ枢機卿は勇敢に戦って、戦死した。それが誰にとっても一番良い結末だった。
「ヨルンが教団員に攫われたわ。どこに行ったかは分からない」
「あーそりゃヤバいな。……え、なんでヨルンは攫われたんだ?」
「え、それは……」
マーシャは言ってから、しまったと、口を滑らしたことに気が付いた。
黒燐教団の復活は今や公然の秘密となっているし、ハルトも常々「アイツ等ヤベェよ、ヤベェよ」と言っていたから、そこは教えても問題は起こらない。
しかしヨルンが闇の組織に生み出された存在ということは、聖教からも天使からも箝口令が敷かれており、ハルトであっても明かすことはできない。
「っと、ヨルンが攫われたのは、そりゃ……」
教団がヨルンを攫った理由……なんだ?
ホントの事を言わずに誤魔化さなきゃならない。
マーシャは怪しまれないようにと間を置かず、脳内に浮かんだ適当な言い訳を口にした。
「そりゃアンタ、ヨルンが可愛いからよ!」
「……なるほどな!!」
ハルトは納得できたと頷いた。
「たしかにな、可愛かったもんなヨルンの奴! あの変態共が連れ帰りたくなる気持ちは分からんでもない……っは、しまった! 今は俺も可愛いぞ!? もしかしたら俺も狙われちまうのかな!?」
「……」
やべぇ俺可愛い。えへへ。
などと1人、勝手に盛り上がる馬鹿を前に、マーシャはポカンと口を開けた。
ハルトって、もしかしてあほ?
いや、いや。
男の時はもっと真剣な顔してた気がする。格好良かったはずだ。
だからこれは、女体化した時に脳みそを溶かした結果に違いない。頼む、そうであってくれ。
マーシャは絶望した表情で馬鹿を見やる。こんな馬鹿が自分の恋人だったなんて思いたくなかった。でも、良い所もあるのだ。あったのだ。……たぶん。
「それでマーシャはどうだ、迷宮は出れそうか?」
ハルトは一通り騒ぐと、やっと落ち着いたようだ。
どうやって外に向かおうか聞いてきた。
「迷宮を出ろって……無理言うなっての。私は重症人よ。中層の水路を抜けられる気がしないし、それ以前に無理に動けば死ぬっつーの」
「だろうな。俺もヘレシィさん居なけりゃ、水路はきつかっただろうしなぁ。さて、どうしたものか。うーん」
「ところでアンタ、念話……みたいなの使えない訳?」
先ほどヘレシィから送られてきたような、言葉だけを遠くに伝える転送魔法。今まで考えた事もないような魔法概念にマーシャは目から鱗が落ちた気がした。
これが普及すれば情報は瞬く間に世界に広がっていくだろうし、時代は革命されるだろう。
情報の獲得は大切だったが、これからは、これまで以上に情報を制する者が世界を制するようになるだろう。
そしてなによりも、こういう遭難場面で救援を呼べるようになる。
もしもハルトが念話を使えれば、今の状況を打破する一手になるかもしれない。外の人たちにだって、ヨルンの誘拐を伝えられる。
マーシャは、それを期待してハルトに念話が使えないか尋ねてみたのだが……無理だろうとも思っていた。
転移魔法の難易度自体かなり高いし、なによりも、ハルトが馬鹿だ。なによりも馬鹿だ。
ところが尋ねられたハルトは、首を可愛らしくかしげると、何でもない事のように答えた。
「できるぞ?」
「なんでできるのよ……」
私より馬鹿のくせに。女になりたかった変態のくせに、なんで出来るんだ。
なんだか嬉しい反面、遣る瀬無さがマーシャを襲う。
「そ、そうか! それで助けを呼ぶって訳だな! よし、待ってろすぐに呼ぶぞ!」
「待った! 助けはまだいいわ。迷宮の深層に来れる人なんか限られるし、それよりもディアナに伝えて欲しい事があるの」
「ディアナ? だれだ?」
「あ」
そうだ。ハルトはディアナと会った事がなかった。
