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短編集

現代人の私は恋愛小説が読めない。

作者: 曽我二十六

 突然の告白だが、私は恋愛小説が読めない。

 読んでいると、辛くなるのだ。

 ハッピーエンドものでも、バッドエンドものでも、自身には全く縁がないからだ。

 主人公やその恋人の織り成す駆け引きや物語を見ていると、どこか羨ましく思えてくる。

 幼馴染だったり、仲良しだったり、いずれにせよ恋人たちの間には意思疎通がある。

 互いの気持ちが分かっているのだろう。

 もしくは分かり合える前提で話が進んでいて、分かり合えなかった時に喧嘩したり、そう思えば最後の最後に分かり合えたり。

 バッドエンドものだって、一番最後には彼女ないし彼氏の気持ちが解き明かされる。

 結局、分かり合えてるじゃないか。


 しかし現実世界に存する私の場合は違う。

 幼馴染もいなければ、仲の良い人もいない。

 表向きだけの人間関係。派閥の間を取り持つような、希薄で広い関係。

 「友達」には「友達」が多いといわれる。

 でも例えば「一番親しい人だけを救えるとしたら?」と相互指名でもしようものなら、間違いなく余り物にされてしまう。


 本音をいえない。

 本音を添えたような弱々しい言葉をたまには吐くが、誰も真意には気付かない。

 気付かない前提で話しているし、気付かれれば人間関係が大きく崩れてしまう事もあるから、気付かれるべきではないのだが、どこか気付いてほしいと思ってしまう。


 ああ、誰か本音をいえる相手がほしい。

 そう思ってもそんな相手が見つかる筈もなく、少女漫画的な出会いもない。

 たまに勘違いを起こして、この人なら分かってくれるんじゃないかと期待する。

 そしてその人を待ち伏せたり、話そうと努力したりと、半ばストーカーまがいの行為にまで走ってしまったりさえするが、結局は上手くいかない。


 義理チョコだって貰う。

 それは義理であって、決して「義理を偽った本命」なんかじゃない。

 しかしそれにあわよくばと期待してしまう愚かな自分がいる。

 この人になら、偽りの仮面を外して、本音の、本当の自分で居られるんじゃないか。

 そう思っても上手くいかない。いく訳がないのだ。


 告白だってされた事はある。

 しかし彼女が好きになったのは偽りの私であって、本当の私ではない。

 彼女に好きで居続けてくれるためには、偽りを演じ続ける必要がある。

 結局、最後は辛くなって、別れてしまう。

 でもそれでいい。

 彼女にとってそれが幸せというのなら、私に邪魔する資格はない。

 だって、そもそも好きで付き合った訳ではないのだから。


 日頃、人前で偽りを演じ続けるのは何の苦もない。

 寧ろ本音を攻撃されないだけあって、心地よいとさえ感じるほどだ。

 ところが一人でこうしてパソコンの画面に向き合っていると、時々発作的に辛くなる。

 人前であればまだ抑えられるが、一人の時は抑えようもなく涙が零れてくる。

 何が辛い、何が苦しいとはいえない。言語化し難い苦しみが私を蝕む。

 20分ほど泣いてしまえば元に戻るのだが、何をする気力もなくなってしまう。


 発作的発涙の前には必ず、目線がどことも向かぬ可笑しな状態に陥る。

 何をするにも手に付かず、物質の先の虚空を眺めるかのような視線。

 そんな時に誰か本音を言える相手がいれば。

 そう思うけれども、誰もいない。

 そこには私一人しかいないのだから。


 人を好きになった事がない。

 この人が可愛らしい、美人だ、イケメンだという美醜の判別は付く。

 でもそういう事じゃない。

 この人じゃないとダメ、この人がいないと生きていけないという人がいない。

 適者生存論的にはそれが最良なのかもしれない。

 経済学的にはそれが正しいのかもしれない。