標的式の転移魔法は対象となるモノを知らなければ使えない。姿、形、魔力波形、なんでもいい。だが、何かしら切っ掛けが無いと狙った場所に飛ばせない。
それに、よくよく考えてみれば、伝えてほしい内容も機密情報まみれだった。
聖女ラクシュミの正体、黒燐教団に潜む日ノ本会の存在。そして本格的に動き出した教団本体。
敵対していたヘレシィからの情報だが、マーシャはこれを嘘とは思えなかった。そして確実に表に出せない情報でもあった。
ハルトの事は信頼しているし、いざという時は頼りになる男――現在は女だが――だと思ってもいる。でも、それとこれとは無関係なのだ。
(もう、誰かに死んでほしくないって……)
きっとこれからヨルンを巡る戦いは激しさを増していく。無関係な人間は、出来る限り巻き込みたくない。
マーシャは念話依頼を取り下げ、仕方なく自分でやってみることにした。内容だけは絶対に聞かれないように、ハルトには十分な距離を取ってもらって魔法を起動する。
「あー、聞こえるかしらディアナ。私よ、マーシャよ。これから大切な情報を伝えていくわ」
一秒ごとにゴリゴリと削られていく魔力。
転移魔法を使えないマーシャだ。声だけなので難易度はだいぶ下がるが、上手く発動できているかは分からない。マーシャは成功していると信じて、取り急ぎ要点だけ伝えることにした。
「ごめんなさい黒燐教団に襲われてヨルンが攫われてしまったわ。それと気を付けて、聖女ラクシュミがヨルンを生み出した犯人だったわ。教団の一部門である日ノ本会と手を組んで、ヨルンを生み出して――――あぁ、もう! 魔力切れ!」
あっという間に念話は効果を終えてしまった。しかし悪戦苦闘しつつも、マーシャは手ごたえを感じた。
おそらく成功。たぶん。きっと……成功率30%ってとこかな。
「うーん……これ、成功してるのかしてないのか、分かんないのが不便ね」
まだこの魔法は発展途上で一方的な情報伝達しかできない。もしも相互で会話ができるようになれば、もっと便利だろうなぁとマーシャは思ったが、魔法の改良は学者の領域だ。
偉い学者様ですら簡単な改変に数年掛けるというのに、平凡なマーシャにできるはずがない。きっぱりと諦めて忘れることにした。
「――つー訳けで、助けてくれ。迅速に」
「あん?」
なんて考え事をしてたら、遠くでハルトが誰かに念話を送っていた。
馬鹿が勝手に何してるんだとマーシャは責めるような目で睨む。ハルトは慌てて手を振って答えた。
「いや大丈夫だ! 変な事してないって。これは救援を呼んだだけだ!」
「探索者は自己責任だから、救援なんて来ないでしょ。アンタ一体誰に助け呼んだのよ……なにアンタ、友達なんて居たの?」
「い、居るわい! 2人も!」
「え……少な……」
ドン引きだった。
思わず声が出て、ハルトがしょんぼりしてしまう。マーシャは慌てて話を変えた。
「ま、まあいいわ。それで誰だって?」
「ショボくないし……普通だし……」
「悪かったわね! 落ち込まないでよ面倒くさい!」
「落ち込んでないし……」
詳しく聞けば、ハルトが救援に呼んだのは同郷の友人らしかった。
本人の趣味もあって、頼めば色々なものを作ってくれたりする人で、あの怪しい薬の製作者でもあるとか。
今は研究資金を出してくれる人を探して世界中を旅しているが、その実力は折り紙付き。すぐ南都に来てくれるだろうとハルトは言った。
ハルトが尊敬する兄貴分。しかも「薬」の製作者とは、一体どんな変態が現れるのか。
マーシャはなんだか来てほしくないなぁ、なんて思ったりしたのだった。
「じゃあディアナ、後は頼んだわよ……」
とりあえず出来る事はしたから、後は外の人間に託すしかない。
マーシャはヨルンの無事を祈りながら魔力の回復に務めることにした。
▼
場面は変わりアルマージュ大聖堂。
聖女ラクシュミを迎え、歓待中だったディアナは一時休憩として自室に戻っていた。
ヨルンの部屋のように私物が少ない殺風景な部屋。
そこで一人になったディアナはベッドに飛び込むと、「んー!」と小さく気持ちよさそうな声を上げながら背伸びをした。
(やっぱり偉い人の相手は疲れるなぁ……)
聖女ラクシュミはまだ成人してないにもかかわらず、しっかりした人だった。
なんというか、覚悟を持った目をしていた。自分達の行動を正義と確信し、世の中のために働いている。そのためには如何なる犠牲も厭わない。そんな覚悟の目。
加えて役職は相手の方が高いのだ。そんな人を前にすると、ディアナも緊張で姿勢が伸びるというもの。
なんだったら南都の領主に会うのも、まだ緊張するぐらいで部下の司祭さん達には頼りっぱなしなのだ。疲れもする。
「うーん……!」
ベッドの上で、ごろりごろりと往復して柔らかさを堪能。
さすが司教用の最高級ベッドだ。白い布団がディアナの体重を優しく受け止めてくれた。何処までも沈んでいくような、それでいて水に浮かぶような心地よさ。
ディアナは人に見せられないような緩んだ顔でぐだーっと溶けていく。
ヨルンの前では、キリっとした大人のお姉さんで居たいディアナにとって、こんな顔、ヨルンの前ではできないもの。にへらと緩んだ笑顔を浮かべた。
『……ぃ』
「うん?」
久しぶりのリラックス時間をディアナが堪能して居たら、突然、耳元で声が聞こえてきた。
『……聞こえ……ディアナ……マーシャよ。……な情報……伝えて」
「え、マーシャ? なんですかこれ。帰ってきたんですか? マーシャ!?」
慌ててベッドから跳ね起きて、自分の頬をぐにぐに手で動かす。
まさか今の見られた? いや、周囲に人影はない。見られてない。
「よかった、助かった……」とディアナが一息ついたところで、頭が冷静になってくる。
雑音混じりで聞き取り辛い、親友の声。
辛うじて声質からマーシャのものであることは分かったが、一体何事か。
魔法で声を飛ばしていると見抜いたディアナは、ただ事ではないと息を呑んで話の続きに耳を傾ける。
『ごめん……に襲われ……ヨル……攫われ……まったわ。気を……聖……ラクシュ……犯人だ………教団……手を組ん……ヨ……出し………』
「うっ……あんまり聞こえないですよ、マーシャ! マーシャ!」
飛び飛びで殆ど聞こえないマーシャの言葉。
もう一度教えてほしいと願うが、声を届ける魔法はブツリと嫌な音を立てると、それっきり静かになった。
「……なんて言ったんでしょうか」
半分以上分からなかった。
それでもなんとか、ディアナは聞こえたワードを脳内で組み合わせて、欠けた部分を予測、統合する。
するとこうなった。
『ごめんさい。襲われてヨルンが攫われてしまったわ。気を付けて、聖女ラクシュミが犯人で、教団と手を組んだみたい』
「っ! ラクシュミ様が教団と手を組んで、ヨルちゃんを攫ったのですか!?」
伝えられた言葉は聖女ラクシュミを疑えと言うもの。
思わずディアナは、ラクシュミの居る別室の方角を向いて絶句した。
そして再起動すると、廊下に飛び出して、サナティオの部屋へと飛び込んだ。
「どうした? 騒がしいな、休憩はもう終わりか? まだ貰ったケーキ食べきってないんだが……しかし美味いなこれ、ディアナはもう食べたか?」
部屋では、ラクシュミから貰った手土産のケーキをゆっくり食べる最高天使が居た。
そんなのはいいからと、ディアナは慌てて事情を説明する。
「な、なんだと!!? くそ! 行くぞディアナ! ヨルンを探せ!」
「はい!」
サナティオも驚きを隠せていない様子。
彼女は食べかけのケーキを慌てて口に放り込むと、大股で歩きはじめた。
どうやら、気付かぬうちに教団の手がまた伸びているようだった。