 失礼な物言いだが、例え少々容姿が劣ってたっていいから、私の感情を理解してくれる人と居たい。

 私の思う事が少しでも分かってくれれば、それでいい。


 恋愛小説や少女漫画には必ず、気持ちを分かってくれる人がいる。

 どんなに辛くても寄り添ってくれる人がいる。

 私は真逆だ。

 些細な事でも浴びせられるのは社交辞令的な心配の言葉だけで、心底心配してくれるかといえば、それは私が居なくて支障が出るからといったような事であるからだ。

 結局皆自分の事ばかり。

 私だってそうだ。

 他人に向ける興味関心などない。

 私が人を好きになれないのと同様に、私を好きになってくれる人はいない。

 だから、私はずっと一人なのだ。


 孤独死について考える事がよくある。

 切っ掛けは祖父の死だ。

 祖父は数年間寝たきりのまま、最後は祖母に看取られて亡くなった。

 でも私の場合はきっと最後まで一人。

 看取られるとしたら看護師か医者だろう。

 自宅で亡くなってしまえば誰も看取ってくれないし、事件や事故であれば誰とも知らぬ加害者か、もしくは警察だろう。


 せめて最期の時くらいは、誰か親しい人と一緒に過ごしたい。例え言葉が交わせずとも。

 親戚なら誰でもという訳じゃない。

 兄弟姉妹やその子供がいれば良いという訳じゃない。

 気持ちを分かってくれる人と一緒に居たい。

 人生で一回くらいは、誰かに分かってもらいたい。

 勿論これが烏滸がましい事で、自己中心的な思想だというのは重々理解しているつもりだ。

 実際にはそんな幻想が成り立つ訳がない。

 自分だけがそんな特別な存在である筈がない。


 科学というものに触れると触れる程に、感情というものが幻想に過ぎないのではないかと思う。

 単なる化学反応。

 もし脳というものを量子レベルで同様に再現する事が出来たならば、多少の量子的揺らぎはあるだろうけれども、1秒後の結果が全く異なるという事はないはずだ。

 ラプラスの悪魔は反証されている。

 しかし、だからといって、人間感情が物質的でない事にはならない。

 人間感情も所詮は物理事象の一つに過ぎない。


 とはいえ、それがこの悲しい現実の慰み事になる訳でもない。

 科学的にどうこうだからと御託を並べた所で、この現実が変わる訳じゃない。

 世間ではよく「家族になら分かってくれる」という魔法の言葉が囁かれる。

 きっと言っている人も薄々気付いているのではないか。

 家族に対して何でもいえる、何でも分かると思ったら大間違いだという事に。


 そんな事を思って検索してみても、出てくるのは厚生労働省の自殺防止ダイヤルの案内。

 そんなダイヤルに掛けて一体何になるというのだ。

 厚労省の官僚に慰められても、赤の他人に言われて何が嬉しい。何が変わる。何が分かるんだ。


 別に自殺しようという訳じゃない。

 たまに車列や駅を見て、ここに突っ込めば楽になるのではとは考えるけれども、死ぬのに人の手を煩わせてはいけないと踏み止まる。

 どうすれば迷惑が掛からないか。

 そんな事を考えているといつも出会う人がいる。

 その人に出会うと、何とか思考を停止できる。

 そうか、この人が私の運命の人か。

 そう思っても、それはシンデレラロマンスに過ぎなかった。


 その人の連絡先を手に入れて連絡するも、1年以上の未読無視。

 そうか、このアカウントはもう使っていないんだ。

 そう納得させる言い訳を思いつくやいなや、プロフィール画像を変えている。

 私は1年もの間、未読で無視られていたのか。

 そうショックを受けても仕方がない。

 だって、私が彼女の立場なら、いきなり連絡先を追加されて「久しぶり」だの「元気」だの訊かれても、気味が悪いのだから。


 現下の騒動はある意味、私を楽にしてくれる。

 人と人との間を切り裂いたこの病は、私に住む空間を与えた。

 人と人の間がくっついて、「人間たち」になってしまうと、私は一体どこで暮らせばよいのか分からなくなる。

 私は人の間に住まう「人間」で、他の人々が「人間たち」になるのを拒んでいる。

 私は人と取り持ったり繋いだりするパーツに過ぎない。

 電池と電球を結ぶ銅線のように。

 直接繋げるのであれば、銅線は要らない。

 この騒動が無ければ、私は要らないものとされただろう。

 自前のパソコンテクニックやIT雑学も全て、必要とされる事は無かっただろう。


 でもこの騒動は延命に過ぎない。

 この病が「人間たち」によって鎮圧されてしまえば、きっと私は居場所を失くす。


 恋愛小説が読めるようになりたい。

 それは、誰か本音でいる事を許される相手がいるという事だから。

 少女漫画に共感したい。

 中に描かれる喜びや悲しみを知りたい。

 私には感情はあるのか。ないのか。

 きっとあるのだろうけれど、そう信じているけれども、誰にも知られない、認識されない、知覚されないのなら、それは無いのと同じだ。

 あるのは嫌悪だけ。

 例えば野原ヒロシの靴下を嗅げと言われれば、誰もが嫌がるだろう。

 私だってそれは嫌だ。

 でも私には、他の感情が欠如している。

 食べ物を食べて美味しいとは感じない。

 感じる人が羨ましい。あるのは不味いか、不味くないかだけ。

 そういう事だ。


 何をするにつけても、喜怒哀楽のうち「哀」はある。

 幼稚園の頃は何か嫌な事をされて怒っていたから、きっと「怒」があったのだろう。

 でも今になっては疲れるからか、「怒」すらない。

 喜びや楽しみもない。

 ドーパミンが足りないのだろうか。

 ドーパミンでも脳に注射すればそういう感情が巻き上がるのだろうか。

 麻薬でもやればいいのか。

 しかしそれは一時的快楽に過ぎない。

 いっその事、一時的でだっていいとすら思える。

 でもそれはどこか後ろめたさがあって、本当に喜んだり、楽しんだりはできないだろう。

 無意識のうちに金銭で買った快楽というものに、どこかで不満足であるだろう。


 恋愛という言葉は「恋」と「愛」に分解される。

 「愛」とは、相手の事を離れがたく思う事。

 「恋」とは、相手に愛される事。

 そう聞いた事がある。

 誰もいない状況では確かにさみしい。

 でも誰かが居ても、知覚する事はないが、さみしい。

 「誰か」ではダメなのだ。

 じゃあ誰ならいいんだという話になるが、離れがたい人はいない。

 来る者拒まず、去る者追わず。これが私の基本原理だ。

 厳密には、不快な「来る者」ならば追い返すが。


 結局、誰でもいいからいけないのだろうか。

 でも、私には誰も相手をしてくれない。

 皆、誰だっていいのだから。

 世界が繋がって「人」が「人間」になるにつれて、人は恋愛が出来なくなる。

 グローバリゼーションの副作用ともいうべきか。


 確かに先の世、先の時代よりは富める世になった。

 しかし同時に、我々は離れがたく思う人、恋人を失ったのだ。

 これが「人」ではなく「人間」になる代償だとするのならば、私は「人」になりたい。

 皆が「人」になればきっと、感情を機械的に捉えなくて済む。


 でもそれは、科学の放棄だ。

 適者生存論的には、「人間」へと進化した方が良いのだろう。

 「人」であるよりもずっと、「人間」である方が都合が良い。

 だから「人間」であるべきなのだが、私は「人」になりたい。


 恋愛小説を読める、読んで感動できる、感情を持つ主体になりたい。

 現実逃避に物書きになって、異世界や別世界の主人公に自らを投影するような、逃避行動で済ませたくない。

 恋愛を理解したい。

 いや、したかったと言うべきか。私にはもう、出来ないのだろうから。

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